第28話 婚約者の真実
ルイスの補佐について二週間が経った。
天気も良く、室内の空気の入れ替えにリディアナが窓を少し開けていると、背後からルイスに声をかけられた。
「午後にある定例会議に参加するか?」
突然の申し出に窓を大きく開けてしまい、何枚かの書類が宙に舞ってしまう。
慌てて閉めて書類を回収すると、自分の机に戻って居住まいを正した。
「とはいえ公に君を曝すわけにはいかない。ネッドが記録室での入出の許可をとった。そこからならこっそり除き見は可能だがどうする? 前に会議を見学してみたいと言っていただろう」
「是非見学させてください!」
瞳を輝かせて即答した。
会議を生で見られるのもうれしいが、毎日『執務室―私室―応接室』の往復で気が滅入っていた。同じ城の中でもここ以外に出歩けるのはうれしかった。
知らずに肩は小刻みに振れ、書類を処理する手も踊る。
「フッ」
何だろうと顔を上げる。
「ハハハッ」
「どうしました!?」
「いや、あまりにもうれしそうにするのでかわいくて。笑ってしまった」
自分が原因だったとは思わず、不意打ちを喰らって赤面する。
ルイスの方はというと、切り替え早くもう政務に励んでいた。
前以上に触れなくなった。だけど前以上にこういったこそばゆい台詞を投げかけられる。
取り残された気分のリディアナがその後全く使い物にならなくなったのは、決して自分のせいではないはず。
***
「可愛いってなんですかね……」
ベールを目深に被り廊下を移動するリディアナ。前を歩くネッドに訊ねた。
「定義は人それぞれではないでしょうか。私は蜘蛛が可愛いくて家で飼ってますよ」
「え!?」
それは確かに人それぞれだと納得した。
「ここからは私語厳禁でお願いしますね」
ネッドが振り返って人差し指を立てる。ペットの蜘蛛の話をもっと聞きたかったが言われた通り口を閉じた。
ネッドが開けた扉の先は、会議の間の隣にある記録室だ。
リディアナはネッドに続いて記録室へと入った。
衣擦れの音もしないようドレスの裾を掴み、ネッドに促されて記録用の穴から覗き見る。
会議に参加する重鎮達はすでに席に付いており、各々談笑したり議題に目を通したりと様々だ。
その中にバルサの姿もあった。
いつも通り飄々とした姿で談笑している。まさかリディアナが隣の部屋で盗み見ているとは思ってもいないだろう。
時間になり、国王ルイスが登場すると、先程までバラバラだった大臣達は一斉に席を立ち礼をとった。
一糸乱れぬ動きにルイスは目だけで挨拶をして席についた。それを待って皆も椅子に座り、会議は重々しい空気の中進められた。
執務室でのやり取りだけで、実際にルイスが大臣相手に政治をしている姿を見るのは始めてだった。
駆け引きのようなやり取り、相手を乗せて言葉を引き出し、時には叱責し、一回り以上も上の大臣達の手綱を握って舵を切る姿はまさに圧巻だった。
心配していたマンディーゼル橋の件も了承を得られ安堵する。
会議は滞りなく進み、最後の案件も片付くと一人の大臣が挙手をした。
「少し時間を頂戴したいのですが。私共から今一度陛下に御推考していただきたき件がございます」
深々と頭を下げてルイスの許可を待つ。今回の議題には挙げられていない飛び込みの話があるようだ。
「……申してみよ」
長い沈黙の後にルイスはこれ見よがしに溜め息を溢し、渋々といった体で許可をした。
不快な様子にこの先何を言われるのかを知っていて、それがルイスにとって不機嫌を隠そうとしないほど不都合なものというのがわかる。
「陛下が即位されて一年が経ちます。若かりし頃より政務に携わっておられた陛下の手腕で、この通り即位後も国は安定しております」
「用件だけ申せ」
「は、はい。つまり、ここにいたるまでお一人で国を統治されたのです。素晴らしいことですが、陛下には多大な負担と心労があったことと思います」
「そうだな」
「今後も多忙を極める陛下の負担は増すばかり。我々臣下は陛下をお支えしようにも、御身体を労わり憂いを癒す心の拠り所になるのは難しいのではないかと」
「私からも遠慮しておく」
気だるげに相槌を打つルイスを気にも留めない大臣は、更に話を進める。
「なればこそ! 側で陛下をお支えする妃を迎え入れては如何でしょう。今一度ご結婚をお考えいただきたくお願い申し上げます!」
「今はまだ時期ではないと何度も申しておる」
間髪入れずにルイスが却下する。しかし大臣は尚も食い下がった。
「いいえ。陛下も御歳二十。国も安定し、国民も世継ぎを待ち望んでおります。今一度ご自身の結婚についてお考え直しいただき、然るべき身分の令嬢を王城に呼び寄せ、我々や国民に更なる安心をお与えください!」
「お与えください」と複数の大臣が後に続いた。
リディアナは無意識に会議室の壁から後ずさりしていた。
「……」
結婚は、していないのだとルイスの私室を借りた時に確信した。だから大臣達が国王の婚姻に口を挟む理由も分かる。
分かってはいても、聞きたくなかった。
目を閉じ、逃げ出したい気持ちを必死に堪える。
いつかはこんな日が来ると覚悟したではないか。逃げてもルイスのお側で働く限り、この話は避けては通れない。この目で耳で、心で、現実を受け止めなければならないのだ。
「陛下はなぜ結婚を後回しになさるのですか?」
長い沈黙を破った飄々とした声。室内に緊張が走った。
「……バルサ」
「ドゥナベルト伯の言う通り、国は安定しており年も適齢。時期ではないという言い訳は通じませんねえ。王ならば早く妃を娶り、世継ぎを設け、国民を安心させるべきでしょう。国に安寧を導くのも王としての勤めかと」
「わかっておる。来るべき時が来たならば私も妃を迎えよう。だがまだその時ではない」
正論を突きつけるバルサに明確な答えを持たずに突っぱねるルイス。一同は二人の応酬を静かに見守った。
「逆に絶好の機会な気も致しますが。即断即決で行動力のある陛下も、好機を前に怖気づくこともあるのですね」
「……今のは聞かなかったことにしよう」
「ありがとうございます。偉そうに申しましたが、私の愚息もいまだ独り身でいつまでもふらふらしております。先日留学から帰ってまいりまして、この機にそろそろ結婚をと考えているのです」
突然の息子話に大臣達は顔を見合わせ首を傾げた。
「一人」
バルサは眼鏡の奥の瞳をきらりと光らせ、人差し指を立てた。
「友人の子で私も気に入っている娘がおりましてね。息子とも昔から仲が良く元気が有り余って多少無茶なことをしますが――」
「冗談が過ぎるぞ!」
氷のように冷たく鋭い刃のような怒声に、室内が凍りついた。
「今のは聞き逃してはいただけませんでしたか」
怒らせた本人は気にする様子もなく飄々と笑っている。
「狸め」というルイスの小言は皆聞こえない振りをした。
「この話はここまでだ」
「畏まりました」
バルサはルイスを送り出すため潔く立ち上がる。それにつられて皆も立ち上がった。
「お、お待ちください!」
席を立ったルイスの前に立ちはだかったのは、先程進言した大臣だった。
「ならばせめて、せめて今一度婚約者を選び直してはどうでしょう!?」
選び、直す……?
聞き間違いだろうか。ネッドの方に顔を向けるが彼は真っ直ぐ視線を主に向けるだけだった。
「新たな婚約者を立てるべきです。今尚失踪中の令嬢を婚約者として据えているのは理解に苦しみます!」
「ーーっ」
咄嗟に両手で口を抑えた。驚愕の事実に声が出そうになる。
今、何て言ったの!? まさか―ー!
あまりにも信じ難い想像をして体が小刻みに震えだした。
「……失踪したのではない。体調が優れぬ故地方で療養中である。何度も言わせるな」
「し、しかし罪人の娘よりもふさわしい令嬢は他にも――」
「口が過ぎるぞドルッセン!」
「は、……はい」
レイニーの父、ドルッセン=ドゥナベルトはルイスの怒りの声にぐっと唇を噛み、渋々道を開けて礼をとった。
一瞬、記録室に視線を向けた気がしたが、彼は礼を取る大臣達の間を通って部屋を後にした。
大臣達もルイスの退場と共にそれぞれ退出していく。
「……」
リディアナはその場を動けず暫く放心したまま立ち尽くした。
ネッドが人気がなくなったのを確認し、リディアナにベールを被せて記録室から移動させた。
ネッドと別れて一人執務室の重い扉を開くと、先に戻っていたルイスが机に向かって書類を裁いていた。何事もなかったかのように、混乱するリディアナを他所にいつも通り仕事をしている。
もしかしたら聞き間違いだったのかもしれない。
リディアナも自分の机に座り仕事を再開することにした。
しかし手に持ったペンはいつものように動かない。先程聞いた話が気になって、書類の文字が頭に入ってこなかった。
結婚はしていないのだと思った。だけど新たな婚約者がいるものとばかり思っていた。そうでなくとも既に自分は婚約者ではないと、とっくの昔に栄誉は剥奪されたものと思い込んでいた。
だって彼はこの国の王だ。疑惑の娘を、勝手にいなくなった私を、彼がずっと婚約者にしておけるわけがない。私を婚約者のままにしておく理由がない――。
「上の空だな」
気づくとルイスがこちらを見ていた。リディアナは戸惑いを隠せずペンを持ったまま眉尻を下げて見つめ返した。
「聞きたいことがある顔だな」
ルイスはペンを置き、リディアナに向き直ると紫紺の瞳を気遣わしげに伏せた。
「……あの紫紺のドレスは」
「ん?」
あの対となるドレスはもしかして私が着るドレスなの?
「――っ」
違う。そうじゃない。聞くべきことは別にある。
ぐっと目を瞑り、冷静になれと己に言い聞かせる。
リディアナも握っていたペンを机に置き、浮つく心を閉じ込めてルイスに向き直った。
「先程の婚約者の件です。失踪した令嬢とは、もしや私のことですか?」
「そうだ」
はっきりと答えをもらいリディアナの顔が苦し気に歪んだ。
「なぜ――、療養中などと嘘をついて今尚私を婚約者においているのですか!」
「なぜ? 私は言ったはずだ。必ず君を妃にすると」
ルイスは逆にリディアナを咎めた。なぜあの時、何の相談もなく勝手に去ったのだと、なぜ自分を信じなかったのかと。
「私が去ることがあなたのためになると、最善の策だと思ったから。もうこの場所に戻るつもりはなかった。侯爵令嬢も国王の婚約者という地位も肩書きも、あなたの元を去った時に全て捨てる覚悟で旅立った!」
「私は望んでなどいなかった。勝手に捨てるなと言ったはずだ。私は、ずっと君を探していた!」
リディアナは苦しい胸を押さえながら、それでも目を逸らさずにルイスを見つめ続けた。
一年間の空白を埋めるように互いの想いをぶつける。
「侯爵家に関わる場所は全て調べた。別荘も縁戚も親交のあった家も。他にも港や関所も全てだ! まさかと修道院に駆け込んだりもした。どんな些細な事でも、君につながるものは全て血眼になって調べさせた。それでも見つからないと、すでにこの世にはいないのではと馬鹿な事を言う者も出始めた。そんなもの、信じはしなかったが、事故に……万一事故にあっていたならば、それだけはどうしようもなく不安で記録を調べ、周辺の湖の底まで調べさせた。特徴が当てはまる者がいないと分かると安堵した。死んでなどいない、どこかで生きていると確信した。だから待った。ずっと、ずっと探し、待っていたんだ!」
ルイスの切実な想いを聞き、胸が張り裂けそうに苦しかった。
そこまで自分を追い求めてくれていたのか。
頬に涙が一筋流れた。苦しくて、悲しくて、やるせなかった。
「なぜ私の側を離れた」
