白陰の香 壱


 ――後宮。

 またの名を七殿五舎しちでんごしゃというその一角は、帝の住まう清涼殿せいりょうでんの北側に位置する。

 そこに住まうのは従八家じゅうはっけから妃として選び抜かれた女たちと、その女たちに仕える女房たち、それから親王しんのう内親王ないしんのうたち。その中でも最高位の妃、皇后が暮らすのは弘徽殿こきでんである。

 

 神鏡かがみ玲仁あきひとが帝の地位に就いてから弘徽殿こきでんとその皇后の座を賜ったのは、関白の孫娘、徳子さとこである。彼女は今年の春に懐妊かいにんし、皇后にとって初めての皇子が期待されていた。

 

「皇后さま、おかげんはいかがですか」

 宮の女房のなかでも年齢の高い信子のぶこは、小じわにさらに皺を寄せた物憂げなおももちで、横に伏す皇后の顔をのそきこんだ。

「ありがとう。だいぶよくなりましたわ、信子のぶこ

「ああ!そんなご無理なさらないで」

 ゆっくりと身体を起こす徳子さとこの顔は青い。

 また倒れたのである。神官、宵結よいむすびの守部もりべの死が認められるより少し前から突然の「眠り」は起きるようになっていた。その数は日に日に増し、いまや一日に一度はふつりと意識を手放している。

「おいたわしい。代わって差し上げられたらどんなによいことでしょうか」

「そんなこと言わないで、信子のぶこ。そうなればわたくしが悲しいですわ」

「皇后さま……」

 

 いまの皇后の立場は実に不安定である。

 同じ妃である女御たちには皇子がおり、そのなかでも第一皇子を生んだのが雁舞かりまいの血を引く女。

 雁舞かりまいは他の従八家じゅうはっけに比べてもとくに帝に近しい地位を抑える一族で、かつては摂政関白の座も有していた。だと言えのに、皇后の座を含め今代は錦瀬にきしぜにかすめとられてしまった。これで皇后が皇子をうみ、皇太子として選ばれてしまえばおもしろくなかろう。

 おかげで雁舞かりまいに近い家門の者たちからの嫌がらせは激しく、その近しい者のなかに医師がいるので悩ましいところなのだ。

 どうしたものか――宮の女房たちは口々にそう嘆き、息を付いた。

 

「このお腹の子のためにも、母としてしっかりしなくてはなりませんわね」

 周囲を元気づけようとしているのか、その声は明るい。その声に信子のぶこも微笑を浮かべ、同僚たちを鼓舞するように言葉をつぐ。

「そうですよ、皇后さま。私たちも可能なかぎり精いっぱい、支えますから」

 その鼓舞に呼応するように、意思のかたい表情で女房たちは頷きあった。

 

 すると、ひとりの女房が声を上げた。

「皇后さま。実光さねみつさまがいらっしゃいましたよ」

「まあお父さまが?お忙しいのにいつも来ていただいてしまって申し訳ないですわ」

 頬に手をあて、おっとりと首をかしげる。

 肚に子を宿してから、よほど期待しているのか足繁く通ってはいたのだが、倒れるようになってからはその数はいっそう増やされている。

「愛する娘を案じておられるのですよ」

「そうは言っても信子のぶこ、毎日はやりすぎですわ」

 

 一日二回訪れることだってあるのだ。女房たちが苦笑しながら、寝台からおりた皇后の身なりを整えるのを手伝った。くしけずると豊かな黒髪は濡烏ぬれがらすの羽根のごとくつやつやして、ふっくらとした白い肌には淡萌黄うすもえぎ薄紅梅うすこうばい杜若かきつばたの重ねがよく似合う。きっとこの美しさにきょうで敵う者はいないだろうと女房たちは確信していた。

 

