第41話 レイニーの過去2
リディアナとの出会いから三年が経ち、レイニーは十五歳になっていた。
週の四日は学校へ通い、家族と過ごす時間が減ったことで虐待の頻度は減っていった。
学校へは人脈作りの為に通い、父と懇意にしている家紋の子供達と上辺だけの付き合いをしていた。
無気力で無機質な学院生活。
窓際の席でノートを取る振りをしながら、さらさらと景色を描く。
空けた窓から強い風が吹き、何人かの資料を巻き上げると教室の中はちょっとした騒動になった。
突風で生徒たちがこぞって立ち上がり、紙を拾ったり窓を閉めたり、関係ない話をし始めて教室は不規律と化した。
隣の席の男がこちらを覗き込んでいるのに気づく。
レイニーのノートもぱらぱらとめくれてしまい、運悪く落書きを見られてしまった。
レイニーはノートを慌てて閉じ、窓の向こうに視線を逸らした。
授業が再開され、隣りの男アルバート=ランズベルトも前を向いた。
外へ顔を向けると、木陰からコソコソと動くものが視界を掠めた。
「?」
気のせいかと思ったが、よく見ると木の陰に少年が隠れている。少年はノートとペンを持ち、耳を澄ませて授業を聞いていた。
入学を許されない平民の子供かと、さほど気にせず視線を戻そうとしたその時だった。
外では再び突風が起こり、落ち葉と共にいたずらに少年の帽子を吹き飛ばしてしまった。
帽子の下から長い白金の髪が零れ落ちる。
見開かれた青色の瞳が、レイニーに過去の記憶を呼び覚ました。
「どうした?」
レイニーは机に突っ伏していた。アルバートが心配するのを大丈夫だと手をかざして答えた。
彼女だ。
リディアナ=エルドラント。
レイニーは直ぐに気付いた。忘れもしない。リディアナは驚くことに男装をして学校に潜り込んでいた。
彼女の姿を再び目にし、幸福感で胸がいっぱいになった。リディアナの行動に呆れながら口元が緩む。彼女の背中には未だに羽が生えていた。
リディアナはあの頃と変わらない自由で真っ直ぐな女の子に成長していた。
その日から無気力で無機質な生活に命が宿った。
リディアナは男装しても愛らしく、とても魅力的になっていた。
レイニーはリディアナの姿を探しては遠くから彼女を見守った。
しかしレイニー気付いたように、いつしかリディアナの存在に気付く者が現れた。
ある日、リディアナの元へ数人の生徒が近づいていくのが見えた。彼らはリディアナを取り囲み、彼女のノートを奪い取った。
「!」
慌てて中庭へと向かう。関わらないと決めたのに見過ごす事は出来なかった。
息を切らして中庭へ続く扉を開けると、前から意外な人物がやってきた。
ルイス=フェルデリファ。その名に国の名を刻むフェルデリファ国の王太子だ。
まさかこんなところでお会いするとは。足を止め緊張したまま礼を取る。
若き王子は政務に精力的で、国の重要施設に視察に行くと聞いた。だが護衛もつけずにこんな所で何を? と疑問が過ったがそれどころではない。王子が通り過ぎるとリディアナの元へと急いだ。
中庭に到着すると、先程の不審な生徒達は去った後で、替わりにアルバートがリディアナと話をしていた。
「困ったな。俺が教える必要あるか?」
「困るのはこっちだ。政務官になるため色々教えてくれ」
よく分からないが会話で何となく話の内容を掴むと、二人の中に入っていった。
「僕が教えようか?」
レイニーを不思議そうに眺めるリディアナ。
彼女はレイニーを、あの時の少年だと気づいていないようだった。それもそのはず三年の間にレイニーの背はすらりと伸び、高かった声は低く、髪色も色素が薄まり昔の面影はない。だがそれでいい。あんな失礼で悲しい出会いは忘れてほしかった。
