魂呼び 壱


「お前に母はないと思え」

 遠い昔、誰かがそう言った。

 ざわざわと風に揺られる木の葉がうるさい夕暮れ時だ。

「どうしてですか」

 そう問い返すと、その誰かはうっすらと微笑んだ。


 

 

❖ ❖ ❖




「それでけっきょく、ふたりともいらしたんですね」

 

 稲刈月いねかりづきも後ろに差し掛かったその日。空の群青はだんだん白色はくしょくを帯びるようになり、蝉の声もわずかとなっていた昼下がりである。

 

 ウツギは久しぶりの公達ふたりの姿に、頭巾ずきんの奥で目を据わらせた。

「いいんですか。忠行ただゆきさまだけには伏せているように、とおっしゃっていたのに」

「大丈夫だよ。もう止めないって言質げんち取ったからね」

 のんびりと答えるのは熊のように大きな男である。その横には悔しげに唇を噛みしめる随身ずいじんがいる。

 

 ここは環栄かんえいの北端。通称木群ノ端こむらのはと呼ばれる山脈沿いの区画にある初氷ういごおり史紀ふみのりの邸宅である。

 つまり全くちゃんとしたお屋敷ではないのだが、ウツギはこの屋敷で暮らすようになって十日以上が経っていた。そして突然に家主である史紀ふみのりが帰宅して、現在いまにいたる。

 

史紀ふみのりさま。ここにウツギを送ったのなら、隠す必要もないでしょう!」

「隠しているなんて言ってないよ。あえて黙ってただけ」

「それを隠していたと言うのです」

 屋敷の正殿へ通したはいいが、始終ふたりのどうでもいい言い合いが続いている。ウツギは黙して見守るのみである。

 

「ウツギ、ちょっといいかい」

 やにわに、室内に若い娘の声が差し込まれた。

 振り返れば、そこには若い娘の姿がある。そのきりりとした凛々しい顔つきの少女に、顎が外れるのではと思われるほどにあんぐりと口を開いたのは忠行ただゆきである。

「……は。末の姫すえのひめ!?」

「あれ、父上?お久しぶりにございますね」

 そこにいたのは、忠行ただゆきの末娘、末の姫すえのひめである。掃除でもしていたのか、袖をたすきでまとめ、長い髪も馬の尾のように高く結い上げている。

「お、お前。なんて格好をしているだ!脚なぞ見せて、はしたない!」

「女の着物は動きづらくて敵いませんゆえ、ウツギのを借りております」

 くるりと回って見せる末の姫すえのひめは、貴族の娘と思えぬ装いをしている。男子の着るような藍地の水干と括袴くくりばかまをまとい、引き締まった脚を惜しげもなくさらしている。

「ウツギの……どうりで丈が……じゃなくて、なんでそんな格好でここにいるんだ!史紀ふみのりさま、裳着もぎ前の娘まで引っ張り出して、どういうことですか」

 かなり早口でまくし立て、主人へ詰め寄る。胸ぐらを掴まん勢いの随身に史紀ふみのりはハハハと笑って、まあまあと言った。

「言葉で説明してもどうだし。直接会いに行こうか」

 

 そう案内したのは、一度も使われたことのないはずの北の対きたのたいである。本来は家主の奥方のために使われる部屋だが、そもそも史紀ふみのりには妻も子もない。ゆえにウツギが送られる以前まではただの物置となっていた。

 ウツギが「史紀ふみのりさまがいらっしゃいました」、とひと声かけると、北の対きたのたいの妻戸が開かれた。その陰からは、胸を朱色の組紐飾りで彩る単重ひとえがさねをまとった、白髪頭しらがあたまの女人である。

「ウツギ?史紀ふみのりさまがいらしたとはどういう……」

 その鋭い視線がウツギの後方へ向けられる。ずんぐりと背の高い史紀ふみのりと、その横にいる生真面目を形にしたような忠行ただゆきのふたりを見るや、目を見開いた。

「本当にいらしたんですね。一度もいらっしゃらなかったのに」

「ハハハ、これでも私はここの家主だよ?」

「ずっと倉に籠もって出ていらっしゃらないそうではありませんか」

 事実なので、返す言葉もない。史紀ふみのりは苦笑のみで応じ、穏やかな声で問うた。

「で、皇后陛下はお元気かい」

「は?皇后……?」

 呆気に取られた随身に構うことなく、史紀ふみのりは皇后の様子を確認したいと付け加え、部屋へ通すように言った。

 

 部屋の中へ入ればいくつか几帳きちょうの立てられ、そのあいまからは色鮮やかな重ねの衣が垣間見える。そこには信子のぶこ以外の数人の女房たちの姿があり、さらにはその奥には濃黄こきき濃紅こいくれない朽葉くちば小袿こうちぎを華やかに着こなす女人の姿がある。皇后、錦瀬にしきぜ徳子さとこである。

 徳子さとこは部屋へ入ってきた男たちに気がつくと、ふくふくとした頬に笑窪をつくった。

「まあ。ごきげんよう、史紀ふみのりさま。お世話になっております」

「元気そうで何よりだ。ウツギは役にたっているかい?」

「ええ、とても。末のすえのひめもよくやってくれておりますわ」

 

 そうかい、と満足げにうなずく史紀ふみのりの横で、忠行ただゆきは目で「説明求む」と訴えている。史紀ふみのりはいたしかたない、とばかりに木染月こぞめづきの末日に実光さねみつ重行しげゆきが訪ねてきた後の、こっそり実光の屋敷を訪ね、その後ウツギを使ってあれこれ調べさせたことを掻いつまんで説明した。

 

「……つまり、私が注意したその日には破っていたということですね」

「まあ、そうなるね」

楽書らくしょで意思疎通をはかるなど……盲点でした。私のしたことが」

 一生の不覚。忠行ただゆきはこれまでの中で最も悔しそうに頭を抱えた。あの時点で気がつけていれば、ということよりも、なぜ気付けなかったのか、のほうが長年仕えていた者として彼を悔しく思わせるのだ。

 

 ようやく反省を終えると、こほんと咳払いして忠行ただゆきは気を取り直した。 

「しかしそれで、なぜ皇后陛下をお屋敷に留め置く必要があったのです」

 皇后が倒れる理由を探すならば、後宮でもできよう。後宮から離すならば、皇后の実家である錦瀬にしきぜの屋敷でよい。わざわざ赤の他人である史紀ふみのりの屋敷へ留め置く必要はない。

「まあ、あまり魂と器をながく離すのはよくないからね。とは言ってもウツギを他所よそさまのところにずっと置いておくと様子を見にいけないし」

「ウツギをそばにおいても、何もならんでしょう。見た目が少し奇っ怪な子どもですよ」

「さあ、それはどうかな」

 ふっと含みのある笑みを浮かべる主人に、随身は顔をしかめる。

「それに……皇后陛下がいるのに護衛がいないというのもまずいでしょう」

「そこは心配無用だよ。ウツギは元、形代かたしろだよ?記憶がなくてもね」

 

 形代かたしろとはその実、尊い御方の「もっとも信頼を寄せる」随身である。とおにも満たぬ、しかも鬼人きじんの子どもを、そのような役割につけるとはよほど腕が立ち、そして信じるだけの何かがなければならない――忠行ただゆきは怪訝なおももちをしながら、視線を話題の少年へ向けた。

 彼はいつの間にか戸のそばへより、忠行ただゆきの娘や他の女房と、夕餉はどれくらい用意するかなどというどうってことのない相談をしていた。

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