白陰の香 参
「そうか。やはり、君を送って成功だったね」
そう満足そうにつぶやく主人に、ウツギは首をかしげた。
「匂いくらい、俺でなくてもわかりますよね」
「いいや。君だからこそ、わかったんだよ」
その言葉の意味が汲み取れない。
怪訝なおももちをする少年に、男はくすりと笑った。
「私も簡単になら、
そう言って、ふところからひとつの匂い袋を取り出した。余り布で作ったような、不格好なきなり色の匂い袋だ。
「これはなんですか」
「
袋の口を開けると、乾いた白い花びらが現れた。この花こそが
「
と
ほんのかすかに、墨汁のような独特な香りがする。
きいんと耳鳴りがして五感が薄れ、気が遠のく。皇后の屋敷でもかいた匂いに間違えない。ウツギは頭を押さえながら、うめき声をあげた。
「同じ匂い……」
「へえ、さすが。君は
「どういう……意味なんですか」
このままでは気を失ってしまう。ウツギは匂い袋の口を手で覆い、匂いが流れるのをおさえた。
「
え、と小さく声をこぼす。こんなにも独特な匂いを今もなお感じているというのに、無臭なはずがない。
「この香りは魂と器が離れないとしないものなんだ。だから香というには
むしろ使用者のあいだでは薬に近い扱いだ。なぜその効能があるのか誰もわからないが、
この独特の香りが意識できる、とはすなわち
「て、言葉で説明されてもわからないよね。試してみようか」
唐突にそう提案すると、
「その鈴、何のためにあるんですか」
「君は体験済みなのではないかな」
しゃらん、しゃらん。
初めて皇后と会ったあの日、意識まで手放しそうになった。それが、この音が止めた。この音が呼ぶように鳴るので、一心にこの音を辿っていたら、目を覚ましたのである。
「これは
いわば道しるべ。ゆえに、しるべの鈴と呼ばれるのだ。
「今日は代わりに振る人がいないから、君だけに
その言葉すらも聞き終えるよりさきに、ウツギの足からは力が抜け、座り込んでいた。
五感が薄れていくほどに、
――何度も経験した所為だろうか。
痛みや苦しさが少ない。意識もはっきりとしている。ウツギはゆっくりと、
(ここ……)
あの、何かの狭間だ。
その狭間にぽつんと、自分は佇んでいる。
(あ、動ける)
足や手の先に感覚がある。試しに手を開いたり閉じたりしてみると、水を掻くような感覚がある。足に力を込めて軽く跳躍してみると、全身で水を圧したような感覚がある。
(少し、進んでみるか)
あの卵のようなものの場所の境界には触れることはできたが、固い壁のようなものが阻んで中にははいれなかった。だが不思議なことに、あの色や形が混沌とした場所には手がずいと差し込めた。だから、試しにぐいと身体ごと押し込んでみれば、飛び込めてしまった。
(泳いでいるみたいだ)
泳ぎ方を知らないはずなのに、不思議とすいすいと手足が動く。探検する気分で中をすーっと進んで、寄せては離れ、交わっては離れる様々な不定な色や形を見た。
(あれは)
くるりと一回転して止まる。
どこかで見たような気がする。そのふわふわとした球形の
手を伸ばしてそのふわふわとした何かに触れようとすると、向こうから自分を呼ぶ
しゃらん、しゃらん。
しゃらん、しゃらん。
しゃらん、しゃらん。
しゃらん、しゃらん。
音はだんだん大きくなり、香りはどんどん薄れていく。
「お、起きたみたいだね」
もっとも鈴の
むくりと起き上がると、ウツギは、我知らずこの男の頬に思い切り拳をぶつけていた。
「……ぐふ!」
「あ、すみません。なんかこうしたくなりまして」
「君もそんな気分になることがあるんだね……」
かなりいい具合に入ったらしく、熊のように大きな男は頬を押さえながら涙目になっている。
「はあ。なんだか収まらないので、あと二、三やってもいいですか」
「勘弁してくれ」
強めに拒否する主人に、ウツギは「承知しました」と言って拳をおろした。
「
「そうだねえ。相手は
ならここで手を引くのか。
「君、ふたつの世は見たかい?」
「ふたつのって……」
あの狭間からみたふたつの場所のことだろうか、とウツギは考え、「はい」と肯定しさらに言葉を続ける。
「片方には
「それは素晴らしい!君にはムスビの才があるんだね」
「ムスビ?」
「ムスビ、とは
「神官には等級があってね。知識のみを有する
そしてもっとも希少なのが
「これはいい。次の手に出ようか」
なんとも愉快そうに、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます