第40話 レイニーの過去
レイニー=ドゥナベルトは絶望していた。
レイニーの父親であるドルッセンは、富と権力に固執し、自身の能力を過信するところがあった。姉が王弟ドミンゴに嫁いだことで、その兆候は更に悪化した。彼が何か功績を残したわけでも、勤勉でも、人徳があるわけでもないのに、現王権から不当な扱いを受けていると思い込んでいた。
レイニーの母親は侯爵家出身で、面長で目つきのきつい容姿さながらプライドが高く気性の荒い女性だった。ドルッセンには家柄だけで結婚相手に選ばれ、夫婦の間に愛など欠片もなかった。
伯爵夫人は始めこそ夫に期待していたかもしれない。しかし家族を省みず外に何人も愛人を作る夫に、次第に愛は冷めていった。
更に伯爵夫人は不妊症を患っていた。
ドルッセンは一向に跡取りの出来ない妻を不良品と罵り、愛人に生ませた子を秘密裏に正妻の子として迎え入れた。
望んでも子供ができなかった正妻が愛人の子を育てなければならない。憎しみと悲しみは不幸にも幼い子供、レイニーへとぶつけられた。
社交界では秘密にされていたが、レイニーの実の母親は娼婦で、愛人との不貞から産まれた子であった。
生まれた時から虐待は始まり、三歳の頃に命に係わる怪我を負ったことで乳母と別邸で暮らすことになった。
レイニーの幼い記憶の中で唯一の平穏な日々だった。
三年後、不妊の末に夫人が無事懐妊すると、状況は一変した。
生まれた子は女の子で跡取りではなかったが、夫人の精神状態が僅かに安定し、世間の目を気にした両親が跡取りをいつまでも他所に預けるわけにはいかないと、レイニーをドゥナベルト家に連れ戻した。
もしあの時夫人が男子を生んでいたなら、レイニーはこの世にいなかっただろう。
母は妹ルディアを溺愛し、父は相変わらず地位と名声に固執して懲りもせず新しい愛人の元へと通った。
幼く、純真無垢だったレイニーは、必死に両親に愛されようと努力した。
しかし両親には初めから愛などなかった。ないものを取り戻そうともがき苦しんでいた日々。レイニーの努力空しく、母は再び手を上げるようになった。
理由なんてないに等しい。存在自体が母を苛立たせるのだった。
虐待がバレないよう部屋に閉じ込められ、寝る前にレイニーのベッドへやってきては耳元で毒を吐きす。
「死ね! 死ね! 死ね! お前なんて必要ない! お前なんて価値もない!」
毎日繰り返される罵倒に頭がおかしくなりそうだった。呪いの言葉はレイニーの心を蝕んでいく。その中で唯一の光は、この状況から救い出してくれるであろう唯一の存在だった。
いつかきっと、本当のお母さんが助けに来てくれる。
根拠もない願いに縋ることでなんとか耐えて来た。
十歳になった時、レイニーは母を探しに行った。
虐待で心身ともに壊れていく中、一向に迎えに来てくれない実母に痺れを切らした。
寒い、雪の降る夜を馬車に揺られながら元来た道を戻る。
恨み言ひとつでも言ってやりたかった。実母はすでに死んでいた。レイニーが生まれた直後、馬車に轢かれて即死だったという。
「ああそうか……。お母さんはお父さんに殺されちゃったんだね」
別段悲しみはなかった。一度も会ったことのない母に何の感情もわかない。
ただあの悪夢から救い出してくれる者はどこにもいないのだと知って辛かった。
