第6章 逃げられない!

第38話 何も考えたくない

「本っっっ当にすいませんでした!!!!!!」

 二月十六日午後六時二十分、ついさっきやっとしずくちゃんから解放されたらしい稲葉は、すばるの部屋で土下座をしていた。


 稲葉とはスマホで連絡が取れなくなってしまったので、どうしたものかと思っていた。しかし、稲葉は開放されてすぐすばるの部屋へとやって来たので、そこまで困った事にはならなかった。

 ちなみに稲葉のスマホは俺の予想通り、しずくちゃんに破壊されてしまったらしく、明日代替機を手配するらしい。


「稲葉よ、今度高級焼肉食べ放題で手を打ってやろう」

 肉が食いたい。それも高級な肉を思いっきり。

 稲葉の頭を上げさせ、両肩をがっしりと掴んで俺は言った。


「という訳で、今日の夕食は俺が適当に作ってやるから食ってけ」

 稲葉にそう声をかけたのは、なぜか豪華ホテルで女子高生とよろしくやっていたはずの稲葉がすっかりやつれて帰ってきたからだ。


 とりあえず、話を聞くのは飯の後でいいだろう。

 色々作るのも面倒なので、親子丼と味噌汁だけ作って出すと稲葉は、

「これだよ! こういうのが食べたかったんだよ!」

 と、勢い良くかき込んで食べていた。


「俺は、高級フレンチのフルコースを延々時間かけて食べるよりも、夕食は適当に食べて、その後ゲームしながら夜食にポテチとかつまむのが好きなんだよ! お供は牛乳! コーラでも可!」

 少し食べて落ち着いたかと思うと、急に稲葉はそんな事を言い出した。


 どうやら高級フレンチのフルコースを食べてきたらしい。

 しかし、小さい頃から美咲さんに連れまわされている稲葉ならそれ位慣れてそうなものだが。


「美咲さんに溺愛されてるお前なら、そんなの慣れっこじゃないのか?」

「慣れてても、流石に毎食はキツイし、一切ジャンクフードの無い生活なんて耐えられない……しかも、俺の趣味を理解したいとか言って、しずくちゃんに特に好きな百合アニメを選ばされて、シアターで食事中、食後も延々それを見させられるという苦行付きなんだぜ……」

 なんとなしに尋ねれば、想像するだけでも精神的にキツイ事実が判明した。


「なにそれ辛い」

 思わず俺が呟けば、稲葉は力無く笑って話を続けた。


「しかも俺、百合系のアニメとかホントは全く見なくて全然詳しくないから、とりあえず可愛い感じの絵のやつ選んだら、18禁の結構ディープなやつで……しかも周りにはしずくちゃんだけでなく給仕やお付きの人が結構いて……死にたい」

 両手で顔を覆いながらうなだれる稲葉は、完全に精気を失っていた。


「うわぁ……」

 もはやそんな声しか出ない俺に、更に稲葉は追い討ちをかける。


「悲劇なのは、しずくちゃん、明らかにドン引きしてるのに、自分は受け入れると決めたから。とかって言って、明らかに無理しててな……周りの人たちの視線が辛いし……居た堪れなかったぜ」


 想像してみれば、中々に地獄絵図である。

 その場に楽しんでいる人が誰もいない。

 誰もやめるだなんて言えないし、逃げ出す事もできない。

 ただただ皆どうする事もできずにその悪夢のような時間が過ぎ去るのを待つことしかできないのだ。


「その後も中々地獄でな」

「まだあるのか!?」

 既に現時点でもうおなか一杯であるが、更に稲葉の受難は続いたらしい。


「ほら、俺しずくちゃんをドン引きさせるために、百合嗜好だけじゃなく、女装趣味があるってことになってたじゃん? コスプレとかやってるじゃん? 憶えてるか? しずくちゃんに見せた百合漫画」

 どこか遠くを見ながら稲葉は力なく俺に語りかける。


「食後映画を見終わって、スイートルームに通されて、やっと休めると思ったら、しばらくしてあの漫画に出てくる主人公のコスプレをしたしずくちゃんがやってきてな……しかも俺用に相手のお姉さんのコスチュームまでご丁寧に用意してくれてな」


 しずくちゃんの覚悟の決め方が思った以上にガチでヤバイ。


 しかし、理解できないと言っていたにもかかわらず、そこまで付き合ってくれるんなら、もう本気でしずくちゃんとくっつけば良いんじゃないだろうか。


 普通それ程の包容力を持った人間とはそうそう出会えるものではない。

 なんて、他人事のように思いながらも、稲葉に続きを促す。


「流石に色々キャパオーバー過ぎて、『違う! そうじゃない!』って叫んでしずくちゃんを部屋から追い出して鍵かけたよ。その後は扉の前でしずくちゃんが延々ドアを叩きながらどこを間違ったのか、教えてくれたら直すからとか言ってたんだけど、もう恐くて……」

 ははは、と、稲葉はうなだれたまま乾いた笑いをこぼした。


「軽くホラーだな……」

 それ逆効果だよしずくちゃん……と、俺も稲葉と一緒になってうなだれた。


「一時間位そうしてたら諦めて帰ってくれたけど、翌朝にはマスターキーで鍵を開けて、今度はお姉さんのコスチュームで起してくれてな……なんだか高校時代を思い出して懐かしかったよ……とりあえずそれから十時間近くかけて、そもそも無理に俺の趣味に合わせてくれる必要はないし、むしろその辺は放っておいて欲しいとしずくちゃんを傷つけないように言い聞かせて、今帰ってきた訳だ」

 稲葉はそう言って一息つくと、すっかり冷めてしまったであろう味噌汁をすすった。


「そんな目にあって尚、相手と向き合おうという姿勢は流石だな」

「一応俺に好意を持ってくれた上での行動だし、ちゃんと向き合わないとな。それに、むしろ逃げた方が後々大変な事になる場合もあるからな……」

「含蓄のある言葉だな」


 稲葉は言い終わると残っていた親子丼も平らげた。

 流石、昼ドラのような高校時代を送って来ただけあって、妙な所でメンタルが強い。


「ところで、お前の方はどうだったんだ? 双子への説明は上手くいったか?」

「あー……、なんかちょっとややこしい事になってる」


 そうして俺は昨日の出来事を稲葉に話し、二人して頭を抱えた。


「……そういえばさ、言い忘れてたんだけど、もう一つ報告いいか?」

 二人してテーブルに頭を乗せて倒れた状態になっていると、稲葉が倒れたまま言った。

 俺は、もうここまでくれば何でも一緒だと同じく倒れたまま続きを促した。


「しずくちゃん、こっちに引っ越してくるって……後、今気付いたんだけどさ」

「何だよ」

「お前の弟と妹って今年受験生だよな……志望校って聞いたか?」

「……聞いてないけど、手に取る様にわかるな」

「将晴よ」

「何だよ」

「もうお前が女になってくれたら万事丸く収まる気がする」

「断る。俺は女が好きなんだ」

「だよなー……」


 もう何も考えたくない。

 朝起きたら全ての問題が勝手に都合よく解決してればいいのに。

 そんな事を思いつつ、夜は更けていった。

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