雁舞の家 参
――少年が浜辺を訪れたのは、あの日以来かもしれない。
海原に沿って続く白い砂浜にはもう、あの日の痕跡はない。小さな子どもたちがきゃらきゃらと笑って駆け回る、日常を謳歌する光景だけがそこにある。
「知っているか」
突然に切り出され、ウツギは小柄な公達へ目を向ける。
男は
「
背は子どものように低く、華奢。元の色がわからぬほどに血で染まっていたその者は浜へ逃げ、その姿をくらませた――つまりは、ウツギのことである。
「泳いで岩場にでも流れたのではないか、と
ちなみに泳げていない。溺れていたところを
その
「私は
唐突な話題の入れ替わりに、ウツギは眉をひそめた。
なぜ死体発見当時の話から、過去の思い出話などしたくなったのか。困惑するウツギに構うことなく、
「まだ幼く、元服して少したったくらいの
その時はまだ、先帝の
重行はよたよた歩く五つくらいの幼子で、従兄弟の
「
「何が言いたいんですか」
あまりに話が見えず、思わず声に出してしまっていた。これが
「……口を挟んで申し訳ありません」
「構わん。つまり、それほどまでに
「すごいんですね」
「ああ。あの御方以上に強い武人にはいまだに会えていない」
そこでようやく、合点がいった。
町人たちが見かけた血塗れの容疑者は、小柄で華奢。そのような武人あるまじき体躯をした下手人が簡単に手の下せるはずがないのだ。
「ならば、なんだとおっしゃるのですか」
「その者が下手人ならば、よほど親しい仲の者が相手だったのか、あるいは身動きが取れない何かがあったのかではないか、ということだ」
「身動きがとれない……てどんな状況ですか」
気不味い沈黙が落とされる。
簡単に言うが、それほどまでに武術に長けると言う相手を身動きが取れなくするのも至難の業だ。
「あの御方に限って想像しがたいが、誰かを庇っただとかだな」
「想像しがたいんですか」
「
きっぱりと失礼な物言いである。だが彼のなかにはそう断言するだけの確証があるのだ。
「あの御方は好奇心の権化だ。それでいて良識や常識に囚われることのない、自由人でもあった」
純粋な好奇心、というものがいかほどに残酷なことか。そう小さく呟くと、男はそこで言葉をつぐんだ。
ふたりの間に、静寂がもたらされる。
ざざん、と波が強く打ち、その水しぶきが
入道雲が一瞬、陽光を翳らせた。海原の水面をすべる光の粒も勢いを弱め、視界にも静けさがおろされたようである。
だがその静まりもほんのひとときである。
少し激しさのある海風がひゅうっと吹き付け、
「ひとつ、忠告しておく」
閉ざされた視界のむこうで、
「
何のことかわからない。ようやく光に慣れたまなこで前方を見れば、男はすでに背を向け、「私はこれで失礼する」とひと言告げていた。
❖ ❖ ❖
強い海風が吹き渡ったとき、
「
悲鳴のような
「誰も見ていないのだから、問題ないよ」
「大有りです。せめて髭を剃って冠を被ってください」
「暑いからどうにもやる気が出なくて」
「ふ、み、の、り、さま!」
これぞ鬼の形相という吊り上げたまなこを向ける
「それにいいじゃないか、今日くらいは」
今日くらいは、という言葉にはどこか憂いが含まれている。寂しげに顔を曇らせる主人に、随身も口をつぐむ。
「そういえば、今日でしたね」
「ああ。
自分の脚をささえに頬杖をつき、海原を臨んだ。
さらさらと柔らかな風がまた吹いて、髷からこぼれたかたい髪をさらう。
「いやあ。父上も、
「信じないでしょうねえ。なんせ、同僚はもちろん
「ハハハ、懐かしいなあ」
そう言えば海に沈められて濡れ鼠にされていたねえ、などとふたりは故人の不名誉な思い出話に花を咲かせる。
「
何気なくこぼされたその言葉に、
「な、なんですか急に。褒めたって服装を許したりしませんからね」
「駄目かあ」
「駄目です」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます