白陰の香 参


「そうか。やはり、君を送って成功だったね」

 そう満足そうにつぶやく主人に、ウツギは首をかしげた。

「匂いくらい、俺でなくてもわかりますよね」

「いいや。君だからこそ、わかったんだよ」

 その言葉の意味が汲み取れない。史紀ふみのりもその香りを知っていたのだから、「君だから」となるはずがないのだ。

 怪訝なおももちをする少年に、男はくすりと笑った。

「私も簡単になら、魂読たまよみができるんだ。でも私も白陰びゃくいんがないとできないクチでね」

 そう言って、ふところからひとつの匂い袋を取り出した。余り布で作ったような、不格好なきなり色の匂い袋だ。

「これはなんですか」

白陰びゃくいんだよ。もうだいぶ効能が薄れているけどね」

 

 袋の口を開けると、乾いた白い花びらが現れた。この花こそが白陰びゃくいんで、環栄かんえいの北側にある山脈地帯の一部に生息する、木陰を好む花なのである。木陰を埋め、まるで白い陰を作っているように見えることから、白陰びゃくいんと呼ばれているのだ。

 

いでごらん」

 と史紀ふみのりがうながすので顔を近づけてみると、ぐらり、とめまいがすした。

 ほんのかすかに、墨汁のような独特な香りがする。

 きいんと耳鳴りがして五感が薄れ、気が遠のく。皇后の屋敷でもかいた匂いに間違えない。ウツギは頭を押さえながら、うめき声をあげた。

「同じ匂い……」

「へえ、さすが。君は、敏感なんだね」

「どういう……意味なんですか」

 このままでは気を失ってしまう。ウツギは匂い袋の口を手で覆い、匂いが流れるのをおさえた。

 

白陰びゃくいんは無臭なんだよ」

 

 え、と小さく声をこぼす。こんなにも独特な匂いを今もなお感じているというのに、無臭なはずがない。

「この香りは魂と器が離れないとしないものなんだ。だから香というにはいびつなものでね」

 むしろ使用者のあいだでは薬に近い扱いだ。なぜその効能があるのか誰もわからないが、白陰びゃくいんには魂と器を離す効能があるからだ。

 この独特の香りが意識できる、とはすなわち魂読たまよみのできる状態であるため、医師や神官は、この薬を「意識してかぐ」ことで自らその状態へ導くのだ。そして加えて、魂と器が離れれば離れるほど、その匂いは強くなると言われているため、はっきりと意識できるほうがなお好ましい。

「て、言葉で説明されてもわからないよね。試してみようか」

 唐突にそう提案すると、史紀ふみのりはポイと匂い袋を捨て、すっと立ち上がった。すたすたと倉の入口まで歩き、戸に結んでいたしるべの鈴を外して戻ってくる。

「その鈴、何のためにあるんですか」

「君は体験済みなのではないかな」

 しゃらん、しゃらん。

 史紀ふみのりが軽く振ることで、そのは鳴らされる。澄んで清らかな音だ。

 初めて皇后と会ったあの日、意識まで手放しそうになった。それが、この音が止めた。この音が呼ぶように鳴るので、一心にこの音を辿っていたら、目を覚ましたのである。 

「これはきょうの、自分の居場所を報せるためにあるんだよ」

 いわば道しるべ。ゆえに、しるべの鈴と呼ばれるのだ。史紀ふみのりはのんびりと説明すると、匂い袋を拾い上げると口を広げ直してウツギへ投げて寄越した。

「今日は代わりに振る人がいないから、君だけに魂離たまはなれをしてもらおうかな」

 

 その言葉すらも聞き終えるよりさきに、ウツギの足からは力が抜け、座り込んでいた。

 五感が薄れていくほどに、白陰びゃくいんの匂いは濃く、鮮やかになる――ああ、こういうことか。嫌でも実感させられながらも、意識のふちで悪態づいた。なんでも急に始めるなよ、と。

