第7話 昼餐会での失敗


「ごきげんよう、リディアナ」


 翌日、離宮に設けられている教室に入ると、友人のサラが隣の席を勧めてくれた。

 昨夜の交流会は欠席したのでサラが心配していた。

 早めに部屋に戻れたお陰で読書に励む事が出来たのだが、そこはあえて言わないでおこう。


「おはようサラ。昨日は心配をかけてごめんなさい」

「いいえ。私のほうこそ気に入っていた帽子だったから感謝しているわ」


 二人は顔を合わせて微笑みあった。

 サラも婚約者候補である。風邪をこじらせて大事を取り、皆に遅れて最近王城へやってきた。

 サラはアルバートの妹で、遊びに行くうちに仲良くなった唯一の女友達だ。

 王城での暮らしでストレスが溜まる中、気の置ける友人の存在は大きかっ。

 表向きには令嬢教育と言われているが、リディアナからしてみれば公開お見合い合宿である。年頃の令嬢を一同に介して王子の婚約者を選定する場なのは誰もが知っていた。

 候補者は王城に住み外部と遮断される(妊娠の有無を調べる意図もあるらしい)。期間は半年から一年と言われ、婚約者が決まるまでは令嬢教育に勤しむ。

 正に苦行。

 リディアナには全く無関係な話なので、すぐにでも家に帰りたかった。


「あなたがいてくれてよかった。でも意外だったわ。リディアナはこういう堅苦しい場所が嫌いでしょう?」

「うん。本気で令嬢教育に行かせたかったのはうちの親ぐらいよ」

「え?」

「男装がバレて藁にもすがる思いで娘を城にぶち込んだの。私が婚約者になるなんて微塵も期待していないわ」


 だから早く帰りたいのに、当初は直ぐにでも帰れると思っていた王城での暮らしも三ヶ月が経とうとしていた。

 季節は春から夏へと変わり、年も一つ取った。

 それなのにリディアナが脱落の烙印を押される日は来ない。


「あーあ、アルと剣術の稽古がしたいわ」


 苦手な刺繍を前にして、最近体を動かしていないと気づく。悪友との懐かしい日々を思い出していた。


「お兄様にはリディアナに危ないことをしないよう注意しておきます」

「えー、いたっ」


 これでもう何度目か、針を指に刺してしまった。

 話をしながらも器用にすいすいと進めていくサラに対し、リディアナの指はボロボロのひどい有り様だ。


「どうしたら元の生活に戻れるのかしら」


 サラの手当てを受けながら、リディアナは刺繍を投げ出して机に突っ伏した。

 両親は城へ上がれば少しはましな令嬢になって帰ってくると期待していたようだが、この通り当ては外れてリディアナは城でもリディアナのままだ。


「でも私、ここへ来てリディアナの変わり様に驚きましたわ。とても女性らしくなってさらに魅力的になっているんですもの。他の方々ともうまくやっているでしょう?」


 そうなのだろうか。自分では気づかないが仲の良いサラがそう言うのなら、少しは効果があったのだろう。

 考え方が変わったお陰か候補者との衝突は減った気がする。

 それなら城に留まる必要はないのでは?

 百面相の友人に「リディアナは毎日そればかりですわね」と笑って投げ出した刺繍をきれいに畳んでくれた。

 サラの手には雲雀と鈴蘭のモチーフを縫い終えたハンカチが出来上がっていた。

 鈴蘭はサラのイメージにぴったりだ。リディアナは自分のハンカチをみてため息をついた。


「刺繍しかり、人には向き不向きがあるのよ」

「でもリディアナは元々器用でしょう。途中で投げ出さなければ出来ると思うわ」

「私はハンカチが作りたいんじゃないの。早く家に帰って勉強がしたいの。アルたちと遊びたい。本を読みたい。研究したい。家業だって気になる」


 ため息をつきながら針をぷすぷす針山に突き刺す。


「お兄様に妬いてしまうわ。私は毎日リディアナと一緒に過ごせて楽しいのに。それに勉強なら今でもしているじゃない。ルイス殿下から貴重な本だって借りているのでしょう?」