過ぎ行く街並みを眺めていると、馬車が急停車して窓に頭をぶつけてしまった。
外は雪も積もっている。スリップでもしたのだろうかと外へ出ると、御者が困った顔で雪の中を覗き込んでいた。
「あ……」
雪の中に子犬がいた。
子犬は馬車の前に飛び出し、慌てて手綱を切った御者のおかげで轢かれることはなかったが、驚いて気絶していた。
抱き上げると酷く汚れて冷たくなっている。毛はぼろぼろで所々禿げて骨が浮いていた。
食べる物もなく、守ってくれる者もなく、孤独にこの雪の中を彷徨っていたのだろうか。
このまま放置したらレイニーの母のように、馬車に轢かれて死ぬのだろうか。
「……お前、僕の所へ来るかい?」
不意に、気まぐれに子犬を拾った。
家にこっそりあげてお風呂に入れてミルクをあげる。両親に隠れて甲斐甲斐しく子犬の世話をした。
子犬はすぐにレイニーに懐き、レイニーもまた子犬を可愛がった。
日々の折檻を終えると痛む体でベッドに戻る。子犬は慰めるように傷口を舐めた。抱きしめながら一緒に眠った。
その日は母の機嫌がすこぶる悪く、レイニーは来たる時に備えて子犬をベッドの下へと隠した。
眠った振りをしたレイニーの元へ母がやって来る。毒吐きの時間だと意識を飛ばし、無になって備えた。そして母はレイニーの耳元で囁く。
「きゃああ!」
甲高い悲鳴に思わず耳を塞ぎ、何事かと飛び起きた。
母の足元を子犬が噛み付いて離さなかった。母は何が起こったのかわからず、闇雲に逃げ回り部屋を出て行った。
「きゃん!きゃん!」
ドアの前で追い出したのを誇らしく鳴いている。こちらに駆け寄ってベッドの上に飛び乗る。
「お前……それで僕を助けたつもりか?」
褒めてと言わんばかりに頭を撫でつける子犬を、レイニーはそっと抱き寄せた。
「バレてしまったじゃないか。お前のせいで、僕がまた叩かれるんだぞ」
抱きしめながら背中を撫でると満足げにじゃれてきた。レイニーは子犬が腹立たしかった。余計な事をしてくれた。これでもう、お前とは一緒にいられない。
「ばかだなぁお前。また一人ぼっちで彷徨うんだぞ?」
今度はぎゅっと強く抱きしめたが、喜ぶ子犬はやはり何も分ってはいなかった。
「馬鹿なお兄様。あんな不細工じゃなくもっと可愛い犬ならお母様だって許してくれたのに」
妹のルディアの小言も無視し、レイニーは呼び出された母の部屋へ向かった。
「すぐに処分なさい。異論は認めません」
「はい」
すみませんでしたと、深く腰を折って素直に反省の弁を述べる。殊勝な態度のレイニーに溜飲を下げた母は、それでも小言を溢す。
「野良犬を可愛がるなんて卑しい血のお前がしそうなことだわ。由緒ある伯爵家に潜り込んだお前とそっくりね」
「はい。由緒ある伯爵家では世間の目もあります。僕が明日新しい飼い主を探してきます」
「……本当に嫌な子ね」
二人きりだから隠すことなく冷たく言い放った。
これ以上は顔も見たくないと背を向けてた母にお辞儀だけして部屋を後にした。
部屋へ戻るとこれから別れが来るとも知らずに、尻尾を振った子犬が擦り寄って来た。
「僕を恨んでもいいんだぞ」
手放すならはじめから優しくするべきではなかった。野良犬を伯爵家で買うなど初めから無理な話だった。分っていたのに寂しさから身勝手なことをしたと後悔する。
硬い毛並みに顔を埋め、強くきつく抱きしめた。
レイニーは学習した。伯爵家にそぐわない者とは関わりを持たないようにしようと。どうせ離れなければならなくなるなら情が移る前に距離を置けばいい。そうすれば自分もこんなに辛い想いをしなくて済むから。
子犬との最後の夜は、一緒に布団に丸まり温もりを噛みしめて眠った。
翌日、母から子犬と一緒に急いで応接室へ来るよう言われた。
応接室には貴族ではない労働者の男が二人と、慈善事業に力を注いでいるダドリー卿が待っていた。
「お待たせしましたわ。この子が息子のレイニーです」
母は社交用の仮面を被り、満面の笑みで『自慢の息子』を紹介した。
訳が分からなかったがレイニーも仮面を被って笑顔で挨拶をする。
事態は思わぬところで好転していた。
あの夜、レイニーが野良犬を保護したのを目撃した者がいた。それが新聞に載り、伯爵家の令息が野良犬を助けたと美談として賞賛された。
追加の取材と話題作りにダドリー卿がレイニーに会いに来たのだった。
「この子が自ら馬車に轢かれそうになった子犬を救ったのです。ええ。主人と息子を褒めてあげましたわ。昔から優しい子で、家族にもそうですけど困った人を放っておけない子でした。この子にとって子犬を救ったのは何も特別な事ではなかったのです」
こういう時の母は饒舌で見事に良妻賢母を演じてみせる。
あんなに嫌っていた自分と子犬を、掌を返したように恥ずかしげも無く自慢できるのだ。
だからレイニーも同様に素直で賢そうな伯爵家の令息を演じた。
「両親からは困った者がいれば身分に関係なく救いの手を差し伸べるよう教えられました。これからも子犬は僕が責任を持って育てていくつもりです。両親も血統は関係ないと言って許してくれましたから」
天使のような笑みを向けると母の笑顔が僅かに引きつる。ダドリー卿は新聞記者に大々的に記事にするよう指示を出していた。
レイニーは挨拶をして部屋を後にした。廊下に出ると笑いが込み上げて我慢できなくなる。
「これでお前を堂々と飼うことが出来るぞ!」
意味を分かっているのかいないのか、子犬は元気にわん! と答えた。
子犬には『コラル』と名づけた。
コラルは愛嬌のある頭のいい犬だった。無駄吠えもなく教えもしっかり守る。レイニーが虐げられても前のように助けようと噛んだりする事はなかった。代わりにレイニーが傷ついていると必ず側に来て慰めるような仕草をする。
「大丈夫だよ。ありがとう。優しい子だね」
母は足を噛まれて以来、犬が苦手になったようだ。だが大人しくなった母に代わって妹ルディアが噛み付くようになった。
自分も犬を飼いたかったらしく、周りに当り散らしていた。
ルディアの我侭は相当で、甘やかされて育てられた分、世界の中心は自分であるかのような振る舞いだ。使用人を奴隷のように扱い、何人も追い出し路頭に迷わせた。
ルディアはついにはコラルにまで手を挙げるようになった。怒ったレイニーは生まれて初めて妹と喧嘩をした。母は勿論ルディアを庇い、好機とばかりにコラルを屋敷から追い出そうとした。
レイニーはまた失敗してしまった。ルディアとやり合っても分が悪い。せめてと頼み込み、裏庭の一角に小屋を作ることを許された。
可哀そうだったが、外でコラルを飼うしか共にいる道はなかった。
ガチャン!
