白陰の香 肆


 その頃、後宮の弘徽殿こきでんでは、皇后の徳子さとこが目を覚ましていた。飛び起きるように目を覚ましたので、実光さねみつや女房たちは驚いたように振り返った。

 

「皇后さま、お目覚めですか?」

信子のぶこ……。誰かがね、わたくしのを掴んだのです」

「手、ですか?」

 眉をひそめ、信子のぶこはそばへ寄る皇后の父、実光さねみつを見る。実光さねみつはなんだって?と驚いたように問い返している。

 

「わたくし、いつも気が遠くなると、何も無いところに押し流されたようになっていましたの。いつも自分では戻れなくて、偶然に任せるしかなくて」

 けれども、先ほどは違った。何かがぐいと、導いてくれたのだ。史紀ふみのりが来てくれたときにもこんなことはなかった――そう、ゆっくりと告げる皇后に実光さねみつは真面目な顔で返した。

「それはきっと、結師むすびの「魂呼たまよび」に違いない」

 魂呼たまよびとは、魂をつかさどる天ツ原あまつはらへ迷い込んだ魂を、きょうへ戻す神官の術のことである。

「でも神官はそばにいませんわ」

「中には、遠く離れた地からでも魂呼たまよびができる神官もおると言う」

 それこそ、宵結よいむすびの守部もりべの得意としていたことである、と続ける父に、徳子さとこは「まあ」と頬に手を添えた。

「しかし結師むすびに到達した神官はいまや残されておらぬでは……」

 そう言葉をこぼす信子のぶこに、実光さねみつは首肯した。

「命の恩人は、私が必ず見つけ出そう。徳子さとこ、お前はとにかく肚の子のためにも体をいたわりなさい」

「はい、お父さま」

 穏やかな微笑を浮かべる娘を見届けると、実光さねみつは急ぎ後宮を後にした。

 

 建礼門けんれいもんを出ると、そこは朝堂院や二官八省などの官庁の建物が整然と建ち並んでいる。空は茜色に染まり、山へ帰る烏たちの声が木霊している。

 もう間もなくすれば、宿直とのい官人かんにんたちが戻って来るころだ。すでに衣冠いかん姿の男たちの姿がところどころにある。その中を横切って、実光さねみつは皇居から見て左奥にある神祇官じんぎかんへ急いだ。

 だがその途中、意外な人物の姿に足を止めた。

「おや、忠行ただゆきではないか」

「げ、実光さねみつ……なぜこんなところにいる」

「それはこちらの台詞だ。お前、めったにこちらへ出仕しないではないか」

 

 忠行ただゆきはたいてい史紀ふみのりのいる倉へ籠もっているが、こう見えても近衛府このえふの所属である。しかも官位はけっして低くなく、本来は倉番の家人などで甘んじる地位ではないのだ。

「あらゆる地位も辞退して、従兄弟の若造なぞを頭のとう中将ちゅうじょうに推すなぞ、どうかしておるぞ」

「ふん。私は史紀ふみのりさまをお支えするためだけに生きると決めているのだ。お前には関係ない」

「まあ私は構わんのだがね。家にも帰ってないのだろう。少しは自分の家族のことも考えよ……」

 実光さねみつの小うるさい忠告に、忠行ただゆきは眉間に皺を寄せた。

「それこそ、お前には関係のないことだ」

「まあ、そうだがの。……して、何用でこんな遠いところまで顔を見せておるのだ」

 まさか目を盗んで史紀ふみのりのもうひとりの家人とやり取りしていることを知られたのでは、と内心ひやりとしていた。知られればまっさきに止めに入ることは想像できるからだ。

 

 その懸念もよそに、忠行ただゆきは深く息をついた。

「呼び出しだ。いい加減、相応しい地位に就けと。だが断った。私に相応しいのは史紀ふみのりさまのおそばだけだと信じている」

「犬畜生の精神を耕しておるのお」

「黙れデブ狸」

 犬猿の仲とはこのこととばかりにふたりは火花を散らしていたが、今の実光さねみつはとにかく急いでいた。こほんと咳払いすると、

「急いでいるゆえ、このあたりで勘弁してやろう」

 と言ってその場を後にした。何を勘弁するのやら、と忠行ただゆきは眉を寄せていたが、彼も急ぎ史紀ふみのりのいる岬へ足を進めた。あの主人をウツギだけに任せるのは忍びない。




 忠行ただゆき南繋神宮なんけいじんぐう裏手の倉へ戻ったとき、ウツギの姿はなかった。

史紀ふみのりさま、ウツギはどこへ……?」

 自分の留守のあいだ、そばで主人のお守りをするよう言い聞かせたはずである。なのに、倉のなかにはまたしても冠をせず寝そべっている主人の姿しかない。

 よっこらせと言って熊のように大きな男は体を起こすと、いつも通りののんびりとした声で答えた。

「ああ、少し長いつかいにやったんだよ」

「市への買い物以外に何があるんです」

「なんだろうねえ」

 けろりと答えを濁す主人に、唖然とする。

「あの、まさか気が変わって余計なことに首を突っ込んではいませんよね?」

「さあ。どうだろうねえ」

 これは確定と言ってよいだろう。少し目を離せばこれである。頭を抱えるも、すぐに気を取り直したように忠行ただゆきは主人へ詰め寄った。

「どこへやったのです。今すぐ連れ戻します」

「どこだと思う?当てたら教えてあげる」

 どこだ。忠行ただゆきは焦りに近い苛立ちを覚えながら考え込むが、ひとつに絞れない。直近、訪問してきたのは従兄弟の重行しげゆきとクソ野郎と付けたい実光さねみつである。となるとどちらかになるだろうが、史紀ふみのりが何に興味を持って首を突っ込む気分になったのかが、わからない。

「それとね、忠行ただゆき。ウツギの今の主人は私だよ」

「……私の話より史紀ふみのりさまの指示を優先する、と言いたいのですが」

 にっこりと笑うだけで、言葉では返さない。だが現に少年の姿がないということは、そういうことだ。

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