「そうだけど……。でもやっぱり私がここにいるのはおかしい気がする。私は皆のように王妃になりたいわけじゃない。王の臣下になりたいの。王太子妃はサラみたいな美人で心優しい人がなるべきだわ。私みたいなおてんば娘じゃ隣に立つ王が恥をかくだけよ」


 サラが現れたときは彼女が妃に選ばれたら素敵だと思った。


「ありがとう。だけどおてんば娘だなんて誰がそんなことを?」


 サラが手を止め、少し怒った顔でこちらを向く。城中で呼ばれているとは言い難い。


「とにかく、私には不釣合いで似合わないの!」

「そんなことないわ。リディアナは自分の魅力に気づいていないだけよ。あと二年もしたら皆が貴方に夢中になるわ」


 サラの言うありえない未来に思わず吹き出してしまう。


「貧乏貴族でも選ばないわよ」


 何か言いたげなサラを押しとどめて続ける。


「でもいいの。私だって結婚する気はこれっぽっちもないから。エルドラント家は親戚から養子をもらって継がせてもいいし、私は政務官になるし」


 リディアナは知っている。自分が令嬢として欠陥だらけだと。


「リディアナはきっと素敵なレディになるわ。思いやりがあって真っ直ぐで、私はあなたが大好きよ」


 サラはリディアナが自分のことを蔑むのが嫌いだった。いつもサラの言葉と存在が、リディアナのひねくれた心を和らげてくれる。


「あーあ。私が男だったら文句なしでサラと結婚するのに」


 体を寄せるとサラは少し納得のいかない顔で、「私が男でもきっとリディアナをお嫁さんにもらうわ」と頭を寄せてきた。

 サラの男性像が全く想像できなくて、二人は声をたてて笑った。



   ***



 妃候補の令嬢が全て揃い、城での生活も落ち着いた頃、候補者全員に貴婦人との昼餐会へ誘いがあった。

 堅苦しい会にはしないというが、主催はこの国の前王妃である王太后で、王妃も参加するという。

 上位階級の婦人も参加し、候補者の母親も参加者リストに名を連ねていた。リディアナの母も参加するようだ。


 昼餐会の当日になると、白百合の塔は朝から慌ただしかった。

 リディアナもこの日ばかりは新調したドレスに袖を通し、華美にならない装飾をつけてナナリーに髪を結ってもらった。

 王太后や王妃に認められれば王子妃への道も近づくとあって、煌びやかなドレスを纏った令嬢達で離宮は華やかに色めいた。


 昼餐会は王太后の塔で行われた。

 着くなりナナリーがサラの侍女と共に控えの間に去っていき、リディアナは先に会場入りしたサラを探した。

 途中で四ヶ月ぶりに会う母の姿を見つけ、挨拶をした。


「ご無沙汰しております。ランズベルト夫人、お母様」


 ドレスをつまんで軽く挨拶を交わす。母はサラの母親と談笑していた。

 近況報告と世間話を済ませた後、サラの所在を聞いたが夫人もまだ見かけていないという。

 リディアナはサラを探してみると言ってその場を後にした。

 ホールの隅々まで歩いてみたがサラの姿はない。

 化粧室にでも行ったのだろうかと部屋を出ようとした時、王太后と王妃が入出し、皆に挨拶をした。

 リディアナはちらりと太后の隣に立つ女性を見た。