もう一度、最初から君とやりなおすため、今度こそ自分から名乗り手を差し出した。
そこから三人の友情が始まった。
リディアナはあの頃のまま好奇心旺盛で意志が強く、いつも無茶ばかりしていた。
レイニーがとっくに諦めて捨てたものを、リディアナは今も手放さずもがいていた。
令嬢として政務官を目指すと言い、そんな彼女をレイニーは陰から支え見守ろうと誓った。
「そりゃ教えたお前が悪いわ」
「なんでよ! 事実を教えただけじゃない」
「事実だとしてもわざわざ傷つける必要があるか? 正論に目が行き過ぎて人の心に無頓着なのはお前の足りない所だよ」
「っそうかもしれないけど、アルに言われると腹が立つぅぅ」
アルバートとリディアナは何かとぶつかることが多かったが、喧嘩をしても似た者同士の二人は気が合うようだ。
乗馬をしたり、剣術の稽古をしたり、予定がなくてもいつのまにかアルバートの部屋に集まり三人でいるのが当たり前になっていた。
ある晴れた日の気持ちのいい午後、ランズベルト邸のアルバートの私室で三人はいつものように集まっていた。
アルバートは夜遊びの帰りで昼寝をし、リディアナは読書、レイニーは絵を描いて三人三様に過ごしていた。
レイニーの使っている画材道具一式は、リディアナから誕生日に贈られたものだ。
『悩んでいたらアルが喜ぶからこれにしろって』
いつだったか風で舞い上がった落書きを見られたことを思い出す。アルバートが覚えているのが意外だった。
しかし描いた絵を持って帰るわけにもいかず、プレゼントの用意をしていないアルバートに半ば強制的に部屋の一画をアトリエにする許可を取り付けた。
大きなキャンバスに線を描く。線に色が乗る。ここでなら誰にも咎められはしなかった。
ドサリ。
物々しい音に驚いて顔を上げる。
ソファに寄りかかるリディアナの手から、分厚い本が落ちた。
リディアナが読書中に寝るのは珍しい。向かいではアルバートが既に寝息を立てて横になっている。
部屋には心地よい風が入り、春の暖かな陽気に二人は眠りを誘われたようだ。
アルバートからずり落ちているブランケットを奪い、リディアナにそっとかける。そのまま紙とペンを持って彼女の前に腰を下ろすと、さらさらとスケッチを始めた。
シャッ、シャッ。
軽快なペンが紙の上を走る音。もう癖みたいなもので、描きたいと思えば衝動的に手が動いてしまう。
無防備に眠るリディアナは天使のように愛らしい。
集中して書いていると、ふと視線を感じて顔を上げた。いつのまにかリディアナが目覚めていて、まだ眠いのか目を擦っている。
「みせて……」
舌っ足らずな声でねだるリディアナに、書きかけの絵を渡し反応を待った。
彼女はあの頃と変わらない笑顔で、「素敵ね」と呟くと、レイニーに絵を返し再び微睡みの中に身を委ねた。
レイニーの心臓は驚くほど高鳴っていた。
きっと赤くなっているだろう顔を誰に見られなくてよかった。
もう自分でも自覚していた。
リディアナが好きだ。
君の笑顔を守ってやりたい。
***
「お前がいれば苦労せずに女の子が寄ってくる」
アルバートはご機嫌にそんな事を言ってはレイニーをパーティーに連れ回した。
「今夜は嫌な酒だったな」
窮屈な夜会もアルバートと一緒だと楽しかったのだが、早々に女の子と姿を消した奴のせいで一人になってしまった。そうなるとアルバートの友人からやっかみを受け、レイニーの派閥の友人も応戦したりと、ちょっとした諍いが起きてしまった。
それも仕方ない。アルバートは筆頭公爵家の嫡男にして宰相の息子。その宰相を目の敵にしているのがレイニーの父親である。
まさに二人の親は政敵であり、真っ向から対立する派閥だった。
「途中で帰るって酷くないか?」
