第19話 私にはやるべきことがある
王立学院の中庭、大きな木の陰でノートをとる。
時には退屈な授業もあったが、ここで勉強をしていると仲間に入れた気がした。
隠れていても毎日通えば授業を盗み聞いているリディアナに気づく者もいる。
少年の格好をしたリディアナは、遂に一部の生徒に目をつけられて取り囲まれていた。
「! こいつ、すごいな」
リーダー格の少年は先程からリディアナのノートを勝手に取り上げて読み漁っていた。
読み終えると少年は恐ろしいものを見るような目でリディアナを見た。ごくりと唾を飲み込み、口角を上げて笑った。
「庶民が持て余している才能を俺が価値あるものに変えてやろう」
庶民ではないが、庶民の格好をしているし女とバレたら困るので黙っていた。
「どんなに努力をしても超えられない壁というものがある。この国で学問は限られ選ばれた者にしか与えられない。どんなに努力をしても、お前のような庶民がその頭を生かす場面は一生やってこないんだ」
言われずとも知っている。世界は私を受け入れない。だからなんだというのだ。リディアナは学ぶことができればそれでいい。他はもう諦めた。
「俺がお前を学校に入学させてやろう」
「!」
「俺が代わってお前の知識を役立ててやるんだ。金もやる。なんなら住むところも保障してやろう。だから俺に協力するんだ」
学校に、入れる?
少年が何をしようとリディアナにはどうでもよかった。
「お金も、住む所もいらない。ただ学ぶことを、許して欲しいーー」
誰かに認めて欲しい。誰にも咎められぬことなく堂々と学びたい。
少年はにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。項垂れるリディアナに汚い手が伸びる。
「やめておけ」
その場にいた全員が驚き振り返った。
「な、なんだお前は!」
黒髪の少年は質問に答えずため息を溢した。
「『限られ選ばれた者』がこんな低俗な考えとは呆れるな」
一体いつからそこにいたのか、少年は凛とした佇まいで立っていた。
少年の顔は逆光でリディアナからは見えない。
そうだ……。あの時、あの人に出会えて私の人生は少しだけ明るくなった。
リディアナを囲んでいた少年達は何か言い訳をしながら慌てて去って行った。
残されたのは少年とリディアナ、乱暴に捨てられたノートだけ。
「助けたのに礼もなしか?」
不遜な態度の少年は、落ちたノートを拾いぱらぱらと捲った。
礼?
「なぜ礼をしなければいけないのですか? 彼らは私を認めてくれたというのに。邪魔をしたのはあなたの方です」
「……。あの家は胡散臭い商売ばかりしている。君は利用されかけたのだ」
「だから何だというのです」
「……そうか。君は手段がどうであれただ学ぶことができればそれでいいと申すのだな。頭がよさそうなのに残念なやつだ」
「――っ!」
そっちこそなんて偉そうな奴!