 背筋をぴんと伸ばし、真っ直ぐに視線を上げる王妃は、目鼻立ちがルイスにそっくりだ。

 会には両殿下にも声がかけられたらしいが、公務があって欠席だという。

 そこかしこで残念そうな声が聞こえた。

 見れば見るほどあまりにルイスに似ている王妃。不躾に見すぎていたせいか、視線に気づいた王妃と目が合ってしまった。

 焦って俯くが、失礼だったと思い直して顔を上げる。王妃は嫌な顔をすることなく少しつり上がった目を綻ばせ、軽く笑顔を返された。

 あ……、笑った顔もルイス様にそっくり。

 王妃は視線を前に戻すと、また真っ直ぐに背筋を伸ばし立っていた。

 自己紹介と挨拶を終え、皆で外の会場へと移動した。太后自慢の庭園へ案内される。

 庭には色とりどりの花に荘厳な噴水があり、ガーデニングが趣味の王太后自らがデザインしたとあって、趣もあった。

 皆が口々に褒め称え、リディアナも心から素敵だと思った。

 近くにはテントが張られ、中にはお茶菓子が並び、自由に散策を楽しみながらの茶会になるようだ。

 マナーや堅苦しい場に苦手意識のあるリディアナはほっと肩の力を抜いた。

 それならばサラを探しに行っても問題ないだろう。

 リディアナは庭を散策する振りをしてこっそり人の輪から抜け出した。

 いったいどこにいるの?

 今日の茶会には候補者全員が参加すると聞いている。ランズベルト夫人も心配そうにしていたし、サラの侍女は既に控え室で待機していた。

 会場入りした後で何か困ったことが起きた?

 不安にかられて衛兵にも協力を仰ごうと踵を返した。


「いい気味ね」


 木々の間からマリアーヌと取り巻きの令嬢達の姿が視界をかすめた。


「これであの子の評判も地に落ちたはずよ」


 あの子? 

 足が止まる。


「ねぇ! サラを知らない?」


 木の陰から突如姿を現したリディアナに、三人の少女は飛び跳ねて驚いた。


「あなた達、何か知っているの?」


 先ほどより低く強い口調で問いただすと、取り巻きの少女達はリディアナから視線を外し、落ち着きなく手や視線を動かしていた。

 やはり何か後ろめたい事があるようだ。


「知っているわよ」


 口を開いたのはマリアーヌで、扇で口元を隠しながらリディアナの前へ進み出た。


「……サラに何をしたの?」

「別に。ちょっと話をしただけよ」

「話をしただけで大事な会を欠席する?」

「自ら辞退したのでしょう。私達のせいにしないでくださる? 逃げ出したのは彼女がその地位にふさわしくないと判断したからよ」

「地位?」


 何の話をしているのかさっぱり分からなかった。サラは公爵令嬢として地位もあり、それに見合う完璧なレディだ。彼女たちに責められる理由が見当たらない。


「あなた、お友達だから知っているでしょう。サラーシャ様は皆に隠れてルイス殿下と二人で会っているのよ」

「……え?」

「あら、知らなかったのね」


 同情しながらも見下すような態度にむっとした。


「二人が人目を避けて手紙のやり取りをしているのを見たわ。それも一度や二度じゃない。ここにいる子も同じように二人を見たと言っている。忍ぶように待ち合わせて殿下は……、サラーシャ様に優しく微笑まれていた」