 身支度を終えたくらいに、どたどたと大きな足音が聞こえ始めた。

 脂のたくわえられた実光さねみつが歩く音だ。その音がすぐ近くで止まったかと思うと、貴重きちょうの影からひょこりと丸々とした父の顔が現れた。

徳子さとこ、かげんはいかがだ」

 と聞き慣れた声がする。

「お父さま、ごきげんよう。お父さまのお声を聞きましたら、とても晴れやかな気分になりましたわ」

「そうかそうか」

 夏らしさのある二藍ふたあい直衣のうし姿の実光さねみつはにこにこと笑いかけた。そこには錦瀬にしきぜらしい計算高さはなく、ただただ娘と肚の子を思っているようである。

 

「あら?あなたは確か……」

 皇后、徳子さとこの目が父親の後方へむけられる。

 そこには顔を白い頭巾ずきんで隠した小柄で華奢な少年がひっそりと控えている。徳子さとこには覚えがあった。数日前、実家へ帰省したおりにひとりの公達きんだちが連れていた子どもだ。

「お父さま。あの子どもはどうなさったの」

「ああ、史紀ふみのりさまが代理で見舞いにと」

 実光さねみつがそう答えると、少年はその場で膝をついてこうべを垂れた。

「主人に代わってお見舞い申し上げます」

「あら……?」

 徳子さとこはきょとんと目を真ん丸にした。その声は声変わりする前の子どものものである。その声主は少しだけおもてを上げ、首をかしげた。

「どうかなさいましたか」

「いいえ、なんでもなくてよ。その声、まだ子どもですよね。年齢としは」

「今年でとおになります」

「まあ!弟と変わらないですわ。もっと近くにお寄りなさい」

 嬉々とした声で命じる皇后に、宮の女房は「え」と青ざめる。

「皇后さま、それはいかがかと」

「まあ信子のぶこ。相手は子どもですわよ。それに、お父さまが信頼をおいてお呼びした御方のご家人!何をそんなに警戒しますの」

 これが元服後の男であれば、色々と思うところができようが、相手は元服前、しかもきっと下の毛も生え揃っていないだろう子どもである。女房がぐっと口をつぐんだのを認めると、徳子さとこは少年を手招いた。

 

 すぐそばへ来させた少年は、やはり小柄で華奢。頭巾ずきんを外して顔を見せようとしないその様子に、つい疑問を口にした。

「顔は隠しているのですか?」

「醜い火傷で皇后さまがたのご気分を害してしまいますから」

「それは大変ですわね」

 同情するように眉を八の字にする徳子さとこに、少年は「はあ」とだけ返す。きっと突然そばへ呼び寄せられて困惑しているのだろう少年のその様子を愛おしく思ったのか、徳子さとこ頭巾ずきんごしにその少年のあたまを撫でた。

「ふふ。弟より少し小さい。実家にいる弟を思い出しますわ」

 皇后の弟は、この少年と同じとお。以前史紀ふみのりたちが実光さねみつの屋敷を訪れたさいにも在宅だったらしいのだが、表に出てこなかった。ゆえに少年らが知り合うことはなかったのだが、伏せていた皇后もまた会う機会がなかった。避けられているのか、その弟とは入内じゅだいしてから長らく顔を合わせていないのだ――そのことを知る女房たちは、憐れむようか目で皇后を見つめている。信子のぶこだけはそっと皇后のそばへ寄って言葉をかけた。

「皇后さま、そのあたりで……」

「そうですわね。お返しせねば。つい、懐かしくなってしまいましたわ」

 柔らかな微笑を浮かべ、少年から手を離したその時。徳子さとこの身体がぐらりと横へ揺れた。

「――皇后さま!」

 信子のぶこは悲鳴を上げ、咄嗟に皇后の身体を支えた。

 全身の力が抜けたようにぐったりとして、目をうっすらと開けたまま動かない。そのまなこには生気がなく虚ろ。呼びかけても返事もなく、ピクリとも動かない。いつもの症状である。

 実光さねみつも青ざめて、娘へ駆け寄った。

徳子さとこ!ああ、また……なんてことだ」

「早く、皇后さまを寝台に!」

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