 ――何度も経験した所為だろうか。

 痛みや苦しさが少ない。意識もはっきりとしている。ウツギはゆっくりと、

 

(ここ……)

 

 あの、何かの狭間だ。

 その狭間にぽつんと、自分は佇んでいる。

(あ、動ける)

 足や手の先に感覚がある。試しに手を開いたり閉じたりしてみると、水を掻くような感覚がある。足に力を込めて軽く跳躍してみると、全身で水を圧したような感覚がある。

(少し、進んでみるか)

 あの卵のようなものの場所の境界には触れることはできたが、固い壁のようなものが阻んで中にははいれなかった。だが不思議なことに、あの色や形が混沌とした場所には手がずいと差し込めた。だから、試しにぐいと身体ごと押し込んでみれば、飛び込めてしまった。

(泳いでいるみたいだ)

 泳ぎ方を知らないはずなのに、不思議とすいすいと手足が動く。探検する気分で中をすーっと進んで、寄せては離れ、交わっては離れる様々な不定な色や形を見た。

(あれは)

 くるりと一回転して止まる。

 どこかで見たような気がする。そのふわふわとした球形のを前に、ウツギは首を傾げた。見たことなどないはずなのに。

 手を伸ばしてそのふわふわとした何かに触れようとすると、向こうから自分を呼ぶがした。

 

 しゃらん、しゃらん。

 しゃらん、しゃらん。

 

 史紀ふみのりが振る、しるべの鈴のだ。あちらへ戻らねばならない。ウツギは無意識にふわふわとしたそのを掴むと、方向を音にする方角へ変え、泳いだ。

 しゃらん、しゃらん。

 しゃらん、しゃらん。

 音はだんだん大きくなり、香りはどんどん薄れていく。

「お、起きたみたいだね」

 もっとも鈴のが大きくなったそのとき、視界にはあのとろんとした目の男の顔があった。ひっくり返ったウツギはこの男の腕に支えられていたらしい。

 むくりと起き上がると、ウツギは、我知らずこの男の頬に思い切り拳をぶつけていた。

「……ぐふ!」

「あ、すみません。なんかこうしたくなりまして」

「君もそんな気分になることがあるんだね……」

 かなりいい具合に入ったらしく、熊のように大きな男は頬を押さえながら涙目になっている。

「はあ。なんだか収まらないので、あと二、三やってもいいですか」

「勘弁してくれ」

 強めに拒否する主人に、ウツギは「承知しました」と言って拳をおろした。

 

白陰びゃくいんの性質も、しるべの鈴の役割もよくわかりました。それで、次は何をすればいいんですか」

「そうだねえ。相手は白陰びゃくいんを使って何をしたいのかがまだ読めないからねえ」

 ならここで手を引くのか。

 史紀ふみのりの興味はまだ薄れてはくれないらしく、ここで引き下がるつもりはないらしい。

「君、ふたつの世は見たかい?」

「ふたつのって……」

 あの狭間からみたふたつの場所のことだろうか、とウツギは考え、「はい」と肯定しさらに言葉を続ける。

「片方にはました」

「それは素晴らしい!君にはムスビの才があるんだね」

「ムスビ?」

「ムスビ、とは結師むすびのことだよ」

 文机ふづくえ横から、くしゃくしゃになっている誰かからのふみを取り上げると裏返し、その上に文字を記す。

 

「神官には等級があってね。知識のみを有する学師しらべと「」ることはできる卜師ものうら、それから「干渉」もできる結師むすび

 学師しらべ医師いしとも言い、多くは神官を辞して医師として生計をたてている。卜師ものうらは神官の中でもっとも多く、神官とはすなわち卜師ものうらであると言っても過言ではない。

 そしてもっとも希少なのが結師むすび宵結よいむすびの守部もりべがまさにそれに当たり、彼女が魂と器の組み合わせにそこに人意の余地を与えうると言われたゆえんである。

「これはいい。次の手に出ようか」

 なんとも愉快そうに、史紀ふみのりはにっこりと笑った。

 

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