バルコニーからアルバートの声がして思わず足を止める。
「やけ酒につきあってくれよー」
どうやら一緒に抜け出した令嬢に逃げられ、一人戻ってきたらしい。先程レイニーに絡んだ友人らに愚痴っていた。
「あの子俺じゃなくてレイニーが良かったんだってさー」
「随分レイニーと仲がいいじゃないか」
愚痴るアルバートを慰めていた仲間の一言を皮切りに、不満が次々出てくる。
「大丈夫なのか?」
「何が」
「ドゥナベルト家は我々とは敵対する派閥だ。友になる者は今から選んだ方がいい」
そのまま通り過ぎればいいものを、思わずカーテンの裏に隠れて立ち聞きをしてしまう。
「どうやら俺の人生は君達にも分かる通り既に決まっているらしい」
アルバートはバルコニーの手摺に寄りかかり、グラスを持ったまま両手を大仰に掲げてみせた。
「将来の選択肢はどんどん狭まれていく。仲間も結婚相手も、公爵家を背負う者として自分の意志で決められることなんて僅かさ! それなら若い時くらいは自分の意志で決めてもいいじゃないか。友人も、ガールフレンドも、やりたいことも。今だけは自由に!」
そしてグラスを高く掲げ、一気に飲み干した。
「君という人は……」
呆れる友人達を気にする様子もなく続ける。
「俺が親しくする相手を義務だ派閥だと悲しい括りにしないでくれ。俺は君達を派閥が一緒だから友達にしたんじゃない。有利な相手でも気に食わない奴とは距離を取るし、好きだと思ったら派閥なんて関係ないさ。もちろん、親愛なる友の忠告には感謝する」
「全く、都合のいい奴だな」
「振られるたびに泣き付かれる身にもなってくれ」
「たしかに女の見る目は無さ過ぎだぞアルバート」
「まあ、君が傷ついたなら我々がいつでも慰めてあげよう」
「とにかく困った時は何でも相談してくれ。あの家はいい噂を聞かない。気をつけてくれよ」
「ああ」
話題は変わり、誰もレイニーの文句を口にする者はいない。それなのにその場から動けなかった。
アルバートのおそらく本心であろう言葉が、レイニーには受け止めきれず持て余してしまう。
彼はレイニーを何の打算もなく友人だと言ってくれた。
レイニーは考えたこともなかった。
はじめは成り行きで、おまけみたいに付いてきた男だったが。
「僕だって……」
アルバートという男に彼ら同様惹かれていた。
だが彼に近づけば近づくほど、自分と比べて苦しくもなった。
レイニーは友人達と心から楽しそうに酒を飲むアルバートが羨ましく妬ましかった。
***
「画伯殿。集中しておられるところに水をさすようですが人の私室を作品で埋め尽くすのはやめてもらえませんか? ソファまでたどり着けないんですがー!」
昼も過ぎようとした頃に、部屋の持ち主であるアルバートは寝巻き姿で起きてきた。
そのまま頭を掻きながら床に散らばった紙を拾い、ソファまでの道を作る。
レイニーは親友の嘆きも無視して筆を走らせた。
慣れたアルバートも欠伸をかきながらソファに横たわる。どうやら昨日も街で遅くまで遊んでいたらしい、香水の残り香が漂っていた。
「伯爵家の子息の趣味が絵描きなんて聞いたことねーな」
何度目かの大きな欠伸をかきながら、レイニーの作品を眺めながら呟く。
「家族には隠している」
筆を止めることなく抑揚の無い声で続ける。
「前に絵を描いているのが見つかったときは部屋に閉じ込められて三日ご飯をもらえなかった」
「それが本当ならお前の家怖えよ」
なんでもないような声で返すアルバートに、レイニーは手を止めて振り返った。
彼はソファで伸びをし、また眠りにつこうとしている。
「……アルバート」
「ん?」
「僕が本当は妾腹の子だって言ったら、君はどうする?」
するりと口に出ていた。