皿が割れる音が屋敷から聞こえる。
コラルとレイニーは裏庭から同時に顔を上げた。またルディアが癇癪を起こし使用人にあたっているのだろう。暴れるルディアに無関心な父とそれを嘆く母という悲惨な画の出来上がりだ。
「馬鹿みたいに飽きもせず同じことの繰り返し」
レイニーは家族に対して何の期待も持っていなかった。
成長と共に外の世界を知るようになったことと、コラルの存在で、家族の呪いから解放された。それでも、どうしてこんな家族になってしまったのだろうと考えずにはいられない。
コラルが悲しげに鳴いた。些細な心の機微も分ってしまうらしい。レイニーは止まった手を再び動かし、心配要らないと声をかけた。
「いつもの場所へ行こう」
その日は母が夫人会を開催し、令嬢も来るらしくルディアも参加すると聞いた。女性だけの集まりとあって、レイニーが自由になれる最高の日だった。
屋敷から離れた原っぱが二人の遊び場だ。
野原は陽が入りコラルが走り回るのに十分な広さで、一本だけ残された木の陰には休めるベンチが置かれていた。
レイニーはいつものようにベンチに座ると、持ってきたスケッチブックを広げてさらさらとペンを動かした。
風とコラルの息遣いと土を踏む音。ここでは母の嫌味も妹の金切り声も父の小言もない。
真っ白な紙の上に心に浮かんだ物を描いていく。
時たま顔を上げてコラルの楽しそうに駆け回る姿を見ては屋敷の方に注意を注いだ。
レイニーは警戒も忘れない。もし誰かが近づいてきたならば、直ぐにこの画材を隠さなければならないからだ。
レイニーは伯爵家の跡取りなので他人に知られてはいけなかった。
幼い頃から絵を描くのが好きで、一度だけ母に絵を褒められたこともあった。母がレイニーを褒めたのは後にも先にもその一度きり。
『卑しい絵描きの真似事などいくらお前が偽者であっても伯爵家の子息がするものではないわ』
髪を引っ張られ、頬を打たれ、絵をビリビリに破かれた。
何で怒られているかは関係ない。レイニーは失敗したのだ。
画材は全て燃やされて一週間部屋から出してもらえなかった。
「わんわん!」
「……そろそろお昼にしようか」
苦い記憶に蓋をしてバスケットを持ってくる。サンドウィッチをコラルと分け、食べ終える袖をくいっと噛まれ、一緒に遊ぼうと甘えられる。
周りを見渡し、誰もいないのを確認してレイニーはコラルと原っぱに駆け出した。草の上に寝そべって大きく空気を吸い込む。レイニーの隣に、コラルも体を密着させて寝息を立てた。
ああ、なんて……。
コラルの耳がぴくりと立ち上がり顔を起こす。
栗色の目に警戒が浮かび、レイニーも慌てて起き上がった。
「あら、人がいると思わなかったわ」
ベンチの横に見慣れない金髪の少女が立っていた。
レイニーは素早く起き上がり、体に付いた葉を払い落とすと何食わぬ顔で少女に挨拶をした。
内心では何故こんな所に女の子がという疑問と、まずい所を見られたという焦りが渦巻いている。
少女は上等な服を着ていて身分が高いことが窺えた。お茶会に来ている令嬢だろうか。
「これが落ちていたの。もしかしてあなたが描いたもの?」
その手に掴む画用紙を見て血の気が引いた。
コラルと遊んでいる内に風で飛ばされてしまったようだ。小さな手にはレイニーが描いた絵。彼女に告げ口をされたら、母に知られてしまったら、今度こそただでは済まない。
お礼も拾った絵画も受け取れず、その場に固まってしまう。
少女はそんなレイニーの元へ近寄って絵画を差し出した。
「素敵ね」
満面の笑みで微笑む少女。
「……?」
「絵。あなたが描いたのよね? 素敵だわ」
レイニーは言葉の意味を理解すると全てがどうでもよくなった。母の顔色や少女が誰なのか、誤魔化すことも、考えていたこと全て吹き飛んで顔を真っ赤にする。
「ねえ他の絵も見ていい?」