腹を立てているリディアナを無視して少年はまだノートを読んでいた。
「……それ、返してください」
「この温室はおもしろいな。格子を細く組み立てて全面をガラス張りにし日の光を利用して効果を存分に引き出すことで年中植物を育てることが可能……、冬は中に焼き石を入れ温かい状態を保持する……か。これなら季節に関係なく新鮮な野菜が食べられる。いや野菜よりも薬草を育てたほうがいい。薬の供給が安定すれば価格も落ち着き非常時や災害時の生存率も上げられる」
リディアナは口を開けたまま固まった。
驚くことに、彼はノートを見ただけでリディアナの考えていることを瞬時に理解した。
父が医者として薬草の入手に困っている姿を日々目の当たりにしていた。救えるはずの命が、薬が無いことで助けられなかった事もあった。
植物も生き物だから収穫できる時期がそれぞれ違う。それならば一年中収穫できる装置を作れないかと考え、温室の仕組みを作った。まだ想像の段階なので詰めて修正する部分も多いが。
しかしまさかそれを、読んだだけで理解してくれる人がいるとは思わなかった。
ふとリディアナはこの少年に聞いてみたくなった。
「あなたにとっての『宝』とは何ですか?」
リディアナの唐突な質問に、ノートから顔を上げた少年は首を傾げた。それからゆっくり教室の窓に視線を移す。
「ああ、『人類の宝』のことか? イゾラ博士は入学のはじめに必ずその質問をすると聞く」
大きく頷き答えを促すリディアナに、少年は考える素振りもみせずに即答した。
「私にとっては『政治』だ」
少年はノートをリディアナに返して続けた。
「政治というのは一代で事が成るのではないのだと常々気づかされる」
「気づかされる?」
「あー……、父が城で働いているのをよく手伝ったりしている。その時に、先人が土台を作ってくれたお陰で政事がスムーズに運んだりする事がある。つまり、自分の治世で成果が出なくても、いつか花開けばいいと願って土台を作った者がいたということだ。種を撒く者がいて、水をやった者がいて、そして我々の代で花が開く。未来を見据えて己の功績にならずとも子孫のために種を撒いておく。いつか花開く時を待って。その行動は民にとっての宝である。私はそう思う」
リディアナは少年の話を一言一句聞き漏らさぬよう耳をそばだてた。それだけ彼の話はリディアナの興味を引き付けた。
政治もまた、連綿と受け継がれていくのだ。
もう少年に対する苛立ちは収まっていた。
「先ほどの者は君の知識を悪用し、利用しようとしていた。それを容認した君も、知識の尊さを冒涜した愚か者だ」
「知識の尊さ?」
「知識というものも、何もないところから生まれたわけではないだろう? 先人たちの経験や研究が後世に受け継がれたことで今の私たちが何の苦労もなく手に入れられる」
「……」
「その知恵を悪しき事に使う者がいる。知識があっても己の中だけで終わらせる者がいる。学びたい気持ちがあっても知識を得たらそこで満足してしまう者がいる。知識に深く関わる者が皆、仙人のような心持でいるわけではない。では君は?」
「!」
「その知識と才能は何のためにある? 目的無く学べばただの自己満足で終わり誰のためにもならない。その才能をただの無駄遣いで終わらせるつもりか?」
「す、好き勝手言わないでください! 機会を奪ったのは世界の方だ! 私にはその術が無かった! あなた達とは違う!」
心の底から怒りが沸いてなじるように叫んだ。感情のまま憤りをぶつけて泣いてしまいたかった。
「どうすればいいと言うのですか!」
「城で働け。国が君を受け入れよう」
リディアナは耳を疑った。
この人は、一体何を言い出したのだ。
「成人したら城へ来い。私が父に君の話をしておく。その才能を国のため、民のために役立ててはくれないか? 知識というのは人や社会のために使われて初めて意味を成すのだ」
思ってもみなかった誘いに戸惑い、すぐには返事が出来なかった。
「わ、私なんかが国のために働けるのですか?」
少年はリディアナのノートを指差し、「もうすでに人の生活に役立つことを考えている」と言った。
「君にやる気があるなら、私は拒みはしない。その才能は必ずや国や民の財となるだろう」
今まで、こんなにはっきりとリディアナを認めてくれた人がいただろうか。
好奇心のままに学ぶだけで満足していたリディアナを指摘し、呑み込んだ知恵を城で吐き出せと道を示してくれた。
私の力で人々の生活が良くなる。
「私は……、私は皆が平等に学べる世界を作りたいです。貴族とか平民とか男とか女とか関係なく、誰もが学べる世の中を。知識は皆の前では平等であると。そう言える世の中にしたいです」