 最後の方は覇気がなくなり項垂れるマリアーヌ。取り巻き達は泣きそうな顔で寄り添っている。三人が嘘をついているようにはみえなかった。


「殿下の婚約者に選ばれるということは、いずれ王妃となり国母となる。私達はサラーシャ様にその資格があるのか訊ねたのよ」

「私達に囲まれただけで震えていたわ」

「少し忠告をしたら泣いて帰って行ったのよ、呆れちゃう」

「殿下が誰を選ぶか、あなた達には関係ないでしょう」


 サラは大人しくて気の弱い子だ。悪意あるマリアーヌ達に囲まれたならどんなに怖かっただろう。

 マリアーヌだってサラの性格は知っていたはずだ。敢えて大人数で取り囲み問い詰めたのだ。

 リディアナは怒りが湧き、側にいてやれなかったことを悔いた。


「田舎育ちのあなたには分からないでしょうけど、私達は生まれた時から令嬢教育を受け、血を吐くような努力をしてきたの。より条件の良い縁談を勝ち取るためにね」

「……」

「両殿下と年が近いことで一際両親の期待も大きかった。殿下に見初められ、妃になる日を夢見て、ライバルと切磋琢磨しながらここまできたの。家の期待を一身に背負いここに立つ者がほとんどよ。関係ないわけないじゃない。サラーシャ様は家柄は申し分ないけど臆病で気弱な方よ。私達に囲まれただけで泣き出す方が王城で暮らしていけると思う? 逃げ出すくらいなら最初から辞めてしまえばいいのよ」

「それが勝手な言い分だと言っているの。どんな事情があろうと、想いが強かろうと、婚約者を決めるのはあなた達ではなく王族の方々よ!」

「そんな事はわかっているわ! だけどね、血の滲む努力を経て勝ち取った候補者の椅子を、『はいそうですか』と簡単に下りるほど話は単純じゃない。あなたみたいに遊びに来ているわけじゃない。『興味がない』『早く家に帰りたい』とぼやいているあなたこそ最も関係ない人間だわ。私たちを非難する資格はないでしょう!」


 扇を外して訴えるマリアーヌの気迫に言葉が詰まる。

 確かに彼女たちからしてみればリディアナの行動には腹が立つだろう。そしてこの中で一番関係がないのはリディアナだった。

 でもサラは違う。サラだって家を背負い、幼い頃から努力をしてここにいるのだ。

 友人として彼女達に貶められるのを、黙って見過ごせはしない。


「まだ殿下のお心が決まったわけじゃない。会っていただけで二人が恋仲などと勘繰るのはよして。それに、殿下と二人きりでいるのが気に障るのなら、私だってよく一緒にいるわ。嫌がらせならサラじゃなく私にすればいい」


