魂離れ 壱


 倉へ戻ると、熊が正座をしていた。

 

 ではなく、主人である史紀ふみのりが随身の忠行ただゆきにきつく絞り上げていたのである。

 はじめは何やら言い返していたが、その都度するどい眼光に睨めつけられ、大きいはずの男はしゅんと小さくなっている。その後ろでウツギはしばらくどうしようかと様子を見ていたが、先に正座している方が少年に気がついた。

「お見送りごくろう、ウツギ。外は暑かったろう」

「はあ、まあ」

 

 何とも言えぬ沈黙。

 

 とくに忠行ただゆきが生真面目を形にした顔をじっとこちらへ向けているのだが、何を言いたいのか微塵も伝わらない。

 とりあえずとばかりに重行しげゆきから渡されたふみを手渡すことにした。

「あ、文を渡されました」

「そうかい」

 そのまま横にいる随身へ流す。またしても読む気がないらしい。

「じゃあ俺は……」

 しばし悩んだのち、ウツギは空の書棚横に立てかけてあったほうきを手に取った。 

忠行ただゆきさまもお戻りになられましたし、外の掃除でもしてまいります」

「いやいや!お前、あれは何だったのだとか気にならないのか」

 さかさず大声で呼び止める忠行ただゆきに呆気に取られる。

「たしかに……何だろうなとは思いましたが」

 

 記憶を失っているためなのか、それともそもそも知らなかったのかわからないが、あの客人が何者で、いったい何の会話をしているのかまったくわからなかった。ゆえにとりあえず黙って聞いているふりをしていたが、暗号の飛び交う空間は実に退屈で、こういう時は顔を隠しているのは便利だとすら思った。声を殺せばあくびも許される。

 

 はあ、と深々と息を落として忠行ただゆきは言葉をついだ。

「ならばさり気なく聞いてみるくらいしろ。無知はよくない」

「俺の関わることでもなさそうでしたので」

史紀ふみのりさまにはまだしも、今は同じ家人かじんである私には遠慮はいらん」

 こちらの両肩を摑んできっぱりと言い切るその勢いに、少年は「じゃあ聞いておきます」としか答えられない。

 すると、主人が横から言葉をさした。

「君たち、本当に仲良くなったよねえ」

 

 護衛を任されているその立場から、忠行ただゆきはけっしてすぐに他者へ気を許すような性格たちではない。

 ゆえに当初は真っ先に鬼子おにごのウツギを追い出せと口煩かった。だがたったの三日で留守を任せるようになり、こうして指導を施そうとまでしている。

「仲良くなったわけではありません。言いつけたことをしっかりこなすから、使えると判断しただけです」

 

 ウツギは実によく働いた。

 

 あまり食事をつくるのはうまくないものの、掃除洗濯は丁寧で、注意すればすぐに直してみせる。

 覚えるのがとにかく得意で、一気に複数の指摘や命令をしても間違えることはない。逆に、指示していないことに対してあれこれ考えて気を利かせることはないが、勝手に余計なことを一切しない。 

 事実、突然の来客でも忠行ただゆきに言われたことはすべて行った。

 

 外に客人を放って置いてしまったことには改善の余地があるものの、それでも真っ先に部屋と主人を整え、主人の威厳を保ってみせた。

「というか記憶のない子どもこ家人かじんに常識で負ける大人の主人は問題大有りです」

 つい先ほどまでの問題ある行動をあれこれと挙げ連ねて、「反省してください」と強く言った。忠行ただゆきのほうが年上なのもあって、父が子を叱りつけているような光景だ。

 

「で。話は戻すが、先ほどのふたりは朝廷のいわゆる高級役人だ」 

 恰幅のよい中年のほうが、関白を父に持つ太政官だじょうかん次官すけで、まつりごとの中核のひとりである。もう片方の、小柄で史紀と同じ程度に若い方は蔵人頭くろうどのとう近衛中将このえちゅうじょうを兼任する者で、いわゆる帝の秘書官である。