無意識に、アルバートの反応が知りたくなった。そんな自分の行動に驚き、酷く後悔した。
「ごめん忘れてく――」
「冗談でも真実でもそんな事口にすべきじゃないって言う」
「……」
「……」
「え、それだけ?」
「うん。妾腹なんて珍しくもないし絵が描きたいならここで描けばいい。片付けてくれるなら文句はねーよ」
本当に気にもせず目を閉じてしまう。
「君にとって僕が敵対派閥の子でも妾腹の子でも関係ないんだね」
「ないね」
即答に思わず顔を歪める。
「随分簡単に言ってくれるなぁ」
悩んでいた自分が馬鹿みたいに思えるではないか。
「難しく考えるのは好きじゃない。まーしいて言うならお前の容姿は最高だね! 女の子を引っ掛けやすい!」
豪快に笑うアルバートに呆れた振りをする。
「お褒めに預かり光栄です。僕も……君といることを派閥や義務だなんて思ったこと、ないよ。自分で決めた」
「ーーお前! 聞いてたのかよ」
アルバートの赤くなる顔を見て、いたずらが成功した子供のように笑う。
「このアトリエ気に入ってるんだ。対価にこの顔を利用してくれても構わないよ」
「アトリエ言うな。俺の部屋だぞ」
レイニーは珍しく声をあげて笑った。
君の言葉はいつも僕の心を軽くしてくれた。
きっと大人になったなら、僕達の道はたがうだろう。今までのように、両親や伯爵家の事を考えたなら、いつかこの付き合いが間違いだったと後悔する日が来るかもしれない。
「それでも……君のように」
それでも今だけは、君のように自分の意志で決めたと胸を張りたい。
「サラからおいしいお菓子もらったよーてアル、やっと起きたと思ったらまた寝るつもり!?」
「いやいやお前も来てたのかよ。どんだけお前ら暇なんだ」
自分の意志で決めた。友人も、好きな人も――。
身分も派閥も性別も関係ない。レイニーが自らの意志で望んだ関係がここにあった。
***
レイニーは極力リディアナの前で家の話をしなかった。
アルバートも、知ってか知らずか話題に上げなかった。とにかくあの家と関わらせたくはなかった。
父はアルバートと親しくなるのを良く思っていなかったが、公爵家の情報を探っているという嘘を信じて詮索してこなかった。
もちろんアルバートを裏切るつもりはない。ただレイニーが家族と距離を置くようになると、父はレイニーの交友関係や行動を把握するようになっていった。
どこから漏れたのか、父にレイニーが少年を学校に手引きしていたのを知られてしまった。
酷く叱責されたが、どうにかリディアナだとはバレずに済んだ。
しかしこれでレイニーは迂闊にリディアナに近づくことが出来なくなった。
レイニーは考えた。
どうしたら彼女と一緒にいられるのだろう。
共に生きられるなら、伯爵家を捨ててもいい。もし自分が画家になりたいと言ったら、彼女はついてきてくれるだろうか。それならリディアナも家を出て政務官の夢を叶えればいい。
そんな、夢みたいな事を考えたりもした。
だけど伯爵家はレイニーに纏わりついて離れてはくれない。それどころか彼の愛するものを奪っていく。
ある日父に呼び出されて予想外の提案をされた。
「ドミンゴ様からお前を養子に迎え入れたいと申し出があった」
「それは……どういうことでしょう」
嬉々として語る父に返答に戸惑う。
レイニーは仮にも伯爵家の嫡男で、父も跡取りとして育てていたはずだ。
「ドミンゴ様と姉の間には子がいない。ドミンゴ様が王位を継がれた暁には、次代の王はお前にすると約束してくださった」
「は?」
全く意味が分からず、あり得ない話に耳を疑った。しかし父はドミンゴの即位に可能性を感じている様だった。
王には二人の王子がいる。それなのに王弟であるドミンゴが王位を継げるのだろうか?