「ああ。ならば諦めるな。自暴自棄になるなよ」
「ーーっ」
胸が苦しくなる。この喜びをなんと言葉で伝えればいいのか。
陽が傾き、影が移って少年の面差しを照らし出す。
紫紺色の瞳がリディアナを優しげに見つめていた。
私を導いてくれた恩人。
ああ、今なら分かるのに。
あの姿、声、話し方――。
***
「何故今まで気づかなかったのかしら……」
ナナリーが部屋の空気の入れ替えをしていると、突然リディアナがベッドの上で呟やいた。
「お嬢様?」
「……」
ベッドに駆け寄り声をかけたが、眠っている。どうやら夢を見ているらしい。
ナナリーはリディアナの額の汗を拭った。熱は下がらず意識は混濁してずっとこんな調子だ。
「……倒れて当然よ」
ナナリーは机の上に積まれた封筒を整理する。今回の件でお嬢様を案じる手紙ばかりだ。
王太子殿下をはじめ、サラーシャ様やアルバート様、レイニー様にカルヴァン伯爵。料理長や司書、近衛騎士まで身分と職種は多岐に渡り、他にも城で働くメイドや庭師は直接送るのを躊躇ったのか、ナナリー宛にも心配する声が届いている。
体調を崩されたので全てに目を通されていないが、元気になったなら是非読んで欲しい。お嬢様を心配し、お慕いしている者がこんなにもいることを。
昔から、良くも悪くもこの方は人を惹きつける。
「お嬢様の魅力ですかね」
未だ夢の中を彷徨っている主にそっと囁きその手をとった。
熱く汗ばんでいる手を掴み、ナナリーは小さくため息をつく。
これからどうなってしまうのか。
国葬で非難を向けられた中でも気丈に振る舞い、前に進んだお嬢様。そのお姿に驚くと共に感動した。
ここ一年でぐんと成長なされた。
お嬢様はこの国の王妃となるお方だ。この方に一生付いて行くのだと決めたなら、ナナリーも覚悟を持たなければならない。
ふと玄関が騒がしくなる。
時計を確認したら針は深夜をまわっていた。
「?」
客人が来るにはあまりに遅すぎる時間。足音がこちらに近づいてくる。
ナナリーは扉の前に立ち警戒を強めた。
ドアが控えめにノックされ、扉を開けるようジャンの声がしほっと胸を撫で下ろす。
ナナリーが開けると扉の前に立っていた人物に驚き、悲鳴をあげそうになった。
寸でのところで止めた自分を褒めてやりたかった。
***
リディアナの夢の中は騒がしくなっていた。
「こんなところにいたんですか!? 学校中探しましたよ!」
中庭には新たな人物が登場していた。
どうやら黒髪の少年を探しに来たらしい、彼もまた身分の高そうな学生で、息を切らしてこちらへやって来た。
「アルバート。この者の世話をしてやってくれないか。将来見込みのある少年だ。私のことは――」
そう言いながらコソコソと二人で話し始め、リディアナのノートを勝手に渡すそのまま帰ってしまった。
忙しそうに駆けて行ったので足止めしてしまったことに申し訳なさを感じた。
助けてもらったお礼も挨拶も出来ないまま、少年と別れた。
アルバートという学生と二人きりにされたリディアナ。
「あ」
そういえば、リディアナは少年ではなく少女であると言うのをすっかり忘れていた。
「うわ、お前頭いいな。世話って勉強を見てやるのかと思ったけど俺じゃ無理っぽいな。どうしよ」
アルバートと呼ばれた少年がリディアナのノートを読みながらぶつぶつ呟いている。
どうやらこの少年が今後リディアナの面倒をみてくれるらしい。
ならばこのアルバートさん? の誤解を早く解かなくてはならないだろう。
「あのー」
「んー?」
生憎面倒をみてもらうための住む場所も食べ物にも困った事は無い。
リディアナは帽子を取ってまとめていたピンをはずし、豊かな金色の髪を流した。
その姿を目の当たりにしたアルバート少年の、驚愕の悲鳴が中庭に木霊した。
それからリディアナは、アルバートの友達であるレイニーという理解者も得て、三人仲良く充実した日々を過ごした。
いつしか政務官になるという具体的な夢もでき、目標に向かって勉強に励んだ。
将来に絶望することは無くなっていたし、社交界でうまく立ち回れなくても、自分には心許せる友がる。それ以上は必要の無いものと割り切れば楽になれた。
ある日、リディアナがアルバートの部屋でまどろんでいると、妹のサラーシャと話をしてみないかと提案された。
「妹は人見知りが激しくて引っ込み思案なところがある。中々友達ができなくてな。お前となら気が合うと思うんだけど、どうだ?」
「無理。アルは何も分かってないわね。私、同じ歳頃の女の子に物凄く嫌われるのよ」
「だろうな。いてっ! まあ気が向いたらでいいからさ。いつも庭で薬草を育てているから見かけたら声でもかけてくれ」
薬草?
