白陰の香 弍


 史紀ふみのりの言ったとおり、御所ごしょへ入るのは容易だった。

 

 大納言、錦瀬にしきぜ実光さねみつの顔を見るや、その後ろに頭巾ずきんで顔を隠した子どもがいようと、門番たちは構うことなく中へ通した。

 きょうは長いこと平和が続いている。

 反乱やいくさのたぐいはなく、帝の命が危ぶまれたという話もない。帝に不満がある、という事例が長らくないのだ。

 

 もっとも血なまぐさいのは後宮とも言え、やれ妃が毒を盛らて血を吐いたただの、やれ親王しんのうが木から落ちて頭をかち割っただのといった話はあるが、妃やその子どもたちの命の価値は帝のそれと同じではないらしい。妻が死んだならば新たなものを用意すればよく、子が死んだならば新たな子を産ませればよい――ようは、「きょう」が保てればそれでよい、という考えが強いのである。

 そのためか警備は顔パスのみで、荷のあらためもない。

 

「こちらだ、迷子になるなよ」

 実光さねみつに言い含められ、ウツギはうなずいた。

 やはり史紀ふみのりさまにはいらしてもらえなかったか。

 送りつけられてすぐ、この脂の蓄えた男はそう言って肩を落としていたが、それでも史紀ふみのりがわざわざ送ったのだから、何かきっとあるに違いないとも考え、ウツギを連れて後宮を訪れた。

 じっさいウツギはただ「見てこい」としか言われていないので、何か策を講じられるわけでもなく、後をついていくのみであった。

 

(この感覚……)

 

 弘徽殿こきでんの中へ入り、皇后の居室の手前までいざなわれると、ウツギはめまいを感じた。

 くらくらとして、気の遠くなる。

 それでもぐっと堪え、皇后こうごうの前に出ると座礼して挨拶をした。

「主人に代わってお見舞い申し上げます」

「あら……?」

 予想と異なる皇后の反応に、ウツギは眉をひそめる。

 頭巾ずきんの奥から皇后を見上げれば、彼女は何か驚いたように目を見開いている。何か不躾なことでもしてしまっただろうか。

「どうかなさいましたか」

「いいえ、なんでもなくてよ。その声、まだ子どもですよね。年齢としは」

「今年でとおになります」

 自分の年齢は史紀ふみのりから聞いていた。顔を一方的に知っているだけなのに、年齢まで把握しているのかと不思議に思ったが、きっとそんものなのだろうと呑み込んだものだ。

 

 皇后には自分と年齢としの近い弟がいるらしく、異様に可愛がられてウツギは戸惑った。

 あたまを撫でられたさいに、ひたいの角に彼女の手がかすってひやりとしたが、気が付かなかったのか皇后はその穏やかな笑みを解くことはなかった。

「皇后さま、そのあたりで」

 とあの組紐飾りの女房が切り出したとき、ウツギは大きく視界が揺れるのを感じた。

 

(このにおい)

 

 この部屋の中も香が焚かれていて、むせ返るような甘やかな香りが立ち籠めていた。その香りのなか、息を潜めるように香るが、ウツギの感覚を奪う。意識すればするほど目を開けていられぬほどの眠気が襲って、意識を保つのがだんだん苦しくなる。

「皇后さま!」

 宮の女房たちが悲鳴をあげ、卒倒した皇后のそばへ駆け寄る。その動きがやけにゆっくりと見え、音も遠くて何を叫んでいるのかわからなくなる。

 

 ウツギは周囲に気取られぬようによろよろと後ろへさがった。――ここには史紀ふみのりはいない。だから、倒れるわけにはいかない。足を踏ん張らせ、皇后の不調に騒ぎ立てる者たちのあいまを縫ってひそかに簀子敷すのこじきへ出た。

「はあ……またやるかと思った」

 へたへたとその場に座り込み、深く息を落とす。

 外の空気を吸うと、なんとか回復した。外とは言え、すぐ後ろは弘徽殿こきでんの格子戸で、相変わらず慌てふためく女たちの声がする。

「帰ってもいいかな……」

 ため息混じりに呟き、建物の間から覗く群青を見る。

 確証を得るため、と送りつけられたが、目の前で倒れる皇后に何かができるわけでもない。

 