「あの時の私に、一体何が出来たというのです?」
涙は流れても瞬きはしない。一瞬たりとも目を逸らさずにルイスと向き合った。
「父は前王に王妃殺害の疑いをかけられ拘束されました。あのままでは犯人の娘とその被害者の息子として婚約を維持しなければならなかったのですよ? あなたがどんな批判を受けるか! 足を引っ張ると分かっていてなぜ私がそのままあなたの隣に居続けられると思うのですか!」
涙で視界が歪み、ルイスの顔もぼやけてよく見えない。
「それなのに、未だ私を婚約者に据えていたなんて……! どうしてそんな危険な事を! 勝手にいなくなった女など捨て置けばよかったのです!」
きっと国民から、臣下から酷く批判されていたに違いない。リディアナのせいでルイスに謂れのない非難を浴びせてしまった。
「私の評価はそんなことでは覆らない。私は待てと言ったではないか。お前を求めていると――」
「でも愛してはいなかった!」
涙が途切れ、一瞬の視界にルイスの驚いた顔が映る。
これでは愛して欲しかったと言っているようなものだ。
「私は……、たとえあなたが他の女性を想おうとも、隣に立てなくなろうとも、ただ力になれればそれでよかった」
私に道を照らし、希望を与えてくれた人。あなたがこの国の王となる方なら全てを捨てて、命をかけて守りたかった。
あなたのことが……、好きだから。
だから去ったというのに、これでは全くの無駄ではないか。
「なぜ」
ルイスはなぜ私にそこまでするのだろうか。
するりと口をつきそうになった問いを呑み込む。答えを聞きたい、
聞きたくない。
「リディアナーー」
「さわらないで。私はあなたの足枷にだけはなりたくありません」
伸ばされた手を受け入れることはできない。
ルイスの手は何も掴めず宙に浮いたまま代わって拳が握られた。
「ならば全てが片付いた時、再び私の手を取ってくれるのか?」
それは事件が解決し、父の名誉が回復した後の去就。
婚約者に決まったあの夜の続きを、もう一度リディアナは出来るだろうか。ルイスの手を再び取り、形だけの婚約者となることをーー。
「……」
ルイスの問いに唐突に自分の気持ちを理解した。
ルイスとの愛のない結婚を、自分は受け入れることができないと。
好きだと気付いてしまったからこそ、心のない結婚生活に耐えられる自信はなかった。
リディアナは以前のようにその手を掴むことはできなくなった。
「これ以上、惨めになりたくはありません」
そうではない。愛して欲しい。以前の様な能力を求めるのではなく、私自身を愛しているから求めて欲しいのだ。
「……失礼します」
限界だった。叫びだしそうな心を押さえ扉へと駆け出した。
「リディ!」
切ない声に扉に手をかけた状態で足が止まる。
今その名で呼び止めるのは卑怯だ。
「君は、私が他の女性と結婚してもなんとも思わないのか?」
想像しただけでとてつもなく絶望している。
一年前にアルバートにも同じ質問をされた。だけど今はそれ以上に胸が苦しい。
ああそうか。恩人だから、国王だからという理由で彼を守りたかったのではない。リディアナはルイスを愛しているから守りたかったのだ。
そして同時にルイスに愛されたいと願っている。
だけどそんな未来は望んではいけない。
『一生、忘れられないのだわ』
ようやくあの時のサラの気持ちが理解できた。
今頃になって親友と同じ気持ちになったリディアナ。ドアノブを掴んでいた手が急に回り、前へと引っ張られた。
重い扉が外側へ開き、体重をかけたままのリディアナはバランスを崩してしまった。今まさに扉を開けた人物の胸元に頭から突っ込んでしまう。
「え!? リディアナ!?」
肩を支えて受け止めてくれたのは、ソレス王弟殿下。
涙でぐしゃぐしゃの顔のリディアナに驚くソレス。挨拶もそこそこに涙を拭うと、逃げるように部屋を後にした。
「リディ!」
ルイスの呼び止める声が聞こえても、足を止めはしなかった。
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