ぴくりと反応してもう一発お見舞いしようと挙げた手をゆっくりと降ろした。
サラに対して始めこそ興味のなかったリディアナだったが、自ら薬草を育てていると聞いて不覚にも興味を持ってしまった。
翌日、アルバートの部屋を抜け出してこっそりサラの菜園を覗いてみた。
数は多くないが丁寧に育てられた薬草が本当に並んでいる。
「……ああ、なるほど」
薬草の種類と効能を一つ一つ確認して、リディアナはエルドラント家に戻った。
ランズベルト邸に戻ると、菜園に侍女を連れた小柄でかわいらしい少女が佇んでいた。
一目でその子がアルバートの妹でサラーシャだと気づいた。
「あ! これ! トトリスといって、花にはリラックス効果と睡眠効果があるの」
「「……」」
息をきらしたリディアナの登場に、サラと侍女は目を丸くし固まっていた。
我に返ったリディアナは、先程までの勢いは消えて言い訳を始める。
「わ、私の父は医者で薬草学の研究もしているの。家ではたくさんの薬草を育てているから、よかったら、もらって……」
最後の方は声も消え消えに細くなっていく。
「……リディアナ様?」
そこで初めて名乗りもせずに話しかけていたことに気づき、失態を犯した羞恥でいたたまれなくなったリディアナは、苗を無理やり押し付けて一目散に走って逃げた。
「サラはきっと喜んだはずだよ」
アルバートの部屋で蹲って落ち込んでいるリディアナに、レイニーが優しく励ましてくれる。
「あいつはお前の粗相なんて気にしない」
「二人は男の子だからわからないの。女の子って凄くめんどうくさくて毛色の違う子を疎外するのよ。名乗らずに突然苗を突き出したのよ? 絶対おかしな子だって思われた。別に、嫌われたっていいけど。私には二人がいるし。女の子の友達なんてつかれるだけだもの……」
言葉とは裏腹にどんどん落ち込んでいくリディアナに、二人が困った顔を見合わせた。
扉が控えめにノックされ、アルバートが開けると顔を赤く染めたサラが立っていた。
「!」
「お邪魔をしてすみませんお兄様。こんにちは、レイニー様、リディアナ様。あの、お兄様、リディアナ様と…………おおお茶にお誘いしてもいいかしら」
「おおお茶だってよ」
今度はリディアナが固まってしまう。
「……」
「……」
「確かに女は面倒だな。サラ、仲良くなりたいなら様は付けるなリディアナって呼んでやれ。妹はお前がここへ遊びに来るたびにお前のことを聞いてきて、自分で声をかけろと言っても恥ずかしいから無理だと喚いて後はお前らあっちで話して来い。俺はもう面倒くさい」
言うとアルバートはソファに横になってしまった。
サラはアルバートの暴露に顔を真っ赤にして俯いてしまい、リディアナは戸惑って動けずにいた。
レイニーが二人の様子に笑って助け舟を出してくれる。リディアナの肩をそっと押す。
振り返ると「大丈夫」と微笑み、アルバートは「行って来い」と寝そべったままひらひらと手を振っている。
両手を組んで小さく頷いた。
重い足取りで部屋に案内されると、可愛らしくて女の子らしい部屋に後悔が押し寄せた。
今までの経験上、こういったお洒落で可愛くキラキラした部屋を好む子は、絶対にリディアナを好きにならない。
立ちすくむリディアナにサラはお茶を勧めてくれた。
「あの、苗をありがとう。きちんとお礼を言えなくてごめんなさい。とてもうれしかったわ」
「あれは、私が立ち去ってしまったから……」
ぶっきらぼうに答えてしまったが、サラは気にした様子もなく早速苗を植えたのだと話してくれた。
本当に喜んでいるようで安心する。
「なぜ薬草ばかり育てているの? どこか身体が悪いの?」
気になったので訊ねたが、サラは首を横に振り否定した。
どこか遠くを見つめ悲しげに微笑んだ。
リディアナが知る女の子達は綺麗な花は好きだが草には興味は無い……はず。
「あ、もしかしてサラは医者になりたいの?」
思いついたまま口にすれば大きな瞳が更に見開かれていく。
あ、また余計なことを言ってしまった。