 悪意が自分に向けばいいと思った。この子達の気が紛れてサラを救えるなら気にも留めない自分が盾になればいい。


「プッ」


 何がおかしかったのか、マリアーヌの取り巻きが吹き出した。


「勘違いも甚だしい」

「確かにあなたもルイス様にまとわりついてるわね」

「けれど私達はあなたの事をちっとも恐れてはいないのよ」

「?」

「殿下のお側にいても政事や難しい本の話ばかり。城で何と呼ばれているかご存知? 『殿下のご学友』まさにその通りだわ」

「男性のような振る舞いをする令嬢を殿下が選ぶはずがない」

「婚約者候補として登城したのに女として見られないなんて可哀そう」

「エルドラント侯爵も不憫ね」


 少女達の甲高い声と笑い声が庭園に木霊する。

 リディアナは自分でも分かるほど顔が赤くなっているのに気づいていた。

 一歩下がって様子を見ていたマリアーヌは、呆れて溜め息をつくと扇を広げて歩き出した。

 取り巻きの令嬢も笑うのを止めて慌てて追いかける。

 すれ違いざま、マリアーヌは立ち止まりリディアナに向かって忠告した。


「政務官になりたいのならとっとと出て行きなさいよ。ここはあなたがいるべき場所ではないわ」


 取り巻きの令嬢がくすくすと笑い、侮蔑の目を向けて去っていった。

 リディアナは反論できず、マリアーヌ達が去った後もその場に立ち尽くしていた。

 怒りと恥ずかしさと悔しさが入り混じる。

 リディアナは、傷ついていた。

 こんなことで傷ついている自分が嫌だった。

 暗い気持ちを吹き飛ばすように頬をパチンと叩く。大きく息を吸いこんで前を向いた。

 気持ちを切り替えよう。うじうじするのは自分らしくない。

 顔を上げ、今度こそサラを見つけようと振り返った。


「わあ! 驚いた」


 リディアナに声をかけようと手を浮かせていた人物が驚嘆した。


「ソレス殿下?」


 驚いたはこちらの台詞だ。

 目の前にはルイスの弟で、フェルデリファ王国の第二王子ソレスが立っていた。

 俯いていたリディアナが急に顔を上げたので驚いたようだ。

 ソレスは黒髪に少し茶色のかかった癖毛で、瞳は深い紫色。少し下がった目元は優しげで、ルイスと違い柔らかな印象があった。

 性格も気さくで優しく、同い年ということもあってルイスを介して何度か会ったがとても話しやすかった。

 ソレスは幼少期から身体が弱く、滅多に部屋から出ない。

 今日は顔色が良く調子が良さそうだ。

 今日の参加者に両殿下の名前はなかったはずなのだが。


「お祖母様から再三お声がかかってね。途中からの参加でもいいと言うから私達は今から参加する」

「私達?」

「ああ。ルイス兄上も来ているよ。私より先に出たからもう着いている頃かな」


 その名を聞いた途端、胸がずきんと痛んだ。


「リディアナ大丈夫? 顔色が悪いようだけど」


 心配するソレスに大丈夫ですと頷く。


「一緒に戻ろうか」

「……」


 もしかしたら、サラも会場に戻っているかもしれない。ソレスはリディアナを待って二人は会場に戻った。



 天幕の中は王太子の登場で歓喜の騒ぎとなっていた。

 ルイスはすでに候補者達に囲まれて談笑していた。

 その中にはマリアーヌ達も混ざっている。煌びやかで美しい令嬢に囲まれても輝きを放つルイスはやはり魅力的で、礼装姿も相まっていつもより大人びて見えた。


「……」


 そこには冗談を言い合って口喧嘩をするいつもの気安いルイスはいなかった。フェルデリファの王太子であるルイス殿下がいた。

 自分は何を勘違いしていたのか。

 ルイスとの間には確固たる距離があり、本来ならば気安く声をかけていい方ではなかった。今更気づいた自分に呆れた。

 美しく着飾った令嬢達。リディアナはそっと自分の胸に手を当てる。大きく輝く宝石はなく、膨らみも控えめでレースや装飾も少ない質素なドレスがあった。好んで選んだドレスでも、今は無性に脱ぎ捨てたかった。