「そして私を宰相にすると仰られた。お前が王になれば私の血筋が王家に加わることになるのだ」
ドミンゴ様の即位をここまで確信的に語るとはどうもきな臭い。
「なんだその顔は。うれしくないのか?」
「突然の事で驚いていました」
「ふん。まあいい。養子の件は保留にしておいたからな」
「? では私が養子になるお話は断るのですね?」
「返事を先延ばしにしただけだ。実はルディアが此度の両殿下の婚約者候補に選ばれ、王城へ上がることが決まった。もしルディアがルイス殿下のお心を射止めれば、私は王妃の父となる。その場合はドミンゴ様の養子の件を反故にしよう。ここは慎重に判断せねば」
権力に貪欲な父が、どちらの可能性も捨てきれずにいた。この人にとっては息子も娘も己の欲を満たす道具でしかないのだ。
現実味のない計画を聞かされても失敗の二文字しか思い浮かばない。
「エルドラントの娘はリディアナといったか」
「!」
父の口から飛び出た名前に全身の毛が逆立っていくのを感じた。
「お前が気に入っていたリディアナも王城へ上がるそうだ。なんでも殿下自ら候補者に指名したらしい」
リディアナが王城へ? しかも殿下の指名を受けて?
レイニーは顔色一つ変えずに頭の中で記憶を探った。
リディアナは社交界デビューをまだしていない。殿下との接点はないはずだ。
思考はめまぐるしく働かせながら平静を保ち、神経を尖らせた。
「随分変わり者の娘だそうだな。殿下も珍しいもの見たさで呼び寄せたのだろう。従順な女に物足りなさを感じる気持ちも分からなくもない」
「……」
怒りを抑え込むのに必死だった。聞くに堪えない酷い侮辱に今すぐにでもその口を塞いでしまいたかったが、沈黙がリディアナを守る唯一の方法だとレイニーは知っていた。
「お前もそろそろ結婚を考える歳か……」
「私のことはルディアの件が落ち着いてからでもいいのでは? 先程慎重に判断せねばと言ったのは父上ですよ」
「おおそうだな」
レイニーの意見を素直に聞いた父は、独り言のようにこれからの事を呟いていた。
もう用事は済んだだろうと静かに退出する。
扉を閉めた直後に走り出し、急いでアルバートの元へ向かった。
「その件ならさっき手紙が届いていたな。なんでも急に決まったとか。お前のところにも届いていると思うから行き違いになったんじゃないか?」
アルバートが手紙を持って来てくれて、「ほら」と見せてくれる。
レイニーはリディアナからの手紙を逸る気持ちで読んだ。
そこには王城に行くので暫く会えなくなると、政務官の仕事を間近で見るのが楽しみだと書かれていた。
「あいつ、何か勘違いしてるよな。リディアナの事だから早々に帰ってくる羽目になるぞ」
あっけらかんと笑うアルバートに、レイニーはようやく肩の力が下りた。
リディアナの魅力は自分だけが知っていればいい、だから――。
「早く帰っておいでリディアナ」
***
それから一年。
リディアナは令嬢教育から未だ帰る気配はなく、婚約者候補として王宮で過ごしていた。
王妃が毒殺されるというショッキングな事件もあり、レイニーはリディアナの身を案じていた。
この事件で候補者達は、城内の安全が確保されるまで一時帰宅することになった。
レイニーは久しぶりに帰ってきた妹に会うため談話室に残っていた。
ルディアは帰ってくるなり嬉々として王城の話を始めた。
ソファに座って会話に耳を傾ける。
少しでもリディアナの様子が知りたかった。
ルディアは中々自分を売り込めずにいるようで、その声には苛立ちが滲んでいた。ルイス殿下はサラに気があるようで、ソレス殿下は病気でほとんど出歩かないという。リディアナの名もちらほら出てくるが、どれも好意的ではない話ばかりだ。
