第2話 変わり者侯爵令嬢
フェルデリファ王国の空を一羽の鳥が優雅に飛んでいた。
鳥は羽を休めるためお気に入りの庭に降りると、危険がないことを確認して木の枝に移動した。
窓の中にいる少女を警戒し首を傾げる。こちらに気づきもしない少女は、いつものように読書に夢中のようだ。
鳥は警戒を緩めて羽を啄ばみしばしの休息をとる。微動だにしない少女を不思議そうに見ながら、再び大空へと飛び立っていった。
「――様」
「……」
「お嬢様」
「ん?」
「お嬢様、お時間です」
私室で調べ物に耽っていたリディアナは、読みかけの本から顔を上げた。
「ああ……、ナナリーもしかしてずっと呼んでいた?」
「はい。廊下で三度お声かけしても返事がなかったので、言われた通り部屋に入り気づかれるまで呼び続けました」
リディアナは一度集中してしまうと周りの声が聞こえなくなる性質なので、用がある場合は侍女や屋敷の使用人にはそうするよう伝えていた。
「それで、今日は何だったかしら」
本を閉じたが頭の中はまだ現実に戻れていない。膨大な情報を処理していたせいか頭の回転は鈍く、胡乱な目で欠伸をした。
何か用事があってナナリーに時間になったら呼ぶよう頼んでいたはず。がちがちに固まった体をほぐすように伸びをすると、乱雑に積み上げられた本のタワーは弾みでぐらついた。
「街へ買い物に行くと仰っておりました。旦那様と奥様が出かけられたら教えて欲しいと」
そうだったと思い出し慌てて立ち上がる。机の角に足があたり、積み上げられた本がさらに揺れた。ナナリーが慣れた手つきで手早く整理し、本棚にきれいに戻していく。
「お嬢様は一日中本を読んで疲れないのですか? 私なら数ページで寝てしまいます」
リディアナがほぼ徹夜で読み漁っていた本は、詩集や小説ではなく図鑑や伝記などの専門書ばかりだ。
ナナリーが手にしていたのは『南東の島々に自生する植物』という本で、著者のダドリー=ラマが自らの足で新種の植物を発見して本にまとめたものだ。彼は植物界の第一人者で、冒険譚ではなくともその膨大な知識に子供の頃はわくわくしながら読み漁ったものだ。
「気になることがあって調べていたの。既存の図鑑には載っていなくて関連書を手あたり次第漁ったけど手がかりなしで。ダドリーの本を見つけたらとまらなくなっちゃったわ」
話しながらリディアナはナナリーの手も借りずに一人で着替えを済ませた。おおよそ侯爵家の令嬢とは思えない簡易なワンピースに身を包む。
「半年前にレイニーから外国の珍しい花を譲られたでしょう? それがこの秋に寒さで根枯れしそうになったから温室に移しておいたの。元気を取り戻したから南国の植物のようなの。名も無き花が気になって調べてみたんだけど、国内の図鑑では外国の植物を調べるのには限界があるわね。お父様の資料でも収穫なし。ダドリーの著書にも載ってないとなるとお手上げよ」
政治や商売が目的で国を行き来する者はいても、まだ世界は封鎖的で純粋に探求しようという冒険者や旅行者は少ない。
大昔は領土の奪い合いで戦争が起こったが、現在は争いを避けるため不干渉を推進しており、国同士が封鎖的だった。
なにも奪い合うためではなく、祖国の発展のために国同士が交流して知識や技術を学ぶことも可能だろうに。
「貴族はもっと研究者に投資して世界を開拓していくべきよ。何なら私が行きたいくらい。必ずや我が国の発展にーー」
「髪は如何なさいますか?」
脱ぎ捨てた寝間着を丁寧に拾い上げ、ナナリーが髪を結おうとしたが断る。きっちり結ぶのは好きではない。
「温室といえば、今年もおいしい野菜が出来たと料理長が喜んでおりました。さっそく昼餐でいらしたお客様に振舞いましたところ、旬の物を年中提供できるエルドラント家の料理は素晴らしいとお褒めに預かりました」
「今の時期は根菜ばかりで新鮮な葉物は市場に出回っていないからね」
部屋を出て廊下を進む。
「家令のジャンがこの機に温室を事業化してはと申しておりました」
「残念ながら、既にお父様にお願いして城にも温室を作るよう陛下に進言していただいたわ。試験的に使っていた我が家の温室も順調だし、城での利用で価値が見出されれば、設備はあっという間に広まる。あと十年もすればたくさんの家でも使われるはずよ。こういう民の生活を豊かにするものは独占事業にして利益を得るのは良くない。国が推進していくのが望ましいと、お父様も同じお考えだったわ。家を潤わせる件なら別にあるわよってジャンに伝えて」
スラスラと答えるリディアナにナナリーが頷く。
難しい本を読み漁り、家業にアドバイスまでするリディアナは、これでも社交デビューもまだ済ませていない弱冠十五歳の少女であった。
フェルデリファ王国は階級制である。
貴族と平民に分かれはするが、基本全ての国民に労働が義務付けられている。とはいっても貴族のほとんどは王城に出仕し、国の要職について政治の中心で働いている。平民と違い国からの莫大な給金が毎月保証されていた。
しかし変わり者と言われるエルドラント侯爵家は、家長の考えからその支給された給金をほぼ手つかずで民へ還元していた。
父であるトマス=エルドラントは、侯爵の地位にありながら医師の資格を持つ異色の経歴の持ち主である。
要職の医薬大臣を務め、名ばかりでなく医師として現役で活動していた。
父は給金のほとんどを薬に代え、郊外の貧しい地方の病院へ分配していた。もし父が王都以外にも薬を回さなければ、ただでさえ貴重な薬が更に入手困難で高値になり、貧しい者は治療を受けられなくなるだろう。それでも辺境の地へ行けば薬など手に入らないのだが……。
父の行いは素晴らしいと思う。
しかし貴族として維持するためのお金は絶対的にある。
そのため、国からの給金を当てに出来ないエルドラント家は、様々な事業で収入を得て家計をまわしていた。
そして当の父はお金儲けに興味が無い。古くから仕える家系のジャンは、そういった管理を父に代わり母と共に任せておける信頼のおける者だ。守銭奴なところもあるが。
「飛んで来そうなので後で伝えますね」
たしかに、せっかくのお出かけの邪魔はされたくない。ナナリーの返答に声を立てて笑い、リディアナは馬車へと乗り込んだ。
フェルデリファ王国は全ての土地が王の統治下に置かれていた。
海に囲まれた広大な土地は、他国からも一目置かれる大国である。そのため国はいくつかの領に分かれているが、その領を治めるのもまた国であるため、三年の任期で派遣された領主が、それぞれの領を納めていた。
外国には代々からその地に住み守る領主という貴族もいるらしいが、フェルデリファ王国はそうした制度から、国の貴族のほとんどは政の中心である王都に居を構え、別荘として地方に屋敷を持つ者が多かった。
そんな貴族の多くが王都に住んでいるのが当たり前の中、変わり者のエルドラント家当主は、代々続く王都の屋敷へは住まず、別荘として使われていた遠い土地で長らく暮らしていた。
侯爵家の一人娘として生まれたリディアナは、両親の愛情を一心に注がれ、広大な土地で伸び伸びと育った。
たくさん本を読み『知る』という楽しみを覚えると、世界には自分の知らないことが無限にあるとのだと心が開放された。溢れる好奇心は止まることを知らず、自ら調べ、体験して習得しないと気が済まない性分になった。