自分の父親が爵位を持ちながら医者という肩書きも持っているため、その辺の感覚が麻痺していた。
公爵家の御息女が医者とは、今度こそ呆れられたに違いない。
しかしサラは「ふふふ、それも素敵ね」と言って気を悪くした様子はなく笑っていた。
メイドが二人の前に分厚い図鑑を持ってくる。サラは図鑑を手に取ると、パラパラとページをめくり先ほど送ったトトリスの花を開いて読み始めた。
「葉の部分を煎じるとリラックス効果がある……」
「ええ。だけどそれは少し古い本ね。最近の発見で茎の部分も加えると睡眠効果もより得られることがわかったの。茎は苦味が強いから一度炙って乾燥させると和らぐわ。トトリスの花は単体で使うよりは他の薬草と一緒に使うとより効果を発揮してくれる。さっき花壇を見させてもらったけど、沈痛や胃腸に効くものや滋養強壮が多いわよね。直接効果が出る薬草ばかり育てているようだから、トトリスの葉も一緒に服用するとより効果が得られるはずよ。どの薬草とも相性がいいとても万能な草だから、よかったら育ててみて」
あ、しゃべり過ぎたかもと焦るが、サラは目を輝かせたてリディアナの両手を取った。
「すごいわ! もしかして花壇の植物全て分かるの?」
本は大抵一度読めば覚えることができたし、父親の職業から実物を見る機会も多く、屋敷にはその手の本がたくさんあった。
「よったら、今度持ってこようか?」
提案したらサラは喜んでくれた。
今度だって。約束なんて初めてした。
それからサラはリディアナの話を飽きるどころか楽しそうに聞いてくれた。
結局アルバートが帰りの時間を知らせに来るまで、おしゃべりは続いた。
帰りに「またね」とサラが手を振ってくれる。
また会いに行ってもいいのか。
興奮したリディアナは今日の事を早速両親に話した。
リディアナに友達ができた。
何も知らない人が聞けばたったそれだけのことなのに、リディアナにとっては大きな出来事だった。
母の目にはうっすら涙が浮かび、父は優しく微笑み二人はリディアナを抱きしめてくれた。
温かい腕の中でリディアナも嬉しかった。
侯爵家の娘として生を受け、不出来な娘でずっと両親に負い目を感じていた。
公爵令嬢であるサラの存在は、令嬢として生まれた自分を少しだけ認めてもらえた瞬間だった。
***
夜になると熱も高くなり体が痛くて自由に動かせない。
広い部屋に一人でいるのはひどく心細く不安に駆られる。
意識は朦朧とし、眠っているのか起きているのか自分でも分からない感覚の中、何度夢と過去を行ったり来たりしたか。
リディアナはうっすらと目を開けた。
ナナリーがドアの所で誰かと話している。
「……」
どれくらい眠っていたのだろう。今は何時だろうか。まだ頭がぼうっとする。瞼が重い。何の話をしていた? 薬草の話? 違う。あれは過去の夢で……、そうだ。
あの日サラという親友を得て、貴族の娘として生きてもいいのだと存在を許してもらえた気がした。
サラとの友情に一歩踏み出せたのはアルバートやレイニーのおかげで、アルバートに出会えたのはあの人のおかげ。
あの日、中庭での出会いがなければ今の私はいなかっただろう。
あの人に出会えたから政務官になる夢ができて、自分らしく生きることを諦めずに済んだ。
感謝してもしきれない私の恩人。
そんな大切な人を、なぜ今まで忘れていたのだろう。
それだけ毎日が楽しく充実していたのね。
ああ、会いたいな。
もう一度会いたくて、夢に見たくて、まどろみに意識を預けた。
額に冷たさを感じて重い瞼を開けた。
誰かが横で動く気配がする。ゆっくりと首を動かすと、そこにはいるはずのないルイスの姿があった。
ルイスはベッドの側にある椅子に座り、心配そうにリディアナを窺っていた。
「……夢?」
また過去の夢へと戻ったのだろうか。
それならよかった。あなたにもう一度会えた。
ルイスはばつの悪そうな顔をすると、リディアナに優しく囁いた。
「夢、ではないな。悪い。起こすつもりはなかった」
「……え?」
これは、夢ではない?