 こんな女がルイスの隣に立ってどうして恋仲などと勘違いできよう。

 ご学友? まったくその通りだわ。

 自嘲気味に笑んでせめて髪飾りくらいつけて来れば良かったと、生まれて初めて自身の格好に後悔した。

 輪の中からソレスに気づいたルイスは、隣のリディアナにちらりと視線を移した。

 ソレスは手をひらひら振っていたが、リディアナは俯いて一歩下がった。

 ルイスの「失礼」という低い声と抜け出す時に出た令嬢の残念そうな声が耳に届く。

 こちらにやって来る気配を感じ、同時に皆の視線もリディアナに移るのが分かる。焦りと恥ずかしさで更に下を向く羽目になった。


「ソレス、挨拶がまだだろう?」

「今から行くところです。じゃあリディアナ、無理はしないでね」


 心配をしてくれたソレスにこくりと頷き礼を言う。

 ソレスが去った後もルイスはリディアナの隣に立ったままだ。

 周囲はこそこそと扇の中で二人の噂をしている。内容はマリアーヌ達と同じだろう。


「……」


 らしくない。今まで一度も気にしたことなどなかったのに。ルイスの隣が気まずくて数歩後ずさりした。


「どうした。体調でも悪いのか?」


 周りを気にするリディアナに、ルイスは優しく言葉をかけた。何と答えていいかわからないリディアナは、気まずく俯いただけだ。


「リディアナ?」


 心配げな声にぎゅっと目を瞑ってやり過ごそうとした。ルイスが顔を覗き込もうと近づいたので慌てて後ずさる。


「?」


 自分でも訳が分からない行動に心が乱れてた。

 自身ももて余すこのモヤモヤした気持ちを、勘のいいルイスに気づかれたくなかった。

 答えなど知らなくていいし知りたくない。そう本能が語っていた。

 一つだけ理解できる感情があるならば、リディアナが怒っているということ。

 早く家に帰してと私は何度も言ったのに聞き入れてくれなかった。こじつけだとわかってもそれ以外で傷つく理があると考えたくはない。

 ああ嫌だ。ここには居たくない。

 尚もリディアナの様子を窺うルイスがしつこく覗き込んでくるので、抗議の目で睨んだ。しかし逆効果で目が合ってもルイスは逸らさず真っ直ぐとリディアナを覗き込んだ。

 いつも試すようにリディアナを見つめる。そしてリディアナも紫紺の瞳から目が離せなくなるのだ。


「……」


 男女が見つめ合う姿が周囲にもたらす影響に、全く気づかないリディアナ。

 参加者が二人の様子を窺っていることも、王太后が近づいていることも気づかず、二人は探り合う様に見つめ合っていた。


「会は楽しんでいるか?」

「――っはい」


 王太后直々のお声がけに奇跡的に反射で返事をした。


「太后様にリディアナ=エルドラントがご挨拶申し上げます」


 ルイスの後ろに下がり慌ててスカートをつまみ腰を折った。

 会場は王太后とリディアナの一挙手一投足に関心が集まっていた。


「城での噂と違い随分とかわいらしいお嬢さんだ。のう?」


王太后は同意を求めるようにルイスに声をかけたが、俯いているリディアナにルイスの表情を窺うことはできなかった。

 離宮での失態が王太后の耳にまで届いていたとは。さすがに恥ずかしい。しかし褒められているようでなんと返していいものか悩む。これが回りくどい嫌味なのか本心なのか、リディアナに判断する力はなかった。

 

「王妃もいる天蓋でゆっくり話さぬか? 勿論ルイスも一緒に」


 周囲が息を飲み、無数の鋭い視線がリディアナを射抜く。

 王太后自ら声をかけて王子と席に誘われる。そこに王妃もいるのなら、意味するものが分からないほどリディアナも愚かではなかった。

 何故リディアナに目が留まったのか、自分が一番理解できなかった。

 混乱するリディアナを歯牙にもかけずに王太后は先に行ってしまう。

 付いて行かねばならないのに足は一向に動こうとしない。動揺するリディアナにルイスが振り返り視線を向けた。


『大丈夫か』


 声には出さず口だけ動かして心配してくれた。

 ぎこちなく頷く。理由はわからなくとも今やるべきことをしなければと、動かない足を前に進める。その一歩を待ってルイスは数メートル先から右手をリディアナに向けて差し出した。


 エスコート? この中で手を取れと?  


 体が動けば頭が動く。ルイスの手を取るべきか否か、恥をかかせるべきではないがその意味を理解していないはずはないでしょう?

 人々の視線を集めながらもおぼつかない足で数歩先へ進んだ。


「あ」


 突然ドレスが何かに引っかかった。

 まずい! と思っても体はバランスを崩して傾いていく。踏ん張りきれなかった足は見事に後ろに引っ張られ、リディアナは咄嗟に掴んだ近くのテーブルクロスを巻き込み、盛大に転んでしまった。


 ガチャン!