ドレスや宝石で着飾ることより、外へ出て乗馬や木登りをするのが好きで、毎日本を読んでは探検に出かけ、泥んこになって帰ってきてはたまに来るお客様に男の子と間違われることも珍しくなかった。
家督を継ぐのも王城に出仕するのも男であるため、女である自分には最低限の勉強以外は必要の無いものだった。それでも、周りから呆れられても、学ぶのを止めることは出来なかった。
そんな自由な生活も、リディアナが十歳の時に突如終わりを迎えた。
父が医薬大臣に就任し、その都合でリディアナも王都の屋敷に移り住むことになった。
王都へやってきて両親は、まず初めに自分達の娘があまりにも他の令嬢とかけ離れて自由奔放なことに気づいた。
両親も田舎暮らしで感覚が麻痺していたようだ。
焦った両親はリディアナから本を取り上げ、学ぶことを禁じた。
いっぺんに世界は変わってしまった。
好きなものを奪われ、令嬢として振る舞うよう強いられたリディアナ。彼女にとって王都での暮らしは苦痛でしかなかった。
長らく反抗し、やさぐれた時期もあったが、リディアナの考えを理解し道を開いてくれた恩人に出会ったことで、今ではそれなりに楽しく過ごしている。
馬車は王都に隣接するマルヌマの街に到着した。
マルヌマは商業が盛んな街で、王都からも馬車で十五分と利便性もよく、最近王太子が進めた街道の整備で更に人の足はマルヌマへと向けられた。
飲食店や屋台がひしめくサヌマ通りと、その先にある貴族階級向けの高級洋装店や宝石店が並ぶマルク通りが二大大通りとして有名である。
どちらの通りも人と物で活気に溢れ、リディアナは人々が生き生きと行き交うこの街が好きだった。
そんなリディアナの本日の格好は、侯爵令嬢でありながらドレスは膨らみの少ない簡易なもので、足元は動きやすさ重視の底の低いブーツを履いている。緩くウェーブのかかった白金の髪は、結ぶのが面倒で無造作に流し、傘も帽子も被らず日焼けするのもお構いなしだ。
すれ違う人々の誰もが侯爵令嬢が歩いているとは気づくまい。
紐で括った数冊の本を腕に抱え、リディアナは上機嫌に歩いていた。
次の目的地へ向かっていると、前から来た馬車がリディアナの横で止まった。
往来の多い店先で渋滞を引き起こそうとしている馬車を怪訝な目で見る。
窓が開き、中から煌びやかな飾りを纏った少女が姿を現した。
「誰かと思ったらリディアナ様ではないの。こんなところで偶然ね」
彼女はマリアーヌ=ロンバート。リディアナより二つ年上の伯爵令嬢だ。
位はリディアナの方が上だが、ロンバート家は建国から続く名家なので対等な関係だ。
マリアーヌが言うこんなところとは一般階級の集まるサヌマ通りを指しているのだろう。
簡単に挨拶を交わしてすぐに立ち去ろうとしたのだが、マリアーヌは何か話があるらしく呼び止めた。
「もしや自ら歩いて行かれるの? 侯爵家は主人に馬車の用意もしていないのかしら。御可哀想に」
やはり無視すればよかったと後悔する。
「よろしければ当家の馬車で送りしましょうか? 実は私、殿下の婚約者候補に選ばれましたの。大変名誉なことですしもちろんお受けしましたわ。そうすると必要なものがあるでしょう? お父様が呼ぶ仕立て屋ではちょっと古臭いので、マダム・ペパでドレスを仕立てに行くところですの。よかったらあなたもご一緒にいかが?」
長々と興味のない話につき合わされた挙句、ちらりとリディアナの簡易な格好と手に抱えている本を侮蔑の目で見られた。
これは善意ではなく自慢と嫌味だ。リディアナも王都にやってきて五年。自分に向けられる悪意も感じ取れるようになっていた。
「それはよかったわね」
至極興味の無い声でお祝いを述べる。王子の婚約者なんて強がりでもなんでもなく本当にどうでもよかった。