それにしても、王城でもリディアナは相変わらずだ。
緩んだ口元をカップで隠しながら、何も心配することはなかったと安堵した。
「本当にリディアナったらイライラする! どんなに嫌がらせしても平気なの! きっと心臓が鋼でできているのよ!」
「嫌がらせだなんて、そんな公然とするものではありませんよ」
母の忠告に自信満々に答える。
「大丈夫よ上手くやってるから。太后様の昼餐会の時もドレスを踏んでやったけどバレなかったし」
母は口をあんぐりと開けて呆れていた。
太后の昼餐会でリディアナが転んで会を台無しにしたのは噂で聞いていた。まさかルディアの仕業だったとは、さすがの母も妹を叱りつけた。
「だってあの子ったら太后様に直接声をかけていただいたのよ? おまけにルイス様も一緒に呼ばれて、腹立たしくて邪魔してやったのよ。そしたら盛大に転ぶんだもの! その後も謹慎処分になって庭造りをさせられたり、いい気味だったわ!」
「ルディア。相手は侯爵令嬢ですよ」
「あれのどこが令嬢よ」
「ルディア」
突然会話に入ってきた兄に妹は驚いた顔をした。
「リディアナは殿下と共に太后に呼ばれたのか?」
「ええ、そうよ」
その意味にやっと気づいた母は、先程とは違う疑念と焦りを抱いていた。
「え? やだぁ、違うのよ。確かに殿下と仲がいいけど、政治の話ばかりで『御学友』なんて呼ばれてるのよ。知識をひけらかす女性は嫌われるものでしょ? 恋愛とは程遠い存在よ」
「まあ、女が政治だなんて……」
「あの子が変わり者なのはお母様だって知っているでしょう。それよりサラの方が殿下と親密だと噂が――」
話題は最有力候補のサラへと移り、二人は今後の対応を協議し始めた。
レイニーは静かに席を立ち、部屋を後にした。
嫌な予感がする。
まさかリディアナがそこまで殿下と関りを持っているとは思ってもいなかった。
最有力候補はサラだというが、どうも殿下がリディアナを気にかけているように聞こえた。
自分の知らないところで何かが動いている気がする。
とにかく情報が欲しいと、急ぎ父の私室へと向かった。
扉を叩く手を止めたのは中で話し声がし、父に来客があったから。出直そうと踵を返した。
『この、しくじりおって!』
扉から零れる父を叱責する声に思わず足を止める。
この声は王弟ドミンゴ? いつのまに……。
王弟が忍んでまで訪問してきた理由が、先程聞こえた叱責と相まって気になったレイニー。
立ち去ろうとした足は再び扉へと戻った。
「そ、想定外でした。まさか王妃様が口に入れられてしまうとは……」
焦りと動揺を隠しきれない父の口から先日毒殺された王妃の名を聞き、レイニーは頭を殴られたような衝撃を受けた。
しくじった? 王妃が口に入れた? まさか……!
心臓が一度大きく跳ねた後、どくどくと早鐘を打つ。
何故父はあんなにもドミンゴが王位を継げると自信を持てたのか。心に浮かんだ疑惑は一層膨らんでいった。
レイニーは物音を立てずにもっと話を聞こうと扉に耳をそばだてた。
「し、しかしこれであの毒の効果を証明できました。以前我が家の犬で実験した時は心もとないと仰っていたではありませんか」
「……そうだな。計画とは違ったが毒の効果は得られた」
「はい。我々がやったという証拠は何一つ残しておりません。また機会もございましょう」
レイニーは静かに後ずさりし、一目散に駆け出した。
屋敷の中を走るレイニーを母が注意したが、それも無視して自室に戻ると鍵をかけた。
「ハァハァ」
扉に寄りかかり、息苦しさで心臓を抑え空気を必死に吸い込もうとする。しかし荒い息はいつまでたっても落ち着かない。
父は、なんと言った?