指さした先にはスケッチブック。レイニーが返事を迷っている間に勝手に開いてしまう。
驚くことに少女は地べたに座ってコラルと一緒にスケッチブックを見はじめた。時折コラルを撫でながら一枚一枚ゆっくりと眺める。
レイニーの心臓は飛び出そうだった。母以外の、他人に見せるのも評価を得るのも初めての経験だ。
「あら、これあなたの絵よね。ふふ男前に描いてもらったわね」
わん! とコラルが嬉しそうに返事をする。不思議とコラルは少女に懐いていた。
少女は時間をかけて見終わると、丁寧に閉じて「ありがとう」といって返した。
「絵のことは詳しくないけど、あなたの絵は優しくて見ている人を温かい気持ちにさせてくれるわね」
「!」
「私、あなたの絵、好きよ」
体温が一気に上がり体が沸騰する。人はうれしいと天にも昇る気持ちになると言うが、まさにその通りだと思った。
レイニーは顔を真っ赤にして少女にお礼を言った。しかし少女はもうコラルを撫でることに夢中になって聞いていなかった。
「可愛いなあ。うちはお母様がアレルギーで飼えないの」
「アレルギー?」
「身体が拒絶反応を起こして様々な症状を引き起こすことよ。痒くなったり涙が止まらなくなったり、ね」
そんな症状があるのだと初めて知る。
「お前、名は何というの?」
「……コラル」
代わりにレイニーが答える。犬と会話できるわけがないのに少女は本気でコラルに聞いていた。
「コラル? ヒステリア語で『安らぎ』という意味ね。お前はご主人様に安らぎを与えたの?」
「いい子ね」と頭を撫でる少女に、レイニーは驚いた。
自分よりも下の、しかも女の子がヒステリア語を知っているなんて。
「ねえコラルと遊んできてもいい?」
真っすぐな青い瞳とコラルの期待の籠った栗色の目に見つめられたら駄目とは言えない。
少女とコラルは楽しそうにじゃれ合っていた。原っぱで転がりながら追いかけっこをする様子を、レイニーは遠くで眺めていた。
おそらく貴族の令嬢であろう少女が、上質な服が汚れるのも構わず地べたに寝転がり、犬の名は聞くのにレイニーの名も聞かず自らも名乗らない。
全てが些末な事とでもいうように。
妹ともレイニーが知るどの令嬢とも違う少女に、ピクリと指が動いた。
「またお呼ばれしたら遊びに来てもいい? コラルからもご主人様にお願いして!」
太陽の光で白金に輝く髪をなびかせ、犬と戯れる少女の姿は何と絵になることか。
このまま額に入れて飾っておきたい衝動に駆られた。
しかし屋敷の方からざわめきが風に乗って耳に入り、この幸せな時間も終わりに近づいていると知らせた。
「もう戻らないといけないよ。きっと君を探している」
少女は表情を曇らせ、コラルを一撫ですると「またね」と言ってぱっと去って行った。
レイニーも小屋へ戻り、寂しそうにするコラルの首輪に付いたロープをしっかり括り付けた。
結局少女の名は最後まで分からなかった。あまりにも突然の出来事に、あの幸福な時間は、少女は、夢か幻だったのではないか思うほどだ。
また、会いたいな。
コラルのいない夜でも、その日は幸福な気持ちで眠りにつくことができた。
数日後、思いの外早く少女に会えると分かった。
慌ただしいメイド達に何かあるのかと聞くと、先日の茶会と同じメンバーが集まるという。
レイニーは素知らぬ振りをしたが、心は小さく踊っていた。
またあの子に会えるかもしれない。
逸る気持ちを抑え、急いでコラルの元へ向かった。
「コラル! 聞いてくれ、よ……?」
いつもの小屋にコラルがいない。
いつもならレイニーの足音が近づくと尻尾を振って喜んで出迎えてくれるのに、どうしたのだろう。
小屋の中を覗くが首輪だけが残され本体は見当たらない。
逃げ出してしまったのだろうかと辺りを見回す。周辺を小走りに探すが姿はない。こんなことは初めてだ。