「折角のお誘いだけどお断りするわ。私は婚約者候補に選ばれていないし、無駄遣いもしたくないの。それに馬車は近くの広場に置いてきて歩いて行こうと言ったのは私なのよ」
侍従から店の前まで馬車を移動させるという申し出を自ら断っていた。
「買い物に来る度に思うの。馬車が店先で何時間も止まっているからいつも道は大渋滞。広場があるのに我が物顔で車を止める貴族のなんて身勝手で愚かなこと! この際規則を守らない馬車には罰金を科したらどうかしら。医者や憲兵が乗る馬車はその対象では無くし、周遊する乗合馬車を公共の事業に取り入れれば――」
窓が閉まる音と共に、ガタガタとマリアーヌを乗せた馬車は行ってしまった。
「あら、伯爵令嬢が挨拶もなし?」
「お嬢様、また途中から自分の世界に入られておりました」
ナナリーの言葉に苦笑する。考えに没頭するのは悪い癖だ。
すると今度は後ろから拍手と共に、見覚えのある青年が一部始終を見ていたのか笑いながら近づいてきた。
「あらレイニー」
「ごきげんようリディアナ」
この容姿端麗な青年は、レイニー=ドゥナベルト。伯爵家の令息でリディアナの数少ない友人の一人だ。
リディアナのような変わり者には友達は数えるほどしかいない。
引っ越し当初は失敗ばかりで、同性の子共達に嫌われてしまい落ち込んだが、レイニー達に出会ってからは笑顔が戻るようになった。
歳はリディアナより二つ上で物腰の柔らかい頼れる兄のような存在だ。
「買い物にお付き合いいたしましょうレディ」
わざと気障な言い方をしてさりげなく差し出す腕は、十五の少女の頬をすぐに赤く染めてしまう。
もう一人の友人であるアルバートと違い、レイニーはいつもリディアナを女の子扱いしてくる。普段の大人びた物言いとは逆に、この手のことは年齢以下になってしまうリディアナ。
「ちなみに僕も馬車は広場に置いてきたからね」
片目をつぶって微笑みかけるとリディアナの手を優しく取り、自分の腕に絡ませて歩き始めた。
楽しそうなレイニーにリディアナは戸惑いを隠せない。
レイニーはリディアナを妹のように可愛がってくれるが、彼はこの容姿もあって令嬢達から大変人気がある。こういうことをされるとやっかみを受けてしまうのだ。
周囲をさりげなく気にした後、ちらりと横を歩くレイニーを見上げた。さらりとした薄いブラウンの髪を揺らし、視線に気づくと優しげな目で微笑まれた。身長はすらりと高く流行の服を上品に着こなし、華美になり過ぎないアクセサリーはレイニーの魅力を十分に引き立てていた。
これはモテないわけがない。
それに比べて自分は、お世辞にも美人とは言えないどこにでもいる平凡な顔立ちだ。纏う服も簡易なもので、髪も無造作に流している。
並んで歩く二人はなんとちぐはぐに映ることか。
「手始めに宝石店に行きましょうか? それとも流行のドレスを先に? もちろん僕からの花束のプレゼントは受け取ってくれるよね」
リディアナは思わず笑ってしまう。これは嫌味ではなく冗談。
「宝石店やドレスよりも雑貨屋に行きたいわ。ベンのお店に行って頼んでいた南国のハーブを受け取るの。その後は日用品と今制作中の実験道具の発注を。それからマルク通りの本屋にも行きたいわ。帰りはサラベスのアーモンドパイを買ってね。その前に小腹がすくから屋台に寄りたいわ。あ、屋敷の皆にお菓子のお土産を買わないと。花束よりも薬草の苗なら喜んで受け取るわよ。親切な荷物持ちさんがいると助かるわね、ナナリー」
「そうでございますね」と、後ろに控えるナナリーも同意する。
笑顔が固まるレイニーにリディアナは声を立てて笑った。
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