『我が家の犬で実験』
腰から下に力が入らず、足元から冷えていく感覚。
変わらず息は荒く呼吸は乱れ、身体が小刻みに震え出した。
先程の父たちの会話が本当ならば、彼らは王妃を毒殺した犯人だろう。
そして二人は、レイニーの愛犬コラルを毒の実験に使っていた。
ゆっくりと、崩れ落ちて、扉を背にして座り込んだ。
「うそだ……うそだうそだ!」
両手で顔を覆い、受け入れがたい真実に愕然とした。
あの日コラルは小屋にいなかった。それなのに探している間に何故か死体は小屋で見つかり、ゴミ捨て場に捨てられたはずのコラルの血は乾いていた。小屋には血の跡はなかった。つまりコラルは別の場所で、父に連れられ――。
「殺された!」
床に蹲り、叫び出しそうな声を必死で抑え込んだ。
「――っそ! く――! ううぅー!!」
怒りが、憎しみが、レイニーを深い闇へと誘う。
***
ルディアの候補者としての位置に期待できないと判断した父は、レイニーの養子縁組の話を進めることにした。
レイニーがドミンゴの養子になった場合伯爵家はどうするのか訊ねると、他にも愛人に産ませた子供がいると悪気もなく言ってのけた。
全く呆れてしまうが、王妃をその手にかけたのだ。後戻りはできないだろう。
それからレイニーは養父となるドミンゴと密に会うようになった。
ドミンゴは国王と十も年が離れており、まだ若く父同様その目には野心が秘められていた。
なんでも医師に調べてもらったところ、王弟は子供が作れない体らしい。
ドミンゴはレイニーを気に入ったようで、会員制サロンに誘われるようになった。ドミンゴの口からも養子縁組の話が出たので、レイニーが彼の息子になる日もそう遠くないと思った。
真実を知ったあの日から、レイニーは屋敷に届く手紙に全て目を通すようになった。
手紙の確認を始めて何日かした頃、ついに目当ての手紙を見つけて束から抜き取り私室へ持っていった。
差出人を隠す意図がある手紙なので、封蝋がされていないのがよかった。簡易に封がされた糊の部分を丁寧に剥がし、中身を盗み見るとまた封をして束に戻した。
差出人は王弟ドミンゴ。明日屋敷を訪ねる旨が書かれていた。
翌日、事前に準備を済ませていたレイニーは、父の執務室の隣の部屋でドミンゴの到着を待ち構えた。隣の部屋は書庫になっており、執務室とは続き間で繋がっていた。
扉には前日に錐で開けた小さな穴があり、そこからレイニーは父親達の話を盗み聞く計画だった。
程なくして王弟ドミンゴが到着した。
レイニーは物音一つ立てないよう細心の注意を払い、聞き耳を立てた。
ドミンゴはフード付きの外套を脱ぐと、挨拶もそこそこに父に詰め寄った。
「大変な事になったぞ」
その表情には余裕がなく焦りが滲んでいた。
「ええ。殿下の婚約者が決まったそうです。まさかエルドラントの娘が選ばれるとは想定外でした。このまま結婚され子供までできてしまってはドミンゴ様の王位継承も遠ざかってしまう! ソレス殿下はその内勝手に死ぬでしょうからルイス殿下さえ亡き者にすれば機会があったというのに……世継ぎを設ける前に手を打たねば――」
「違う、違うのだ!」
密会だというのに声を荒げるドミンゴに父も狼狽えていた。
「あの花が――、トカトリスの花が太后の庭に植えられていた!」
「は?」
「先日太后主催の昼餐会に招待され、そこであの花を見た! その庭はエルドラントの娘が設計したらしく、トカトリスを含め周辺の花を植えたのはその娘だという」
「そ、そんな……! ならばエルドラントに我々があの花で毒薬を生成したことが知られたのですか!?」
「わからない。城内に我々を探るような動きはないが、ルイスがエルドラントに何か調べさせているのは確かだ。娘も女のくせに薬草や医学に精通していると聞く。トカトリスから我々に辿り着くのも時間の問題だ。早々に手を打たねば足取りを掴まれたら終わりだぞ!」
二人の会話でレイニーは思い出した。
昔、リディアナに珍しい花だと南国の花を父の私物から頂戴し、譲ったことがある。
まさかそれが?
「ど、どうされますか?」
「始末しろ」
冷酷な言葉に耳を疑った。ドミンゴは、こいつは今何と言ったんだ?