次第に不安が増し心臓が早鐘を打つ。レイニーは全速力で屋敷中を探した。
コラルがいない。
ここにも、
ここにも――。
どれだけ探しただろう。腕をまくり額の汗を拭って空気を取り込む。
使用人達の不審がる目も気にせず探しまわった。
もう一度小屋に戻るが持ち主のいない首輪があるだけで状況は変わらない。
「どこにいったんだ……」
冷やりと体が冷たくなる。嫌な予感を振り払うようにもう一度原っぱへと駆けた。
原っぱのベンチには、あの時の少女が座って待っていた。こちらに気付くとぱっと顔を明るくして駆け寄ってくる。
「また遊びに来たわ!」
少女は返事をしないレイニーの周りをきょろきょろと見回し、「今日はコラルと一緒じゃないの?」と訊ねた。
「……いなくなった」
「どうして?」
「わからない」
レイニーにもわからない。コラルは一体どこへ行ってしまったのか。
息をするたび肩が上下し、額からは汗が滴り落ちる。ピカピカに輝いていた靴は汚れ、服もしわくちゃだ。
もう何時間も探したのにコラルは見つからない。レイニーに愛想をつかして逃げてしまったのだろうか。
「コーラールウー!」
耳をつんざく大声に驚く。叫ぶ少女はレイニーをその場に残し駆け出していた。慌てて後を追いレイニーも大声を張り上げた。
「コラル!」
「コーラールー!」
「コラルどこだ!」
二人は原っぱを隅まで探した後、屋敷の方へ向かった。
再び小屋へ戻ると使用人たちが輪になり小屋を取り囲んでいた。
「……何をしている?」
肩で息をするレイニーに、使用人達が明らかに動揺の顔を浮かべた。目配せしながら言い淀む姿に息が上がっていくのが自分でも分かった。
「――ここで、何をしているんだ!」
不安と苛立ちから語気が荒れた。
「坊ちゃん……。落ち着いて聞いてください」
聞きたくないと、全身が警告を鳴らす。
「坊ちゃんが可愛がられていた犬が、小屋の側で血を吐いて倒れていました」
「それで、コラルはどこ? 無事なんだよね!?」
「……残念ですが、我々が見つけた時には、もう」
「もう? もうって――何!?」
コラルが死んだとでもいうのか。
視線は愛犬を探し揺れ動くが、しかし使用人達の足元にコラルはいない。
「どこ」
「様子が様子でしたので、念のため急いで焼却炉へ」
レイニーは走り出した。無我夢中で走って、走って、焼却炉の前で立ち止まった。
ゴミ山のてっぺんに、犬の死体を見つけた。
犬は体の半分がゴミに埋められ、顔をこちらに向けて仰向けに横たわっている。血を吐いたのか、口の周りの毛は赤く染まっていた。目は血走り、苦悶の表情で息絶えている。
レイニーはすっと自分が冷えていく感覚がした。
あれはコラルじゃない。コラルはあんな死に方はしない。
動けないレイニーの横を、追いかけてきた少女が追い越してゴミの山を登る。犬の死骸を抱き上げて自らが汚れるのもお構いなしにゴミの中から救い出した。
少女は肩に犬の亡骸を抱き、もう片方の手で置いてあったスコップを持ち出した。
原っぱの方へ歩き出すのをレイニーはただついていった。
ベンチにつくと、犬を降ろして大木の横をスコップで掘り始めた。
数十分で大きな穴が掘られ、少女は苦悶の表情の犬の瞼をそっと閉じてやった。穴に死骸を丁寧に置くと土をかけ、こんもりと盛る。
埋葬を終えると手を組んで少女は祈りを捧げた。
レイニーはその様子を見ていた。少女の行動をただただ見ているだけだった。
一通り終えた少女はレイニーに向き直った。
その可愛らしい服は血で汚れ、手は土まみれだ。
「ごめんなさい」
謝る理由が分からなかった。
「ごめんなさい。慰める言葉が、みつからない……」
少女は静かに泣いていた。
「私、欠けた人間だから、あなたに何と言って慰めればいいのかわからないの」
「なんで、君が謝るんだ。僕だって――僕だって冷たい人間だ。あんなに可愛がっていたのに涙も出ない!」