「どちらにせよ、はっきりとは言っていなかったが、今上帝きんじょうていの遣いとして訪れたのだろう」

「遣い、ですか」

宵結よいむすびの守部もりべ今上帝きんじょうていの叔母上にあたる。その死について、第三者である私の意見を聞きたいらしいよ」

 

 はあ、とウツギはなんとも言えない無感動な反応をする。

「お前はもう少し驚け。それと慌てろ。前の主人がこのうえなく高貴な御方なのだぞ」

「そうは言われましても、ピンとこないものでして」

 ああ言うこの男こそ、ウツギの拾われた現場を知れば目玉が飛び出ることだろう。その死体のかたわらで返り血を浴びたように血まみれだったのがこの少年なのだから。無知は恐ろしいとこの公達は言っていたが、まったぬもってその通りである。

「しかし、後宮も変わらず平和なようだね」

「あれを平和と呼んでいいのですか。何やら皇后の体調が優れぬようですが」

「まだ人死ひとじにが出ていないのだから、平穏なものだよ」

「まあもとから、ある程度のことは起きていただろう」

 ある程度のこと、に毒を盛られるというのは含まれているらしい。

 

 忠行ただゆきいわく、きょうの地には従八家じゅうはっけと呼ばれる朝廷で重役を担う名門家がある。

 そのなかでも直近で権力を有するのが錦瀬にしきぜ雁舞かりまいである。

 

 当然のように両家の姫は今上帝きんじょうていの妻として後宮へ送られたのだが、その妻たちの事情が複雑なのだ。

 錦瀬にしきぜの姫は祖父である関白から多大な期待を寄せながらも、嫁いではや十年、皇子に恵まれていない。かたや、雁舞かりまいの姫である女御にょうごにはすでに三つになる皇子がいる。

 関白の座と帝の座、両側をおさえたい錦瀬にしきぜにとっては面白くないことであるが、雁舞かりまいにとっては形勢逆転の好機である。ゆえに実光さねみつが考えるように、雁舞かりまいが皇后が子を産むのを何としてでも阻止するというのも考えられる事態である。その一環で、皇后が男子を産む手助けをしかねない宵結よいむすびの守部もりべを亡き者にしようとするのも想像に難くない。

 

「だがあの錦瀬にしきぜのことです。ひと芝居打って雁舞かりまいを貶めているとも考えられます」

 ううむ、と悩ましげに顔を歪める随身に、主人はからからと笑った。

「狸と狐の化かし合いだねえ」

「いや、雁舞かりまいの男はすぐ顔に出るのが難点なんですがね」

「なら狸と……犬?」

「無理に獣で例えないでください」

 とわかりやすく怒った顔で返す。この男も雁舞かりまいの男である。その顔を指差して、「ね?」と同意を求める主人に、ウツギは「はあ」としか答えられない。このままでは忠行ただゆきをからかう方向へ話がそれかねなく、頭痛がするとばかりに蟀谷こめかみをおさえ、忠行ただゆきは「とにかく」とその流れを断ち切った。

 

「どちらにせよ、「不干渉」であることを求められる史紀ふみのりさまは関わってはことです」

 

 なぜ不干渉であるべきなのかについては触れない。つまりはそこは問うなと言うことである。

 わきまえているかのように黙して聞くウツギに満足したのか、小さく息をつくと、今度は主人へ視線を向けた。

史紀ふみのりさまはうっかり興味を惹かれたりしないでくださいね」

「自分で追い返しておいて、そんなことしないよ。君は私をなんだと思っているんだい」

「貴方の気の変わり方は季節の変わり目の天気より読めないから困るのです!」

 ハハハと乾いた嗤いで流そうとする主人はこれ以上の小言を聞きたくないのかウツギを手招きするしぐさをした。

「……なんですか」

「欲しければあげるよ」

 差し出されたのはきっと忠行ただゆきのつもりであろう、への字の顔を描いた楽書らくしょである。この御人おひとはまたしても人の話を聞き流しながら手遊びをしていたのである。何処となく似ているのだから、何とも言えぬ気分になる。

 ウツギはその楽書らくしょを受け取りながらきっぱりと、「欲しくはないです」と返した。忠行ただゆきの小言が再開したことは、言うまでもない。

 

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