(……あれは)

 

 ふと、承香殿じょうきょうでんから繋がる渡殿わたどのをばたばたとひとりの男が走ってくるのが見えた。

 紫無紋の袴の、若い神官である。

 実光さねみつから軽く説明を受けているが、たしか承香殿じょうきょうでん雁舞かりまいの血を引く女御の居所である。その登華殿とうかでんから訪れているのだからきっと雁舞かりまいの関係者なのだろうが、その神官がウツギの前あたりへ辿り着くと、気取った弘徽殿こきでんの女房たちが慌てて立ちはだかったそ。

雁舞かりまいの犬が何用ですか!」

「皇后がお倒れになったと聞きます。きっと神官が「みた」ほうがよいでしょう」

「いいえ。雁舞かりまいの息のかかった者なぞ、何をしでかすか。お帰りを!」

 しばしそのような言い合いが続いたのち、神官はしぶしぶ引き下がった。

(このにおい……)

 神官が横切ったそのとき、ウツギはハッとして目で追った。その時にはすでに神官は背を向けて渡殿わたどのへ踵を返している。

「確証、と言っていいのかな、これは」

 ぽつりと独り言ち、頭巾ずきんごしに頭をかいた。

 

 そののち、ウツギは南繋神宮なんけいじんぐう裏手の倉へ戻った。入れ替わりで出掛ける用事のあった忠行ただゆき史紀ふみのりの「お守り」を言いつけられ、承知ですと応えて史紀ふみのりのそばへ行く。

 史紀ふみのりは何か書物を読み漁っていたが、ウツギに気づくと、書物から目を離して顔を上げた。

「おや、お帰りウツギ。後宮はどうだった」

 とろんとした目を穏やかに細める主人に、ウツギは静かに首肯する。

「思ったより男のお役人さまがうろうろしていて驚きました」

内裏だいりに入れる者なら誰でも出入り可能だからね。出会いのない女房たちはちょうどよい出会いの場にもなる」

「婚活会場なんですか、後宮は」

 ハハハと愉快そうに笑い返すのみで、否定も肯定もしない主人にウツギは顔を引きつらせながら、頭巾ずきんをおろした。

 

「……ひとつ伺ってもいいですか」

「なんだい」

「香りについてです。墨汁のような……。墨汁にしては少し甘くて……」

「少し辛味がある匂い、だろう」

 史紀ふみのりも知っている香りなのだろう。ウツギはこくりと頷いて、言葉を続けた。

「はい。あれは何なんですか」

「あれは魂読たまよみをするさいに用いる、白陰びゃくいんという花弁はなの香りだよ」

魂読たまよみ、ですか」

 

 魂読たまよみとは、魂と器の結び目を「視る」神官の術のことらしい。その結び目を読み解けば、その不調の理由がわかる。

 その理由を「視る」さき、読み解く側も魂と器を少しでも乖離させたほうが明瞭に視えるとされているのだが、多くはおのれで器と魂を離すことができない。そのため、用いられるのが白陰びゃくいんである。

 

「医師も使うんですか?」

 ウツギは、史紀ふみのり随身ずいじんの屋敷で遭遇した医師を思い浮かべていた。忠行ただゆきの奥方は病がちゆえに訪れているのだと重行しげゆきは言っていたが、その医師からもほのかに白陰びゃくいんの香りがした。

「医師は元神官だよ。才がなく夢破れ、妥協して知識と最低限の魂読たまよみで治療を施すんだ」

「へえ……」 

「それで、その白陰びゃくいんがどうしたんだい」

 当然の問いである。

 主人をゆっくりと見据え、ウツギは静かに返した。

「皇后の居室にはかならず、僅かですがこの香りがしたんです」

 華やかな空薫物からたきもののあいだに入り混じって、その香りがしたのである。

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