第18話 リディアナの過去


「なぜなぜと質問ばかり。素直にはいと返事をすればいいのです!」


 リディアナは自分を叱りつける家庭教師を見上げていた。

 身長は半分に縮まり目鼻立ちは幼い。部屋のベッドは小さく、ここが王都へ引っ越したばかりの十歳の頃の記憶だと分かった。


「女は従順で貞節でいてしとやかであればいいのです。知恵を付ける必要はありません」


 男が家紋を継ぐこの国では、女は良家に嫁ぎ子を産み家を守るのが美徳とされていた。

 必然的に女性が学を得ることを良しとしないこの国で、リディアナのように賢く学ぶ意欲のある女性は毛嫌いされた。知ろうとする行為だけで罪を犯しているかのように責められる。

 王都へ越して来たばかりの頃、田舎で自由に育てられ過ぎたリディアナに両親が家庭教師を付けた。

 慣習に凝り固まった考えの家庭教師との相性は最悪で、反抗すれば鞭で打たれ押さえつけられた。

 女は結婚が全て。夫を主君として仕える。

 それならいいよ別にそんな結婚したくない。

 しかし侯爵家の一人娘であるリディアナは、簡単に自由を許される身ではない。

 なによりリディアナは両親を愛していた。リディアナの勝手な振る舞いで非難を受ける両親に心が痛んだ。

 淑やかで従順であればいいと分かっているのに、どうしても出来ないのだ。

 家庭教師がいる部屋を飛び出した。廊下の壁には無数の蔑む目がリディアナへ向けられる。


 やめて! そんな目で見ないで!


 逃げるように駆け出す。どこまでも続く長い廊下はリディアナの苦しみそのものだ。

 走り続けた先に明かりが見えた。息を整えてそっと開く。

 そこには若かりし頃の両親がいた。談話室で父は難しい顔をし、母は泣いている。


「また粗相をして伯爵夫人を怒らせた。まだ子供だからと目をつぶってもらったが……。何故こうも問題ばかり起こすのか。しばらくリディアナを社交の場へ連れていくのは止めなさい」

「だけど年頃のお友達が一人もいないんですよ? 自分の世界に閉じ籠ってばかりで、本人は全く気にしていないし、もしこのまま一生一人だったらと思うと……」


 父の落胆と母の嘆きに胸が痛んだ。

 踵を返してまた廊下を走る。

 いい子でいたいのに、悲しませたくはないのに、自分でもどうして出来ないのか分からない。

 

「なぜ、そんなひどい事を仰るの?」


 場面は突如として明るくなり、華やかなドレスに身を包む少女達に囲まれていた。

 リディアナは一緒に遊んでいた少女が泣き出した理由が分からなかった。


「違うわ。私が言ったんじゃない。この子達が陰であなたの悪口を言っていたから、付き合いを考えた方がいいと忠告したのよ」

「ひどい!」

「私達そんな事言っていないわ!」

「信じちゃ駄目よ。リディアナ様は嘘をついているわ!」


 思わぬ逆襲に驚くリディアナ。嘘を付いているのはどちらか。よってたかって悪者に仕立て上げようとする少女達に吐き気がした。


「リディアナ様ひどいわ……!」


 庇ったつもりの少女にまでまで責められたら、もう心は折れて何も言えなくなってしまった。


「変わり者のあなたの言うことを信じるわけないでしょ?」


 少女達の言う通り、周囲を見渡しても味方はいない。いつも騒ぎを起こすリディアナを、腫れ物のような目で責める大人達。


「やめて!」


 見るもの全てを拒み耳を塞いで座り込む。

 褒めそやしていたその口で直後に平気で悪口を言う。そんな人を友達と呼べるのだろうか? 

 人の心は気持ち悪い。平気で嘘をつく。本当のことを言ったら怒られるの? 口をつぐめばいいの? なぜ私は学ぶことを許されないの? 女だから? 貴族の娘だから? ただ言われたことをこなし返事をして飲み込めばいいのか。理不尽を受け入れればいいのか。


「……だけど皆と同じ事をすると息が詰まるし言いたいことを呑み込むと胸が苦しくなるの」


 自分が自分ではいられなくなる。自分を自分で殺す行為だ。

 両親を愛しているのに、期待通りの娘にはなれない。

 いつしかこの世界は、ありのままの自分を受け入れてはくれないのだと悟った。平等に知識を享受することが許されない世界で、己の未来に絶望していた。

 どうやって大人になっていけばいいのだろうかと漠然とした不安が常に存在し、成長するのが怖く、生きるのがつらく、誰にも打ち明けられず苦しみ、投げやりになっていった。

 人が集まる場所は避け、家庭教師も辞めさせた。

 部屋に閉じ籠り一日中本を読む日々。

 さすがの両親もリディアナの異変に気付き、これ以上無理をさせるのは酷だと、見守るだけにした。

 足りない心を埋めるように本を読んでもいつも満たされにい渇きと虚しさを感じていた。



 地方出身のリディアナは知らなかったが、王都には貴族の男子のみが通うことを許された学校があった。

 王都にはたくさんの貴族が住んでいて、そのほとんどが国の仕事に従事している。中枢で働く者の殆どがこの学校を卒業生だという。


 リディアナは王立学院に興味を引かれた。

 使用人から借りた少年の服を着て屋敷を抜け出す。向かった先は王立学院。少年に変装したリディアナは、学院に忍び込み、中庭の草の上で授業を盗み聞いた。

 開け放たれた教室の窓からは、教師の質問に次々と答えていく学生達の声が聞こえる。

 時折笑い声や叱る声が混ざり、建物の中にはリディアナが一生手に入れることのできないものが詰まっていた。

 羨ましく眺めながら、隠れるように木の影に腰を落とした。


「さて、この詩が指す人類の宝とは何だと思う?」


 老いた教師は凛とした声で詩集の朗読を終えると、生徒達に質問をした。

 『人類の宝』という詩は、作者不明のフェルデリファに伝わる古い詩で、現在はその詩にメロディがつけられ国民により親しまれている。


『種を撒く 先人達の想いを受けて 芽を愛でる 水を与え 蕾を守る 大地に根を張り 花開く時まで』


 国民のほとんどが歌えるこの詩を、あえて授業で取り上げる必要があるのだろうかと首を傾げる。

 程度の低いつまらない授業だともその時は思っていた。

 生徒は思い描く『宝』をそれぞれ答えていた。


「『子孫繁栄』『豊かな大地』、なるほど。人それぞれ見解が違ってよろしい」


 先生はどれも間違いではなく正解なのだと言った。

 すると生徒の一人が、先生の『宝』の見解を訊ねた。


「私が思う宝は、君達の持つその教科書です。『知識』もまた、連綿と受け継がれる人類の宝でしょう。先人達の残した偉業に感謝しながら、知識を習得し役立ててください。では教科書を開いて――」


 感情が胸を突き上げてリディアナは空を仰いだ。

 先人達の残した知識が宝。

 魂が震えてリディアナの視界が歪んでいく。

 程度の低いなどと決めつけた自分を恥じた。同時に感動し、すぐに絶望した。

 先人から受け継がれた知識を、リディアナは享受出来ない。

 あの教師から教えを乞うことも、学友と共に切磋琢磨して学ぶことも、許されてはいない。

 この世はなんと不条理で不平等なことか。

 真実に打ちひしがれ、中庭で一人体を小さく丸めて涙を流した。

 悔しくて、それでも希望を捨てきれなくて、その日から意味の無いことだと分かっていても、足は学院へと向かった。

 誰に許されなくてもいい。

 私は学ぶことを止められないーー。


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