第二章

第23話 私には守りたい人がいる


 雲ひとつない晴天の下、海鳥が水面で羽を休めるほど穏やかな波に一艘の船が浮かんでいた。

 十日前にナパマ国を出航したこの船は、二月かけて三つの大陸を周遊する定期連絡船である。

 その甲板には新鮮な空気を吸おうと大勢の乗船客が集まっていた。

 甲板の上は穏やかな海とは対照に騒がしい。

 出航当初は順調だった船旅も、五日程前から雨が続き、ついに昨日は嵐に変わった。船は乗客と共に縦へ横へと大きく揺られ、乗船客は体力を奪われながら転覆の恐怖と命の危機に不安な夜を過ごした。

 嵐は船首の柵を一部破壊したが、奇跡的に航行に支障をきたす程の損傷はなく、翌日には嵐も過ぎ去りようやく落ち着いた所だった。

 外界は昨日までの荒天が嘘のように、雲ひとつない青空が広がっていた。そのため甲板には朝早くから引っ切り無しに五日分の太陽を体に浴びようと乗船客が集まっていた。

 大柄な中年の男は、船尾の甲板へ続く階段の上で立ち止まり、人の波に押し出されそうになりながらも辺りを見回していた。

 ちょうど進行方向にある手すりの所で目的の少年を発見し、人込みを掻き分けた。


「やっと見つけた」


 男に声をかけられたのは、甲板の手摺から海を眺めていた歳若い小柄な少年だ。彼は今朝方、船酔いで苦しむ乗先客に無償で薬を配っていた。

 男の妻も酷い船酔いで、気休めに外へ出たところで薬を配る少年に運よく出くわした。

 薬は劇的に効いて、妻を苦しみから瞬く間に救ってくれた。

 そのお礼をするために先程から少年を探していたのだが、元々強面なのを無理に笑顔を作って気さくに話しかけたのが、逆に少年に警戒心を抱かせてしまったようだ。

 少年は訝しい顔で数歩後ずさりしこちらの様子を窺っていた。

 男は早口で今朝の経緯を説明し、無償で貰った薬のお礼を持ってきたと伝えた。


「お気持ちはありがたいのですが、お金はいただけません」

「なぜだい?」

「勉強中の身ですから金銭をいただくわけにはいかないのです」

「そうか。若いと思ったが君は医者のたまごか」

「いえ。師は医者ですが、私は薬学を学んでおります」


 華奢な少年はまだ声変わりをしていないのか、少し高い声で丁寧に男の申し出を断った。意志の強そうな瞳に色白の肌、顎のラインで切りそろえられた金の髪が余計に少年を幼くみせていた。

 少年の言う通り、医者や薬師の資格がない者が薬を調合して配ったとなれば、国によっては法律に違反する恐れもあるので金銭のやり取りはしない方がいいだろう。


「良く効くいい薬だったよ」


 男が褒めると少年は美しい所作でお辞儀をした。


「船員や商人が薬を高値で売っていてな。あんなのはお貴族様か金持ちにしか買えやしねぇ。俺達のような平民は手が出せず困っていたんだ。だから助かったよ。しかしその、薬の材料もタダではないだろう?」


 少年が正式な薬師ではなかったとしても、物資に限りのある海上で薬を配った事を非難する者はいないだろう。

 心配する男に少年は大きく首を振る。


「お力になれたのなら何よりです」


 偽りのない笑顔を見せ、年長者を敬うように礼をして丁寧に断る少年は、本心からお金を受け取る気はないようだ。

 男は残念そうにしながらも、少年の崇高な考えに感服してお金を引っ込めた。

 少年は船の進行方向へ視線を戻し、背筋をぴんと張って真っ直ぐに次の寄港先である大陸を眺めていた。

 その横顔を見て男は少年に違和感を覚えた。

 清潔な格好と丁寧な言葉使いや立ち振る舞い。彼が薬学を学んでこんな連絡船に乗っているのが不思議で興味を抱いた。


「君はもしや、貴族のご子息か、そうでなくとも裕福な家の出ではないのかい?」


 少年はぴくりと肩を揺らす。無粋なこととはわかっていてもどうにも少年の生い立ちが気になってしまう。


「若いのにしっかりしているし、君の所作はまるで――」

「うおえええええええええええ」


 男の言葉をかき消すほどの苦悶の声が甲板に響き渡る。おもわず男は続く言葉を呑み込んでしまった。


「ううぅ……薬、……くずりをくれぇー」


 汚物を吐き出した大柄な青年は、甲板の柵から海の方へ半身を乗り出しぐったりしていた。

 周囲の人々は視線を逸らしたり口にハンカチを当てたりしながら青年から逃げるように去っていく。こういった光景は船旅の甲板では珍しくない。


「な、なあ君、この兄ちゃんにも薬を分けてやったらどうだ」

「お気になさらず。彼は船酔いではなく『二日酔い』です」

「この薄情者ー!」


 どうやら二人は知り合いのようだ。


「おい兄ちゃん、あんな嵐の中で酒飲んだらそりゃ酔いも回るだろうが。吐く物吐いちまった方が楽になるぞ」

「うううぅ」


 男が声をかけると同時に鐘がなり、船があと数刻で上陸することを知らせた。


「俺は次の寄港先『フェルデリファ国』で降りるんだ」

「あ、我々もフェルデリファで下船します」

「へえ! じゃああんたらはフェルデリファ国の人かい?」

「……はい」

「まさか同郷だったとはなあ。俺は港で小さな商店をしている。またどこかで会えるかも知れないな。それじゃあ、本当に助かったよ。兄ちゃんも、お大事にな!」


 男は機嫌よく客室へと続く階段を駆け上がって行った。

 見送っていた少年の背に、まだ顔色の冴えない青年、アルバートが声をかけた。


「探られた訳ではなさそうだが、大丈夫だったか?」

「気づかれてはいない」


 ドアの向こうに姿を消した男を確認し、再び前を向いて大陸を眺めた。

 身分を隠していた旅ももうすぐ終わりを迎える。

 ここまで慎重に事を進めてきたが、一年ぶりの帰国に知らずに心が浮き足立っていたのかもしれない。彼の口から祖国フェルデリファの名を聞き、自分も同郷だと思わず口を滑らせてしまった。

 アルバートが会話をうまく逸らしてくれたが、男の言う通り、確かに少年はただの薬師ではなく生まれはこの国の貴族の出で、身分の高い者だった。それを隠さねばならない理由が彼にはあった。

 少年はフェルデリファ国エルドラント侯爵家に生を受け、名をリディアナ=エルドラントという。

 そう、男は気づきもしなかった。


「私が女だなんてね」


 潮風が少年、もとい少女の短く切り揃えられた金色の髪を優しく撫でる。彼方には大陸が肉眼でも確認できるまで近づき、船員が下船の知らせを声高に知らせていた。

 もうすぐ……もうすぐで……。

 逸る気持ちを抑え、緩んだ気持ちを今一度引き締めた。

 私には、守りたい人がいるーー。

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