第5話 王太子ルイス


 リディアナは全身ずぶ濡れでとぼとぼと回廊を歩いていた。

 今日の相手は中々の強敵で、リディアナは倍返しにあい噴水に突き落とされてしまった。

 ドレスは水を含んで重く、上から下へと水が滴り落ちる。今日は日差しがあり暖かいのでまだよかったが、とにかく水を吸ったドレスは大層重く、引きずるように歩いていた。

 城のメイドに助けを求めようかと思ったが、すでに日頃の行いがよろしくないリディアナは心証が悪く、またうるさく言われると思い諦めて自力で戻ることにした。

 草木をかきわけ白百合の棟へ続く回廊に姿を現したリディアナ。このまま誰にも見られずに戻れると思った矢先、ばったり城の騎士と鉢合わせしてしまった。

 驚く騎士たちは突然現れた怪しいことこの上ない娘から一人の青年を守るよう前に出た。

 青年は騎士の隙間からこちらに気づくと、目を丸くして固まった。

 それもそのはず、令嬢がずぶ濡れで生垣から現れれば誰だって驚くだろう。

 すらりとした細身の青年は、上等の服を着こなし紫紺の瞳を大きく見開いていた。濃紺の髪は少し斜めに流し、すっきりとした目鼻立ちは驚いた表情でも整った顔立ちをしているのがわかる。

 リディアナが婚約者候補の一人だと気づいた近衛騎士は唖然としていた。

 青年が前にいた騎士を下がらせる。少し吊り上った目でリディアナを睨んでいた。

 リディアナはすぐに彼が何者か察した。

 育ちのよさがわかる立ち居振る舞い、年もリディアナと近く、何より離宮に近衛騎士を従えて歩き回るのはもはや彼ら以外当てはまる者はいまい。

 フェルデリファ国王には二人の王子がいて、聡明で堅実な第一王子のルイスと、温和で感受性豊かな第二王子のソレスが王城で暮らしていた。

 弟のソレス王子は病弱であまり出歩かないと聞いていたので、おのずと答えは導かれた。

 纏う雰囲気は知的で少し冷たい印象を与えるが、緊張感が漂うのは王族としての威厳だろう。

 前にサラから聞いた、いかなる令嬢も彼の鋭い眼光にみつめられれば恋に落ちてしまうという噂も、あながち嘘ではなさそうだ。紫紺の瞳は魅力的で吸い込まれてしまいそうだ。

 しかしリディアナが気になる噂はもう一つの方。第一王子は若くして国政に携わり、国の中枢で働いているという。


「リディアナだな?」


 彼もまたリディアナを観察していたらしい。平凡な顔立ちの自分は特徴がほとんど無い。ずぶ濡れの令嬢で思い当たったのなら、中々パンチの効いた特徴だと心の中で笑った。

 本来ならば一国の王子と軽々しく口を聞いてはならないのだが、あちらから声をかけたのだから多分いいだろう。

 重いドレスをつまんで礼をとった。


「私がわかるか?」

「はい。ルイス殿下とお見受けします」


 返事は無い。間違ったかと恐る恐る顔をあげると、物凄く不機嫌そうな顔でこちらを見下ろしていた。

 

「その恰好はどうした。誰かにやられたのか?」

「お見苦しい姿をお見せして申し訳ございません」


 すぐに『不敬だ!』と叱られる訳ではなさそうなので素直に謝る。


「報告は受けている。何故揉め事ばかり起こすのだ。その度に城の者が仕事以外に駆り出されるのだぞ」


 ルイスは問題ばかりおこすリディアナに怒っているようだ。私だけのせいではないと思うが、皆に迷惑をかけているのは確かにその通りだ。

 あれ?

 ふと、これはもしや家へ帰れるチャンスなのではと名案が浮かぶ。


「申し訳ございません殿下。全ては私の不徳の致す所。言い訳の仕様もございません! 私も皆さんにご迷惑をおかけして心苦しいのです。私が言うのもなんですが、和を乱す娘は早々に実家へ帰した方がよろしいのではないでしょうか!?」


 とどさくさに紛れてそれらしく家に帰してくれとお願いしてみる。言葉とは裏腹に心の中でほくそ笑んでいた。


「!?」


 背筋がぞくりとしておもわず顔を上げた。

 ルイスは瞳をすっと眇め、リディアナを睨んでいた。すごく怒っていらっしゃる!


「真におかしなことを言う。ここにおれば私や弟に見初められるかもしれないのだぞ。王家と良縁を結べる機会を自ら放棄すると申すか。貴族は家の存続を守るためにより良い家柄と婚姻を結ぶのを第一に考える。王子妃ともなれば最高の地位であり栄誉である。実際ここにいる娘たちは君以外、毎日のように自身を売り込みに呼んでもいないのに集まってくるぞ。しかし君は騒ぎばかり起こして一度も挨拶に来なかった。ずぶ濡れの姿で突然現れる始末だ」

「……すみません」


 他の令嬢たちがそんな必死に王子に会いに行っていたとは知らなかった。というか挨拶に行くべきだったのかと驚く。


「家に帰りたいだと? エルドラント家は一体何を考えているのか……。このようなやる気のない態度をみると、すでに結婚を約束した相手でもいるのではないかと疑いたくなる」

「そ、そんな方はおりません!」


 王家を謀った不敬罪で家に迷惑がかかってしまうと強く否定した。


「違うのか?」

「はい!」


 自分と家の名誉のためにもはっきりと否定する。


「ならば王城を去りたい本当の理由を申せ」

「え? ええと、ここには素晴らしいご令嬢がたくさんおります。私のような変わり者は必要ないかと……」

「心にもないことを」


 ちらりとリディアナのドレスに目をやる。確かに、噴水に突き落とした相手を素晴らしいと言うのもおかしな話だ。


「私は……」

「罰したりはしない。正直に申せと言っている」


 ルイスの真っ直ぐな瞳に嘘は通用しないように思えた。


「私は……、よき家に嫁ぐことより、この国のため、民のために働きたいと思ってます」


 令嬢が働く。

 この国ではありえないことだった。

 現に今まで気配を消していたはずの近衛騎士が驚いた様子でみていた。

 ルイスは黙っていたが、きっと女の身で何を言い出すのかとか思っているだろう。


「こうみえて私は勉強が得意です。学ぶことばかりに夢中になっている時、ある方に出会い言われました。『お前の知識はなんのためにあるのか』と。私は知識ばかりを追い求めた自分を恥じました。そして己の知識を国に還元し、民のために役立てようと考えたのです」

「……それで?」

「私は侯爵家の娘。強い意志があろうとも、良縁を結べと言われたら家を背負うものとして受け入れねばなりません。どうして自ら辞退できましょう。私が令嬢らしからぬことを申しているのは百も承知です。しかし私にはもっと学ぶべきことがございます。ですから殿下から、今回の候補を取り下げて頂きたいのです!」


 あ、本当に正直に話してしまった。

 賭けだったが、罰しないと言ってくれたことも後押しとなって口に出た。出たら自分でも驚くほど言葉が溢れた。

 そうだ……。私はただ学ぶだけでは嫌なんだ。父のように、この才能をみんなのために役立てたい!


「ここを出て政務官になるための勉強がしたいと。ここにいては時間の無駄だと。城の外にこそ必要な知識があると?」


 そこまでは言っていないが、概ね合っていると頷く。


「男と同様に政務官を目指せると思っているのか? 君は女性でどんなに努力しようともその事実は変わらない。性別を偽ることはできないのだから」


 今度は言わんとしている事が分かり、リディアナは悔しさで口を引き結んだ。


「ただでさえ政務官になるのは狭き門だ。女性登用の前例は無く、その道は険しく今のままではほぼ不可能といえよう。君がどんなに優秀でも、前例を覆すためには努力だけでは成しえない。いいか、前例を覆すのは人だ」

「!」

「先ずは周りに己を認めさせて味方を増やせ。頭の固い男達を納得させて共に道を切り開く味方を作るのだ」


 開いた口が塞がらないとはこういうことを言うのだろうか。

 低く、澄んだ声は心地よく、出てくる言葉はリディアナの心に一直線に響いた。


「しかし君は王城という狭い世界ですでに問題を起こしている。周りに敵が多いのは君にも原因があるだろう。それを回避できる必要な知識と環境、機会があるというのに、それに気づかず知識だけを手に入れればいいと考える。愚かだと思わないか?」

「……はい」

「よし。まずはここでの生活でうまく立ち回り、味方をみつけたらどうだ。女として政治に携わりたいならば世界を変えるだけの力を身につけよ。今のままでは話にならんぞ」


 追い出されると思っていたのに、途中から思っても

みない方向へ導かれた。

 心臓を掴まれ、心の奥底から湧き立つ感情に震えた。

 リディアナが複雑な顔をしていると、それに気づいたルイスがはっとして気まずそうな顔をした。

 リディアナから目を逸らす姿は先程とは違いなんだか親しみが持てる。

 なんだろう、言い過ぎたとでも思っているのだろうか?

 リディアナは今言われたことをもう一度頭の中で繰り返した。


「そうですね。知識や教養、経験に無駄なものは何一つない。自分がおかれた環境をどう捉えるか。結局は自分の心次第ということですね」

「……」

「発想の転換か。思いつきもしなかった!」


 確かに自分が女である事実は変えられない。今までは令嬢らしさが嫌で逃げ回り、国で働くためには無意味なものと遠ざけてきたが、ルイスは逆に必要なことだと説いてくれた。

 リディアナの話は前例の無い常識はずれな考えだ。

 だけどこの方はリディアナの話を最後まで聞いてくれた。頭ごなしに否定するのではなく、馬鹿げた話だと笑うでもなく、真剣に答えてくれた。


『前例を覆すのは人』


 ああ、これがこの国の王太子なのか。後に国王となられるお方か。

 そして、リディアナが政務官となった暁には仕えるであろうお方。

 リディアナの心臓がどくんと跳ねた。実際に体が数ミリ浮いた。


「あら? ねぇ!」

「きゃあ、殿下がいらっしゃるわ!」

「なんという偶然ですの!」

「偶然? 運命ですわ!」


 せっかくの感動をぶち壊されて、庭には甲高い声が響いた。

 わらわらとこちらへ令嬢たちが集まって来る。

 そういえばここは白百合の棟への回廊。令嬢達と遭遇してもおかしくなかった。

 むしろ殿下の方が何しにいらっしゃったのだろう。

 令嬢達はこちらの様子を窺っていた。自分達から声をかけるのは不敬なので、お声がかからないかと期待の目を向けている。

 熱視線に辟易するリディアナ。ルイスをみれば彼もまた眉間に皺を寄せて明らかに嫌そうな顔をしていた。

 あれ? もしや殿下も苦手?

 そう気づいてしまうと可笑しくて、思わず笑いそうになる。


「何? あの子の格好」

「きっとお怒りを買ってるのよ」


 すぐに令嬢達がリディアナに嫌悪と怒りと嫉妬を向ける。リディアナは早速ルイスの助言を実行することにした。波風たたせず彼女達の意を汲む行動に移る。


「徳のあるお話をありがとうございました。私はこれで――」

「部屋まで送ろう」

「は?」


 手を取られると、そのまま呆然と立ち尽くす令嬢たちの間を通り抜けていった。

 振り返ると怒りでぶるぶる震える鬼の形相がいくつもこちらを睨んでいた。

 角を曲がると繋がれた手を振りほどいた。


「あの、これでは私がさらに王城に居づらくなったと思いませんか!?」

「わかっている。悪かった」


 ルイスからは直ぐに謝罪があった。額に手を当て、心底困っている様だ。


「声をかけてやるまで付いて来るのだ。毎度あのように足止めされては政務が滞ってしまう」

「政務が滞るのは駄目ですね」

「ああ」


 納得するリディアナにルイスはくすりと笑う。

 さっきも思ったけど、殿下って表情が変わると親しみがある? こんな風にやわらかく笑うのね……。


「巻き込んで悪かった。御礼に今度城の中を見学させてやろう」

「本当ですか!?」

「ああ」

「ではぜひ王城の図書庫に連れていって下さい! それから政務会議を見学……は無理なので、城で働く方々のお話をきいてみたいです」


 さらに図々しくお願いしてみる。思わぬところで当初の目的を堂々と果たせそうだ。


 ルイスに何度も約束を取り付けると一人で帰れると言ったのだが最後まで送り届けると言われ、王太子にそんなことをさせる自分の恐ろしさに一向に気づかないリディアナは、浮かれた歩調で部屋に辿り着いた。

 出迎えたナナリーはまずリディアナの格好に驚き、後ろに控える近衛騎士に驚き、更にその前に佇むルイス王子に驚いて数歩後ずさった。

 礼をして部屋へ入ろうとすると、ルイスに髪を一房とられた。


「濡れたままで足止めしてすまなかったな。風邪を引かぬよう温めて休め」


 そう声をかけられて「はい!」と元気よく返事をする。

 ルイスは柔らかく微笑んで王城へと戻っていった。

 ナナリーに「一体何をやらかしたのです!?」と詰め寄られたが、説明するのが面倒で適当にごまかしておいた。




 後日、ルイスは本当に約束を守り、リディアナは王城を見学することができた。

 念願の図書庫はリディアナの身長の倍はある高さの本棚が何列にも連なり、圧巻の景色にリディアナは飛び跳ねながら興奮して回った。

 どれもこれも読んだことのない本ばかり。中央には螺旋階段の周りを本棚が天まで届きそうなほどの高さに積み上げられ、首が痛くなるほど上を覗き込んだ。


「……ここに住みたい」


 付いてくれた司書が噴き出して笑っていたのも気づかず、終始感動しっぱなしだった。

 今日はここに布団を敷いて泊まりたいですと本気で打診したらルイスに即断られた。

 去り際に司書に数冊の本を貸してもらって溜飲を下げた。

 図書庫に時間を割いてしまったので、お仕事見学はまた後日ということになり、ルイスと軽くお茶をしてその日は終わった。


 それからもルイスはよくリディアナを誘ってお茶をしたり、本を貸してくれたり、外で会えば気軽に声をかけるほど仲良くなった。

 とにかくルイスは博識で話は尽きず、リディアナの考えにも深い理解を示してくれた。

 たまに叱られもしたが、彼と話すのはとても有意義で楽しかった。

 二人で過ごす時間が増えると勘ぐる者も現れ始めた。

 やがて二人の仲が城中の噂となる。

 リディアナ嬢はルイス様の『ご学友』だと――。


「さすがお嬢様。婚約者候補で参ったはずなのにご学友になられるとは! 素晴らしいです」


 肩を震わせながらナナリーが言った。

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