雁舞の家 肆


 ウツギが倉へ戻ったとき、なぜか史紀ふみのり忠行ただゆきは腕相撲をしていた。

 

 畳の真ん中に文机ふづくえを置き、ふたりして這うような姿勢で袖をまくった腕を置き、力を籠め合う。ウツギが帰宅したさいには、ちょうどズバン、という激しい音と同時に忠行ただゆきの腕が叩きつけられているところであった。

 なんとも気不味い時に帰ってきたものだ――忠行ただゆきは羞恥で赤面し、さらには冷や汗たっぷりにかいていたが、少年はただぽかんとして突っ立っていた。

 

 何と言えばなんと言えばよいのかわからない。ウツギはしばし考え込んだのち、

「ただいま戻りました」

 とだけ言って、後で春市はるのいちへ寄って買ってきた食材を下ろし、頭巾ずきんも外してひと息ついた。見なかったことにしたのである。

 さすがにここまで分かりやすく目を逸らされると、かえって居たたまらない。忠行ただゆきはすくりと起き上がり、ウツギの両肩をつかんだ。

「お前、少しはツッコめ」

「はあ。こういう時、なんて言えばいいんでしょう」

 真面目に聞き返されると、なんだろうとなるものである。忠行ただゆきは眉間の小じわへさらに皺を寄せて沈黙した。

 

 真面目に考え始めた男を横目に、ウツギはそっと文机ふづくえ前に座る主人へ寄った。

史紀ふみのりさま。このあとよろしいですか」

 さすがにこっそり訪問した重行しげゆき言伝ことづてをこの場で伝えるわけにもいかない。声を極限まで小さくして耳打ちである。

 史紀ふみのりもウツギの行動から何かさとったのか、ふむと呟いて、

「よし、忠行ただゆき。負けた罰として、いつもの場所を十周!」

 かなり無理のある追い出し方である。

「はああ!?最後のは不可抗力ですよ!ウツギが帰ってきてつい……」

「それでも負けは負けだよ」

 ぐいぐいと背を押し、さっさと行けとうながす史紀ふみのりに、忠行ただゆきは実に悔しげである。

 

 いつもの場所とは海辺から岬を上がって南繋なんけい神宮じんぐう前までの道である。高低差があるうえ、海辺は砂地なのでとてつもなく足場が悪い。それをぐるぐる十回走ってこい、と言っているのだ。

 日々、この主人は他の官人かんにんではあり得ないほどに暇である。ゆえにこうして随身とくだらない勝負をして罰ゲームを科すという、子どものようなことをしているたびたび行っている。ちなみに、たいてい負けるのは忠行ただゆきである。しかも主人を立てて、などではなく比較的本気で負けている。

 

「ほら、さっさと行った行った!」

「ウツギ、史紀ふみのりさまのお守りは頼みましたよ!」

 と大真面目に罰ゲームに従う中年男はなんとも痛々しい。倉の前でもりの向こうへ消えていく忠行ただゆきを見送ると、くるりと振り返って史紀ふみのりを見上げた。

「余計なことには首を突っ込むな、この返信はしろクソ野郎、らしいですよ。あ、あと。三日以内にお返事を出さないと、忠行ただゆきさまに言いつけるそうです」

「ハハハ、重行しげゆき殿らしい罵倒だねえ。怖い怖い」

 差し出した重行しげゆきふみと随身の屋敷で回収した書物を史紀ふみのりは苦笑交じりに受け取った。

 今は目を通す気分らしく、史紀ふみのりは珍しくもふみを開いた。読みながら、ふんふんなるほどねえ、とよくわからない独り言をこぼして、ふみを閉じる。

 

「ウツギはさ、智の蔵ちのくらが何かを知っているかい」

「いえまったく」

 あっさり認める少年に、主人はまた苦々しく笑う。

 智の蔵ちのくらとは史紀ふみのりに与えられた役職の名であり、そしてこの倉の名でもある。ウツギはそれだけを知っていたが、それ以上は知らされていない。そもそも、ふみの仕分けを除き、下働き程度の働きしか求められていないので、知る必要もない。

 中で話そうか、と穏やかに目を細める男に従って、ウツギは倉の中へ戻った。円座わろうだを適当に敷き、お座りなさいと言われたので黙ってそこに座った。

智の蔵ちのくらっていうのはね、この国が最低限やりくりできる程度に必要な知識を記憶に保管する者のことだよ」

 最低限の知識、とは民が食っていけるよう作物を育て鳥獣や魚を狩り、布を織り、道具をつくる。それらの一部を取り立てて、治水に当て、民を暮らしやすくする――これらの流れを淀ませないために必要な知識のことである。

 なぜこのような役職があるのかと問われたら、伝統だからとしか言えない。いつから始めたのかは誰も知らず、この役職はずっと昔の先祖たちから受け継がれている。

 きっとそのかつてには意味のある役職だったのだろうが、人も道具も満ち足りた今では不要。かつては十数人は抱えるのが当然であったが、予算の無駄なので人数を削り、今や史紀ふみのりひとりとなっている――らしい。

「だからかなりの知識は頭にあるんだけど、全部じゃあないんだ」

「はあ」

 だから何なのだ。話が読めず、ウツギは首を傾げるが、史紀ふみのりはにっこりと「まあ、そういうわけだよ」。まったくわけがわからない。

 

「さて。まあ話は逸れたけど、どうだった?」

 逸れたもなにも、そもそも話を始めていない。ウツギは小さく息をつくと、おそらく問うているだろうことの答えを返す。

「ひとつ気になることはあるのですが」

「そうかいそうかい。それは遣いにやっただけはある」

「でも確証はありませんよ。比べるにしても違いがありすぎましたので……」

 おそらく文を用いることで手を回したのだろうが、雁舞かりまいの屋敷をふたつ訪れることができた。

 だが、方や異様に質素で主人の部屋は無駄に散らかっているというあべこべな屋敷で、方やそもそも主人がまったく帰っていない屋敷。実光さねみつのように貴族らしく華やかにして、かつ日々帰宅している屋敷とはわけが違う。

「まあ、そうだろうね。重行しげゆき殿の屋敷はすごかっただろう」

「まあ、はい」

蔵人の頭くろうどのとうなんていう頭のおかしい忙しさのある役職を兼任しているからめったに帰れないのに、帰宅すると一瞬でああなるから、家人かじんも諦めているそうだよ」

 なるほど、あれでも家人の手が入っていたのか。一瞬であそこまで書物を散らかすのはある意味才能と言えよう。史紀ふみのりでもあそこまでは行かない。史紀ふみのりはじっくりゆっくり時間を掛けて散らかすたちである。

 

 さてと、と話を切り出すかのような口調で史紀ふみのりは呟くと、ウツギの肩をぽんと叩いた。

「さて。確証を得るために、本拠地へ乗り込もうか」

「……はい?」

「あの日は理由をつけて実家に呼び寄せさせたけど、皇后陛下がいつも暮らす場所は別にあるだろう」

「嫌な予感しかしないのですが」

 皇后が暮らすのは大内おおうちの一角。そのうちの帝の暮らす御所ごしょの区画にある後宮と言われる場所だ。さすがに御所ごしょのなかを顔を隠しているいかにも怪しい者が入っていいはずがない。

「大丈夫大丈夫。思ったよりだから。また実家に呼び寄せても、きっと今度は尻尾を隠すだろうからね」

 手配するから後宮へ行って来い。

 ここまでの無茶振りをする主人はきっとそういないであろう。ウツギは開いた口が塞がらず、呆然とした。

 

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