 茶器の割れる音と共に菓子や紅茶がリディアナの頭上に降りかかる。

 そこかしこから悲鳴が聞こえ、天幕の中は騒然となった。

 ルイスが急いで駆け寄り、放心したままのリディアナを起こした。


「な、なんてことを! これは先王様からの賜り物ですよ!」


 割れた茶器を手にした太后付きの侍女が叫ぶ。リディアナの全身から血の気が引いた。

 綺麗な陶磁のティーセットが、見るも無残に粉々に砕け散っていた。


「申し訳ございません!」


 ルイスの腕をほどき、我に返ったリディアナは王太后の元へ駆け寄り謝罪した。

 王太后は侍女を手で制し、黙ってリディアナを見下ろす。一歩下がり、背筋を伸ばすと王太后に跪いてもう一度謝罪する。


「申し訳ございません。これは私の不注意です。如何なる処罰もお受けします」

「……」


 先程の騒ぎが嘘のように沈黙が流れ、皆が王太后の言葉を待った。


「お祖母様これは――」


 沈黙に耐え切れなくなったルイスが口を挟むが、それすらも太后は手で制した。

 己の失態と太后の威圧感に心臓が重く鳴っていた。


「困ったものだ……。形あるものはいつか壊れる。この茶器はここまでの運命だったと思うとしよう。ここで会を続けるのは無理だな。皆続きはホールへ移動しよう。リディアナは部屋へ戻りなさい」


 太后の視線を受けてリディアナはゆっくりと視線を下げた。

 髪にはべとべとと菓子が張り付き、すみれ色のドレスは紅茶で茶色く変色している。皆が太后に突き放されたリディアナを哀れに眺め、中には失態を笑う者もいた。

 動けずにいるリディアナに、異物を見るような視線が集まる。

 嫌だな。

 まるで自分だけが異質でおかしいとレッテルを貼られる感覚。リディアナはその目が大嫌いだった。


「リディアナ」


 背後からかけられた優しい声に肩が震える。

 ルイスの手が触れる前に立ち上がった。

 ただでさえ地味な格好が今ではみすぼらしい姿へと成り下がった。ルイスに助けられたところで惨めになるだけだ。

 一礼すると脇目も振らずに逃げるように走り去った。


 控え室に突然現れた無様な格好の主人に、ナナリーは驚き駆け寄った。

 どうしたのかと聞かれたがリディアナは答えなかった。

 母に挨拶も出来なかった。あの場にいなかったのが救いだろうか。しかし今頃は娘の失態を聞かされて頭を下げているだろう。

 また母に、悲しく惨めな想いをさせてしまった。


 白百合の塔の入り口で、ソレスとサラが待っていた。

 サラはリディアナの姿をみつけると青い顔で駆け寄り、汚れるのもかまわず抱きしめた。


「どうしてーー」


 ここにいるのだろう。搾り出すように訊ねると、ソレスが答えてくれた。


「リディアナ、右手をみせて。火傷をしている」


 後ろに控える侍従の手には救急箱が提げられている。

 ソレスはリディアナの火傷に気づき、真っ先に会場を後にして薬を取りに行ったようだ。

 サラに促されるまま回廊の椅子に座り、ハンカチを当てる。

 ハンカチは濡れていて、ひやりと冷たく気持ちが良い。同時にずきずきと痛み出した。

 火傷をしていたことにも気づかなかった。


「僕が手当てをして誤解されてはいけないとサラを呼んだ」


 サラは涙目で患部にタオルを追加して冷やしていた。ナナリーが氷を用意すると走っていった。


「しばらく冷やした後にこの薬を塗ってあげて。リディアナのお父さんが作ってくれた薬だよ。とてもいい薬だから……痕が残らなければいいのだけど」


 ソレスがサラに指示を出し心配そうに患部を確認する。

 会場で起こった事をソレスに聞いたのだろう、サラの手は震えていた。


「リディアナは何も悪くないわ」

「そうだね。お祖母様も分かっているから、心配しないで」


 二人の言葉に鼻がつんとなり涙が出そうになる。

 心配をかけたくなくて必死に堪えて笑ってみたが、不自然な笑顔に逆に複雑な顔をさせてしまった。


「ありがとう」


 一言感謝を伝えるのでいっぱいで、あとは俯いて涙を堪えるのに必死だった。二人もリディアナの心情を慮ってそれ以上語りかける事はなかった。

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