欠けた人間は僕の方だ。死んだコラルを無情にも冷めた目で見ていられた。
どうして自分は悲しめないのだろう。実の母親が死んだ時でさえ涙は流れなかった。
こんな時、嫌でも思い知らされる。どんなに嫌って軽蔑しても、レイニーにもあの男と同じ血が流れているのだと。血の通わない残酷で冷徹な醜い人間なのだと。
「違うわ。あなたは自分の心を守っているだけ。それは悪いことでも責めることでもない」
少女がそっとレイニーの手を取った。
「あなたはコラルを大切にしていた。『安らぎ』という名をつけてあげた。そんな人が冷たい人間なわけ、ないじゃない」
少女の言葉が、伝わるぬくもりが、レイニーの心を慰める。
レイニーはコラルの墓に膝を付いた。そして生まれて初めて、叫ぶように泣いた。
「あのね、昔読んだ本で、死んだ者は虹の橋を渡ってあの世から大事な人をずっと見守ってくれているんですって」
何も知らないコラルが虹の橋を見つけ、跳ねながら駆けのぼる姿を想像し、馬鹿だなと呟いた。
人には必ず死が訪れる。死ぬ時が来ても、コラルに会えると思えば心安らかになれる気がした。
少女は立ち上がったレイニーの涙を拭ってくれた。
コラルの側にもう少しいてやりたかったが、屋敷から使用人が慌てて呼びに来た。
茶会には夫婦で来たゲストもおり、父が母と共にもてなし、レイニーにも挨拶するようにとの呼び出しだった。
父の名を聞いた途端レイニーの頭がはっきりとする。そして真っ先にこの子を守らねばと思った。
ルディアの服を借りて着替えさせよう。
少女は全く気にした様子を見せないが、その恰好で戻れば母に何と思われるか。少女を貶されたくはなかったし、責任を感じていた。
しかし玄関に入るとレイニーはぎょっとした。
「レイニーどこに行っていたの!」
よりによって母が玄関で待ち構えていた。
慌てて少女を背に隠したが目敏い母は少女を見るや眉間に皺を寄せ、不快な顔をした。
「一体どこのお嬢さんかしら? 随分汚れているわね。申し訳ないけれど当家にそのような格好の方をお招きするわけにはいかないわ」
上から下までを値踏みするように、汚らしい者を見る目で蔑んだ。
「お母さんこれには訳があって、実はコラルが――」
「まさかあなた、あの汚らしい犬に触ったの!?」
なぜ、母はコラルのことを知っているのか。
「お母さん、彼女はコラルを……僕の犬をゴミ山から救い出し埋葬してくれたのです」
「ええそうですよ。ゴミと一緒に処分なさいと命じたのは私です」
「そん、な……」
「まさかゴミの中から引きずり出したというの? なんて汚らしい!」
レイニーは頭にかっと血が上り咄嗟に叫んでいた。
「謝ってください! 今すぐ! 彼女に謝罪を!!」
母の行動に怒りが沸くと同時に、少女を侮辱する態度が許せなかった。
レイニーの思わぬ反撃に母は僅かにたじろいだが、すぐに目を吊り上げて怒鳴った。
「母親に向かって何という口の利き方!」
母の怒号にも一歩も引くつもりはなかった。
初めて母に反抗した。とにかくこの子を守らねばと。ところが守っていたはずの少女が、二人の間に割り込みレイニーを背に庇うよう母に対峙した。
母も怒りが消えるほど唖然としている。
「謝っていただく必要はありません。奥様の言う通り、このような格好でお邪魔するべきではなかったです。非は私にあります」
頭を下げ謝罪する少女に、それみたかと母は満足な顔をした。
「私に謝っていただく必要はありませんが、ご子息にはどうか、心からの謝罪を」
「……は?」
「コラルはご子息の大切な家族です。奥様の先程の言葉はその家族に対して使うには適切ではなかったと思います。ご子息は大切な者を失って悲しんでいます。まずは抱きしめて、慰めて差し上げるべきでは?」