「娘の方をですか?」
「そうだ。その娘はルイスの婚約者となったのだろう? 邪魔者を消し去るのにちょうどいい」
「なるほど。では父親を犯人に仕立てて娘はその罪に耐え切れずに自殺したことにしましょう」
「それもいいが、確実に息の根を止めるならあの毒を――」
レイニーは壁からゆっくりと後ずさった。
話を最後まで聞かなければならないのに、その場に居続けることが出来なかった。
怒りで今すぐにでもあの二人を斬り殺してしまいそうだ。
肉に爪が食い込む程強く拳を握り、廊下を早歩きしていると内臓がよじれるような衝撃を感じて足が止まる。
「――っ!」
吐き気が込み上げ倒れこんで嘔吐する。
「ハァ……ッ……ハァ!」
まるで体が拒絶反応を起こしたように、体の中から全てを吐き出すまで止まらない。何度も何度も内臓が下から押し上げられた。苦しくて涎と鼻水で顔は汚れ、涙で視界が霞んでいく。
もう何も見たくない。なにも聞きたくない。
「ハハ、ハ」
乾いた笑いは空しく廊下に木霊する。
リディアナを殺す? 罪をきせる?
唐突な吐き気が収まると、再び業火の炎で焼かれたように怒りで燃え上がった。
私利私欲のために罪に罪を重ね、平気で人の命を奪う。母を殺し、コラルを殺し、今度は愛する人を殺そうという。
あれは人ではない。人の仮面を被った悪魔だ。
奪われ、殺されるくらいなら――。
全て吐き出したあと、空っぽになったレイニーの中から黒いものが溢れ出した。『それ』に支配されることに抵抗はなかった。
ああ、そうか、これが……。
「殺意」
レイニー=ドゥナベルトは絶望していった。
そうして自分の末路を悟った。
***
「久しぶりだな」
夜会で声をかけてきたのはアルバート。その手には珍しく酒ではなくジュースが握られていた。
レイニーは平静を装えず驚いた顔をしてしまった事に顔を顰めた。
久しぶりなのはレイニーがアルバートを避けていたからで、今夜のパーティーだって彼の名は招待客リストには無かった筈だ。
二人は壁際に寄って小さくグラスを重ねた。
「最近絵を描きに来ないけど忙しいのか?」
レイニーが意図して避けていたのはアルバートだって分かっているはずだ。それなのに彼は気にした様子もなく声をかけてきた。実にアルバートらしい。
「もう絵は描かないよ」
「ふーん」
それ以上追及してこないのも相変わらずだ。
「リディアナも殿下と婚約しただろ? 急にお前達が来なくなるから俺は暇を持て余しているんだよ」
「そんなはずはないだろう」
学校を卒業したアルバートは、直ぐに陛下直属の政務官になった。その実力を余すところなく発揮し、次代の宰相候補と評されている。
レイニーは口を開こうとして閉じた。途切れる会話から、アルバートが痺れを切らして訊ねた。
「何かあったのか?」
「……アルバート」
「ん?」
「もし僕が間違った道を選んで、君がどうしても許せないことをしてしまったら」
「何の話だよ」
「例え話だよ。僕が間違いを犯したなら、その時は君が捕まえに来てくれないか?」
「なんだよ。何かあるのか?」
冗談交じりに笑いながらいつもの軽い調子で聞いてくれる。今日ほどありがたいと思った日はなかった。
「僕達もいつまでも自由に動けるわけじゃないじゃない。そろそろ距離を置いたほうがいい時期にきたのかもしれない」
「……」
アルバートは軽口を閉じ、沈黙した。
楽しかった少年時代は終わりに近づいていると彼も薄々気づいていたはず。
「約束してほしい。僕は僕が信用できないんだ。だけど君なら僕は信用できる。君の思う通りにしてくれて構わないからもしも――」
「お前が間違ったことをしていたらぶん殴ってやるよ」
「え。殴るの?」
殴られるのは痛くていやだなと頬に手を添えた。
「ああ殴る。でもな、俺はお前を信用しているよレイニー。互いの道がたがおうとも、それは変わらない」
「……ありがとう」
どちらともなく飲みかけのグラスを重ねた。
キン、という涼しげな音が、会場の喧騒に反して実に寂しげだった。
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