魂呼び 参


 女房に導かれて北の対きたのたいを訪れれば、室内は暗く、ゆらりと揺れる灯台とうだいの炎のみが中を照らし上げていた。

 その室の奥には信子のぶこに寄り添われて横たえられた皇后がある。

 

末の姫すえのひめさま、鈴をお願いできますか」

 皇后の横へ膝をつきながら、女房たちとともにいた忠行ただゆきの娘へ声を掛ける。少女はうなずくと、すでに用意されていたしるべの鈴を手に、ウツギの横へ座った。

「あの、史紀ふみのりさま。ウツギは何をするつもりなのです?」

 部屋のすみの燈台とうだい横で、忠行ただゆきは主人へ耳打ちする。他の女房たちはすでに慣れたようにウツギを見守るが、史紀ふみのりはむろんのこと、忠行ただゆきは初めて立ち会う場である。

 だが、史紀ふみのりは確信していた。

「神官の真似事さ」

「はあ?素人が手を出しちゃまずいでしょう」

「それはどうかな。そこらの神官よりは役に立つと思うよ」

 

 ウツギは胡座あぐらをかき、顔が見えぬよう頭巾ずきんが目深になっていることをふたたび確認すると、ひたいを皇后のひたいへ合わせていた。

 これは神官たちが魂読たまよみなどをするさいの基本姿勢である。ウツギは誰に教わることなく、感覚でこうしたほうがなのだと学んだのだ。目を閉じ、じっとそのひたいに感じる熱にだけ意識を集中し――しだいに感覚が遠のくのを感じた。

 

(よし、

 

 もはや見慣れた光景がそこにはある。

 史紀ふみのりいわく、これは双対ふたついの神々へ干渉する術なのだと言う。本来は垣間見ることすら叶わぬ、己霊之御神きだまのかみたちの在る 天ツ原あまつはら殻郭之御神かくのかみたちの在る地ノ泉ちのもとをこの目で見、そして手を伸ばして触れる。

 ウツギはいまのところ触れられるのは魂と性質をつかさどる天ツ原あまつはらのほうらしい。水圧のようなものを感じながらもぐるりと身体を回転させ、その天ツ原あまつはらへ向けて身体を押し進める。手でかき、足をばたつかせるのはまさに泳いでいるような動作だ。

 

(いた)

 

 寄せては離れ、交わっては離れる様々な不定な色や形のなかに、ふわふわとした球形のものがある。あれこそが、器を失って彷徨う魂だ。あれが溶けて周囲と混ざってしまうと手遅れになるらしいので、急がねばならない。

 その魂をひょいと掴むと、身体をまた回転させて方向を転換する。皇后を史紀ふみのりの屋敷へ留め置いてからというものの、この一連の動作を毎日のように繰り返していた。ゆえに手慣れ、息をするようにこなせるようになっていた。

 

 しゃらん、しゃらん。

 

 末の姫すえのひめが振る、鈴の音だ。

 その道しるべに従って、ウツギはぐんぐん泳ぎ進む。少年を避けるように天ツ原あまつはらに漂うものたちはそれ、ウツギの身体をかすめ――次の瞬間には目を覚ましていた。

「……戻りました」

 小さく息を落とし、皇后のひたいから顔を離すと、ちょうど皇后もうっすら目を開いていた。

「わたくし、また眠ってしまったのですね。ウツギ、苦労かけました」

史紀ふみのりさまに命じられてますから」

 このやり取りも毎日おこなっている。皇后は徐々に赤みを戻しつつある頬に笑窪えくぼをつくり、そばで物憂げなおももちをする女房たちへ微笑みかけた。

「そんな顔をしないで。ウツギがまたこうして救ってくれたのですから」

「どこか苦しいなどはございませんか」

「いやですわ、信子のぶこ。目が覚めたらいつも、とても具合がいいと言っていますでしょう」

 ふふふ、と笑って元気づける皇后はすっかり顔色がよい――その様子を目の当たりにして、忠行ただゆきは唖然としていた。

 

結師むすび……。ウツギにはその才があると言うのですか、史紀ふみのりさま」

「見ればわかるだろう」

 それでも信じられないとばかりに忠行ただゆきは目をみはっている。高位の神官ですら結師むすびの境地に達せられる者はめったにない。ゆえに魂読たまよみは見ても、その魂を呼び戻す魂呼たまよびを見られる機会はそうない。

 忠行ただゆきはいまだウツギを見つめたまま、問いを続けた。 

白陰びゃくいんは貸し与えていらっしゃるのですか」

「まあ、貸したのだけど……。実は今は私が正殿に置いてあるんだよね」

 え、と忠行ただゆきは目を剥いて主人を見る。

「さっき、使わなくてもできるから返すと」

 夕餉ゆうげの前、ウツギが白陰びゃくいんの匂い袋を返してきたのである。その香りがするとウツギはすぐに魂を離してしまうので、今は香壺箱こうごばこにしまってある。

 史紀ふみのりはふいに手をひらりと上げた。

「おつかれ、ウツギ。君は期待以上だ」

 魂呼たまよびを終え、ウツギはまっすぐ史紀ふみのりたちのそばへ歩き寄っていたのである。

「はあ、ありがとうございます」

白陰びゃくいん無くてもできるとは思わなかったよ」

「……残り香があるので」

 ウツギは史紀ふみのりだけに聞こえるように言った。

「そうなのかい」

「だんだん巧妙になって、一瞬だけ使うようにしているみたいですけど。かすかに白陰びゃくいんの匂いが残ってます」

 こうして少年が立っている、ということはもうその香りはないということである。史紀ふみのりはふむと言って顎に手をやる。

「ということは、相手は使わないと干渉できない、ということか」

「最近は離れ方も雑で弱いので、簡単に呼び寄せられます。でもそれ以前に……」

 続けられたウツギの言葉に、へええ、と史紀ふみのりは目をしばたかせた。魂呼たまよびのできる者にしかない感覚なので、賛同しようがないのだ。

 ウツギは夕餉ゆうげの片付けをするため、さっさと北の方きたのかたを出ようとした。だが部屋を出る前に今度は忠行ただゆきに呼び止められた。

 

「おいウツギ」

「なんですか」

「そういうことができるなら、もっと早く言ってくれ。私だけけ者ではないか」

 まだ史紀ふみのりしか知らないことがあるので、今もある意味け者のままである。だがむろんのこと、そのことを漏らすわけにはきかない。ウツギは淡々と、「すみません。俺も知らなかったので」とだけ返した。

「……お前、まだ何か隠してないか?史紀ふみのりさまをお守りする立場としてできるだけ把握しておきたい」

とくにないですよ」

 本当か?と疑いのまなこを向ける男はなおも詰め寄ろうとするが、ウツギは「何もありません」ときっぱり言い放ち、さっさと部屋を出る。

 とは言え、この公達ふたりも向かうのは正殿である。ウツギの後ろで忠行ただゆきは嘆くようにぼやく。

史紀ふみのりさま。私に秘密事なんていくらなんでも酷いですよ」

「ハハハ、私は君が焦っていると愉快だけどね」

 え、と絶望顔をする随身を、主人はからからと笑って「冗談だよ」と言う。完全にからかわれている。


 賑やかなふたりのかたわらで、ウツギは食膳を抱えてまた北の対きたのたいの方へ向かう。御厨子所みずしどころがその裏手にあるからだ。きざはしをおりて御厨子所みずしどころへ向かおうととしたその瞬間――ウツギはぴたりと足を止めた。

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