毅然と立ち向かい臆することなく意見する姿は、子供ながらに美しく見惚れてしまった。足元からびりびりと痺れが脳天まで駆け上がり、こんな令嬢がいるのかと衝撃が走る。
レイニーの中に初めて生まれた感情。自分を庇おうとするこの小さな生き物が、愛しくてたまらなかった。
「な、なんて生意気なことを!」
我に返った母の怒声が玄関ホールに響き渡る。手を振り上げた母から少女を庇おうと咄嗟に引き寄せた。
「どうかしましたか」
騒ぎを聞きつけ、一人の男性が声をかけた。
ほっと胸を撫で下ろすレイニーの傍らで少女が「あ……」と小さく溢した。
「私の娘が何か失礼でも?」
男性は少女の父親らしい。少女は俯いて小さくなっていた。
母は気まずそうに振り上げた手をストールの中へ隠し、少女の父親は娘の血と泥に汚れた姿を一瞥してため息をついた。
「あの、違うんです! これは僕が」
男性はレイニーの言葉を手で遮った。
「どんな理由があろうとも、このような格好で伯爵家に上がるのは失礼だ。申し訳ないです夫人。娘はこのまま連れ帰ります。妻も楽しみにしていたのだが、また後日お詫びに参ります」
母親はいつもの社交の仮面を被って微笑んで返す。
「エルドラント侯爵。子供のしたことですからお気になさらないでください」
侯爵!?
貴族の令嬢ではあると思っていたが、まさか侯爵家とは想像の遥か上の階級に驚く。
そうなると少女が余計にも不憫で仕方なかった。あの自由に野原を駆け回る少女は、自分よりも窮屈な生活をしているのだろうと容易に想像できた。
「リディアナ」
父親の呼びかけに俯いたままの少女はするりとレイニーの横を通り抜けて行ってしまう。
少女が去って行く背を目で追うしかできなかった。
その日の夕食は珍しく家族が勢ぞろいした。
妹のルディアのおしゃべりを聞き流しながら、自然と心はリディアナの事ばかり考えてしまう。
あれから怒られてはいまいかと心配で、次に会う機会はあるだろうかと思いを馳せた。
一向に食事が進まないレイニーをよそに、ルディアは今日の出来事を話し始めた。
『リディアナ』という名に鈍く動いていた手が止まる。
「もう本当に変な子なの。辺鄙な田舎で暮らしていたから都会に慣れてないだけかと思ったら、ただの変わり者で頭のねじが一本抜けているだけだったわ」
「ルディア」
レイニーの低く静かな怒声にびくりと肩を上げる。父が続けて相手は侯爵家だと諫めた。
「変人だろうがねじが一本抜けていようが言動には気を付けろ」
レイニーの気持ちにかすりもしない父の忠告に、ルディアはしょんぼりした。
「ルディアは間違っておりませんわ。あのリディアナとかいう娘、屋敷を抜け出してレイニーに色目まで使っていたのよ」
「お母さん!」
「少し話したけれど生意気で嫌らしい子だったわ。いくら侯爵家の娘でもルディアが相手にする娘ではありません」
「ふん。侯爵とは名ばかりの男爵家の次男坊だ。その娘もたかが知れているということか」
「ご馳走様!」
レイニーは胃の中がひっくり返るような吐き気がして席を立った。
何も聞きたくない。言い返したところであの人達には何も響かない。レイニーを慰め、寄り添ってくれた人を、彼らは認めはしないのだ。
「もう、リディアナに会ってはいけない」
レイニーはいつだって失敗から学習する。レイニーがリディアナに近づけば彼女が悪く言われるだけだ。
あの最低な人間達に侮辱されるのは耐えられそうにない。
これ以上彼女を傷つけるようなことはしたくなかった。
その夜、レイニーは夢を見た。
コラルがいつもの野原で元気いっぱいに駆け回っていた。その隣には背中に羽の生えたリディアナが楽しそうにコラルと遊んでいる。
レイニーは筆をとり、その様子をスケッチブックに描いていく。
愛しくて、涙が出るほど幸福だった。
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