魂呼び 弍


 ウツギは北の対きたのたい裏手へ足早に向かった。そこにはぽつんと御厨子所みずしどころが設けられ、戸を開ければ土間で夕餉ゆうげの支度をする老女の姿がある。きなりの小袖をまとう、白髪まじりの下女である。

うめさんすみません。史紀ふみのりさまがいらしたのでふたり追加でお願いします」

「まあまあ、史紀ふみのりさまが。何月なんつきぶり……何年ぶりかねえ」

 

 年数で考えたくなるほどに帰宅していなかったのである。

 初めてウツギがこの屋敷を訪れたときも、周囲に住む者たちが「ここ、人が住んでいたのか」と唖然としていたので、本当にめったに帰ってこなかったのだろう。

 

 ウツギは何とも言えぬ顔をしながら、籠をひとつ置いた。

忠行ただゆきさまいわく、いちおうまだ一年は経っていないそうですよ。最後にいらしたのは昨年の稲刈月いねかりづきの末日らしいので」

「あらまあ。あと少ししたら一年だったねえ」

「あとこれ、史紀ふみのりさまたちが持参なさった食材です」

「さすがは忠行ただゆきさま。気がききますねえ」

 そくざに出てくる名前が主人ではなくその随身である。じっさいにその通りなので、ウツギもとくに訂正しない。ふたりで手分けして食材の調理を始める。

 

 きょうにおいて海で「魂を持って生きるもの」の殺生はかたく禁じられている。ゆえに魚や海鳥のたぐいは食卓に並ぶことはなく、多くは河川や野山、田畑で採れたものたちである。ただし花や木には魂はないとされているため、同じ扱いの昆布こんぶ和布わかめはよく出汁だしに用いられる。

 

 うめに火をくべると、鍋の水が湧くまでに手早くきじの羽根をむしり臓物を取り、ひと口大に切ると沸き立つ鍋の中へ入れた。 

 この梅という老女は史紀ふみのりの屋敷で働く下女である。おうなと呼ぶに相応しく、皇后の女房の信子のぶこ年齢としが近い。 

 ウツギは老女が手際よく調理するのを見届けると、

「俺は部屋の用意をしてくるので、ここはお願いします」

 と言ってくりやを後にした。

 やることは他にもまだまだあり、そしてこの屋敷はとにかく人手が不足しているのである。

 

 数枚の畳をひとりで担ぎ上げ、とたとたと走る。正殿せいでんを整えるのである。

 史紀ふみのりたちはしらせもなく訪れたので、それまで使っていなかった部屋はすべてただの物置だったのである。せめて座る場所だけでもと置いてあったものはひさし退けたものの、時間はなかったので床に円座わろうだを直に置いて座ってもらった。さすがに夕餉ゆうげまでそうするわけにはいかない。

 

 その途中、皇后について史紀邸ふみのりていに留まる女房たちが、「こっちの手伝いをしてちょうだい」「あっちの手を貸して」などと声をかけるが、とりあえず「あとで参ります」と返した。この屋敷には主人と随身を除くと男はウツギのみ。自然と力仕事はすべてウツギに回ってくる。

「あ。末の姫すえのひめさま、ありがとうございます」

「構わないよ。体を動かすのは性に合っているしね」

 正殿へ辿り着くと、先に忠行ただゆきの娘が床を掃いていた。その手慣れた様子はとても貴族の娘とは思わせない。

 

「お前、下女の真似事なんてして」

 その声で振り返れば北の対きたのたいから出てきたらしい、中年の男の姿がある。なぜか史紀ふみのりの姿はない。

忠行ただゆきさま」

「父上、突っ立っているなら手伝ってください」

「父に向かってお前……」

 顔を引きつらせる忠行ただゆきに、末の姫すえのひめはまったく気に留める風もなく、濡れ布巾を握らせる。

「ちなみに、史紀ふみのりさまは洗濯してますよ」

「はあああ、いつの間に!それを早く言わんか!」

「父上、布巾……」

 娘が呼び止めるも、布巾を放り捨てて走って主人のもとへ。あの発言からして、ふらりと消えた主人を探し回っているのだろう。倉でもああして時々主人を求めて彷徨い、南繋神宮なんけいじんぐうの社務所を掃除しているのを見つけて悲鳴を上げていた。

 

「父上、元気だなあ。いつもあんな感じなのかい?」

「いつもあんな感じですね」

「へええ。こっちも帰ってこないから知らなかった」

 ようやく慌ただしさがなくなったころにはすっかり空は橙色になっていた。とりの刻と、夕餉ゆうげの刻にしては少し遅くなってしまったが、史紀ふみのりは出仕したりしないので安心である。

 

 それらしく整えられた正殿に史紀ふみのりを呼び寄せると、食膳しょくぜんをはこび、ひと息ついた。

「そうだ、ウツギ」

 ことりと箸をおき、史紀ふみのりはそばにひかえていた少年を見る。少年は自分の頭巾ずきんを繕っていた。主人の食事中に大変失礼なことなのだが、史紀ふみのりは無沈着なうえ、こうして外す機会がない。今は史紀が妻戸をかたく閉めさせ、外を忠行ただゆきに見張らせているゆえ角や髪や目の色を晒すことができ、さらに史紀ふみのり自身は礼儀に無沈着むとんちゃく。気にすることなく針を進めている。

「なんでしょうか」

「実はね。今日は皇后に話があって足を運んだんだよ」

 理由がないと自邸に運ばない家主とは愉快な話である。

「はあ、それで。俺には何の話があるんでしょうか」

 わざわざこうして少年にも話しているということは、何かをさせるつもりなのである。縫い終え、糸を歯で千切ると、ウツギはようやく顔をあげた。

 

「三日後の宵結よいむすびの守部もりべの葬儀に、君もついて行ってもらおうと思ってね」

「葬儀、ですか」

「そう。皇后も帝のともに参列することになってね」

 宵結よいむすびの守部もりべの死体が見つかったのは一月ひとつき近く前である。だが儀式の手配や日取りの選定やらで秋の中日まで遺骨は儀式を施されることなく骨壺に入れたままになっていたのである。

「わかりました。すぐそば、というのは立場的に難しいかもしれませんが、ついて行きますよ」

 言い終えると、急ぎ頭巾ずきんを巻き直し、顔が少しでも見えぬよう手前に引いて目深まぶかにする。

 誰かの足音がしたのだ。妻戸の外から忠行ただゆきの「開けてよろしいか」という声がすると、史紀ふみのりはのんびりと入室を許可した。

 訪れたのは宮の女房のひとりだ。

史紀ふみのりさま、お食事中に失礼します。ウツギを少々お借りしてもよろしいでしょうか」

 深々と座礼する女房は走ってきたのか、かすかに息が荒い。ウツギはなぜ呼ばれたのかを理解し、すっと立ち上がった。

「すぐ参ります」

「私たちもついて行ってよろしいかな?」

 部屋を出る手前で史紀ふみのりが言葉をさす。女房は驚いたように目をしばたかせたが、すぐに首肯した。

 そのかたわら、忠行ただゆきは顔をしかめ、いったい何事だろうと首を傾げている。そんな随身の肩を叩き、史紀ふみのりはとろんと垂れた目を細めて言った。

「さ、忠行ただゆき。ウツギを預けた理由を見せてあげようじゃないか」

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