雁舞の家 参


 日宿大海ひやどりのあわは今日もまばゆかった。

 稲刈月いねかりづきに入ったとは言え、まだまだ暑さは続き、空は濃く鮮やかな青で染め、厚い入道雲をふちに重ねている。蝉の声に寒蝉ほうしぜみが入り混じりつつあることだけが、季節の入れ替わりを予感させていた。

 

 ――少年が浜辺を訪れたのは、あの日以来かもしれない。

 海原に沿って続く白い砂浜にはもう、あの日の痕跡はない。小さな子どもたちがきゃらきゃらと笑って駆け回る、日常を謳歌する光景だけがそこにある。

「知っているか」

 突然に切り出され、ウツギは小柄な公達へ目を向ける。

 男は宵結よいむすびの守部もりべの遺体が横たわっていたあたりに立ち、まぶしさで目を細めていた。

宵結よいむすびの守部もりべの刺殺体が見つかったとき、そばには顔を隠した不審者がいたそうだ」

 背は子どものように低く、華奢。元の色がわからぬほどに血で染まっていたその者は浜へ逃げ、その姿をくらませた――つまりは、ウツギのことである。

「泳いで岩場にでも流れたのではないか、と検非違使けびいしどもは考えているらしい」

 ちなみに泳げていない。溺れていたところを史紀ふみのりに救われたのである。

 その検非違使けびいしも、まさか貴族である史紀ふみのりが乱入し、楽しく海水浴と岩登りをしていたとは想像だにしないであろう。

 

 重行しげゆきは、水がかからぬ程度の波打ちぎわを歩きながら、ふと思い当たったかのようにぽつりと言葉を落とした。

「私は宵結よいむすびの守部もりべという御方にお会いしたことがある」

 唐突な話題の入れ替わりに、ウツギは眉をひそめた。

 なぜ死体発見当時の話から、過去の思い出話などしたくなったのか。困惑するウツギに構うことなく、重行しげゆきは話を続けた。

「まだ幼く、元服して少したったくらいの忠行ただゆき兄上にくっついて海へ遊びに行った日だ」

 その時はまだ、先帝の御代みよ宵結よいむすびの守部もりべ宵結よいむすびの守部もりべではなく、ただの神鏡かがみの女であった。

 重行はよたよた歩く五つくらいの幼子で、従兄弟の忠行ただゆき左少将さしょうしょうの地位にいたまだ意気揚々とした青年だった。

 

忠行ただゆき兄上にはひとり、武芸に秀でたご友人があったのだが、そのご友人がいとも容易に叩きつけられていた」

「何が言いたいんですか」

 あまりに話が見えず、思わず声に出してしまっていた。これが史紀ふみのりであればのんびりと笑って返しただろうが、重行しげゆきは不快そうに眉間に皺を寄せていた。心が狭い。

「……口を挟んで申し訳ありません」

「構わん。つまり、それほどまでに宵結よいむすびの守部もりべはお強かったというだけのことだ」

「すごいんですね」

「ああ。あの御方以上に強い武人にはいまだに会えていない」

 そこでようやく、合点がいった。

 町人たちが見かけた血塗れの容疑者は、小柄で華奢。そのような武人あるまじき体躯をした下手人が簡単に手の下せるはずがないのだ。

 

「ならば、なんだとおっしゃるのですか」

「その者が下手人ならば、よほど親しい仲の者が相手だったのか、あるいは身動きが取れない何かがあったのかではないか、ということだ」

「身動きがとれない……てどんな状況ですか」

 気不味い沈黙が落とされる。

 簡単に言うが、それほどまでに武術に長けると言う相手を身動きが取れなくするのも至難の業だ。

「あの御方に限って想像しがたいが、誰かを庇っただとかだな」

「想像しがたいんですか」

人情にんじょうというものから最も程遠い御方だった」

 きっぱりと失礼な物言いである。だが彼のなかにはそう断言するだけの確証があるのだ。

「あの御方は好奇心の権化だ。それでいて良識や常識に囚われることのない、自由人でもあった」

 純粋な好奇心、というものがいかほどに残酷なことか。そう小さく呟くと、男はそこで言葉をつぐんだ。

 

 ふたりの間に、静寂がもたらされる。

 ざざん、と波が強く打ち、その水しぶきが括袴くくりばかまから剥き出しの少年の足を冷たく濡らした。

 入道雲が一瞬、陽光を翳らせた。海原の水面をすべる光の粒も勢いを弱め、視界にも静けさがおろされたようである。

 だがその静まりもほんのひとときである。

 少し激しさのある海風がひゅうっと吹き付け、頭巾ずきんや衣の袖でばたばた音を立てると、雲は流れ、光は呼び戻されていた。その眩しさに目の前が白んで、ウツギは目をつむった。

「ひとつ、忠告しておく」

 閉ざされた視界のむこうで、重行しげゆきがそう言い、ゆっくりと続けた。

にいつまでも付き合うな」

 何のことかわからない。ようやく光に慣れたまなこで前方を見れば、男はすでに背を向け、「私はこれで失礼する」とひと言告げていた。




❖ ❖ ❖




 強い海風が吹き渡ったとき、史紀ふみのりはちょうど、岬の先端に座っていた。

史紀ふみのりさま、なんて格好をしていらっしゃるんですか!」

 悲鳴のような随身ずいじんの声で振り返るその男は、これでもかというほどに気楽な格好をしていた。

 烏帽子えぼしをまとわず、頭は髷を結ったごわごわの黒髪が露わにし、今日は面倒で手入れしていない顔は無精髭がちらちらと生やしている。加えて片腕からやなぎ色の袖を下ろし、筋骨隆々な半身を垣間見せていた。

 

「誰も見ていないのだから、問題ないよ」

「大有りです。せめて髭を剃って冠を被ってください」

「暑いからどうにもやる気が出なくて」

「ふ、み、の、り、さま!」

 これぞ鬼の形相という吊り上げたまなこを向ける忠行ただゆきに、史紀ふみのりは「君は小うるさいねえ」とまったく空気の読まないぼやっとした声をこぼした。

「それにいいじゃないか、今日くらいは」

 今日くらいは、という言葉にはどこか憂いが含まれている。寂しげに顔を曇らせる主人に、随身も口をつぐむ。

「そういえば、今日でしたね」

「ああ。稲刈月いねかりの初めの日。あの日も、こんな空の青い日だった」

 自分の脚をささえに頬杖をつき、海原を臨んだ。

 

 さらさらと柔らかな風がまた吹いて、髷からこぼれたかたい髪をさらう。

「いやあ。父上も、宵結よいむすびの守部もりべが死んだなんて聞いたら、耳を疑うだろうね」

「信じないでしょうねえ。なんせ、同僚はもちろん環栄かんえいの武人たちより腕の立つと自負していたのに、手合わせでこてんぱんにされましたからねえ」

「ハハハ、懐かしいなあ」

 そう言えば海に沈められて濡れ鼠にされていたねえ、などとふたりは故人の不名誉な思い出話に花を咲かせる。

 

忠行ただゆき。私は父上の望み通り、幸せな日々を暮らせていると思うんだ。きっと君のおかげだね」

 何気なくこぼされたその言葉に、忠行ただゆきはぎょっと目を見開いた。

「な、なんですか急に。褒めたって服装を許したりしませんからね」

「駄目かあ」

「駄目です」

 史紀ふみのりはまた、からからと笑って、でも事実だよ、と付け加えた。その時の主人の顔はちょうど影になっており、忠行ただゆきは見ることができなかった。

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