リディアナは目を見開いてもう一度ルイスを確認する。先ほどまでの少年の姿が青年へと変わっている。
本物?
本当にルイス様?
リディアナは布団から手を出して確かめるようにルイスの腕を掴んだ。
ルイスは少し驚いた顔をしてこちらを見ていたが、視界がぼやけてよく見えない。
あの心地良い瞳と目を合わせたいのに、どんどん涙が溢れてくる。
「どうした? どこか傷むのか?」
慌てて人を呼ぼうと立ちあがるルイスに、腕を掴む手に力を入れて制した。
「熱で心細くなったか?」
それにも首を振る。ルイスが困った顔でリディアナを見つめていた。
「ごめんなさ……。忘れていて……」
声が震えて後がうまく続かない。
ルイスはリディアナの言葉を待ってくれた。
「あなたが私を見つけてくれたから、私は、私の生き方と、大切な友人を得られたのです」
溢れる涙は目尻から零れ枕を濡らしていく。
「あなたに出会えてよかった」
わからなくていい。伝わらなくていい。ただありがとうと、もう一度会えて伝えられることが出来てよかった。
ルイスは困惑しながらも目尻の涙を優しく拭い、頬をたどって撫でた。
冷たくて心地のいい掌に涙を隠す振りをして頬を摺り寄せた。
「リディ……」
もう片方の手が頭を優しく撫でる。
自分の名を呼ぶ甘い声が心地よくて、幸せで、このまま時が止まってしまえばいいのにと思った。
胸が熱くて苦しくて、引きちぎられるように痛く切ない。
その言葉だけで、もう他には何も求めはしない。
「何も心配は要らない。余計なことは考えるな」
「……」
リディアナは泣きながら笑ってしまう。やはり言葉にしなくても気づいてしまうのね。
「ごめんなさい……」
「謝るな。誰に何を言われても、私の気持ちは変わらない」
ごめんなさい。だけどもう決めたのです。私の恩人にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
だけど別れの言葉は言えなくて、頬にかかる掌に顔を埋めた。
ルイスの腕にしがみついて心の中で何度も謝った。
これが最後だからと自分に言い訳をして、ルイスに甘えた。
心配そうに頭を撫でる大きな手と心地のいい温もりの中、リディアナは意識を手放した。
翌朝、目覚めるとルイスの姿は無かった。そして昨日までの熱は嘘のように下がっていた。
あれは夢だったのか現実だったのか。あえて屋敷の者に確認はしなかった。
すぐにベッドから起き上がり、覚悟が鈍らないうちにペンを取る。
手紙の宛名は国王ルイス。その内容はリディアナが婚約を破棄したい旨をしたためたものだった。
返事はすぐに来た。答えは否。
ルイスはリディアナを見捨てる気はないという。
『きちんと話がしたい』
ルイスの真摯な切実とした文に胸が締め付けられる。
罪悪感に苛まれながらもリディアナは返事を書かなかった。
代わりに着替えをして出かける用意をした。
病み上がりのリディアナにナナリーは何か言いたげだったが、そのまま黙ってくれていた。
母にはあえて何も告げず、共も護衛もつけずにこっそりとエルドラントの屋敷を抜け出した。
私にはやるべきことがある。
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