魂呼び 肆


 がしゃん、と食器の割れる音がして、北の対きたのたいにいた皇后や女房たちが顔を上げた。

 

「何の音かしら……?」

 皇后が首を傾げると、今度はどたどたと走る音がする。ただ事ではないと判断したのか信子のぶこが立ち上がり、

わたくしが見てまいります。皇后さまはこちらに」

「あたしも行来ます」

 とすかさず立ち上がったのは忠行ただゆきの娘、末の姫すえのひめである。

「ここは父のお仕えする主人のお屋敷ですから」

「……わかりました。みな、皇后さまをよろしくたのみますよ」

 はい、と答える女たちを認めると、信子のぶこ末の姫すえのひめは部屋を出て音の聞こえた裏手へ出た。

 

「これは……血?」

 持ち出した紙燭しそくを頼りに、末の姫すえのひめきざはしの手前で立ち止まり、屈んで足元を照らした。そこには赤い痕跡が点々と落とされており、そのそばには割れた食器や食膳がある。

「ウツギ……?」

 こんなものを運ぶのはあの少年しかいない。だが近くに少年の姿はなく、ふたりは眉をひそめ顔を見合わせた。

 

 するとやにわに、視界が翳った。

 何かが頭上を通ったのである。いったい何だ、と顔を上げると、ふたつの黒い影が屋根から落下していた。そのふたつの陰はごんっと鈍い音を立てて北の対きたのたい横の地面に叩きつけられる。片方が上乗りになって押さえつけようとしているようだが、押さえつけられている側が暴れ上乗りになる相手を押しのけた。

「ひ……!鬼!」

 悲鳴をあげたのは信子のぶこである。青ざめて見つめる先には、へいのうえへ飛び乗ったそれにある。

 

 全身を黒い体毛に包まれ、琥珀色こはくいろの目をしたそれは、ひたいに長い一本の角を持っていた。剥き出しにした牙は鋭く、独特の高い威嚇音が鳴り響く。それを追うように、もう片方の人影が高く跳躍した。

「銀髪に……二本角にほんづの鬼子おにご?」

 今度は末の姫すえのひめがぽつりと声をこぼした。

 それは奇っ怪な鬼人きじんだ。肌は人間のように毛が薄く、月明かりに照らされてちらりと垣間見えた目は血のような真朱まほそ。身体の大きさからしてまだ子どものその鬼は、ひらりとへいの上へ降り立つと、逃げ出そうとする黒鬼へすかさず蹴りを見舞った。

 鬼子おにごは驚くほどに武術にたけ、相手の鬼を圧倒していた。その脚は鬼にしても力があり、鳥のごとく跳躍し、拳や蹴りは相手の頭蓋をも砕く勢いがある。ふたたび地面に叩きつけ、首を力強く締め上げて相手の意識を奪い沈黙させた。 

「もしかして……ウツギかい?」

 先ほどまで見た服装で、しかも背丈のわりに長い手足が少年を彷彿させたのだ。

 

「いったい何事だい」

 ふたりの女人のうしろから発せられたのは、この屋敷の主人の声である。騒ぎで駆けつけたらしい。そこには熊のように大きな男と、その男の随身で末の姫すえのひめの父の姿がある。

「あ、史紀ふみのりさま」

 銀髪の鬼子おにごがすくりと立った。その声はまだ声変わりしていない子どものもので、やはりウツギのものであった。

 史紀ふみのりはその少年の格好に驚いたのかとろんとした目を見開いて、

頭巾ずきんはどうしたんだい」

「あ。……落としてしまったみたいです」

 今さら頭巾ずきんがないことに気がついたのか、頭に触れて確認している。

 ぽかんとしている信子のぶこ末の姫すえのひめの横を、史紀ふみのりはすたすたと通り過ぎてきざはしを降り、ウツギのそばへ駆け寄った。

  

「それより……この鬼人きじんはなんだい?」

「侵入者のようなので、無力化しました。排除したほうがよろしかったですか?」

「いいや、生け捕りでいいよ。確認したいこともあるしね」

 そう言い、振り返って随身に調べるよう呼び寄せている。それでようやく我に返ったのか、信子のぶこがわなわなと震えながらも口を開いた。

「あの、史紀ふみのりさま……。その鬼は、ウツギなのですか?」

「あー、えっと。そうだね」

 ぽりぽりと頬をかいてのんびりと答える史紀ふみのりに、信子のぶこは我慢の限界とばかりにぶちりと青筋を立てた。

「あ、あろうことか皇后陛下のおそばに鬼人を置くだなんて!非常識にもほどがあります!」

「ちょっと髪や目の色が違って、角が二本生えているだけだよ」

「まったくちょっとじゃございません!けがらわしい。今後その者を近寄らせないでください。明朝には後宮に戻らせていただきます!」

 顔を真っ赤にして早口にそう言い捨てると、くるりと背を向ける。きょうの民、しかも貴族の出自の者ならば当然の反応である。

 

 鬼人きじんは人間でなく獣。殺さず生かしている鬼人は隷属した犬として飼われる。人間の奴隷以下の存在なのだ。あろうことか、そんな卑しい存在を皇后という尊い御方に近付ける。万死に値する行いである。それでもお咎めなしなのは、史紀ふみのりだ。

 

 憤慨した様子で去った女房の背を見届け、ウツギはへこりと小さくこうべを垂れたわ

「……申し訳ありません」

「まあ、仕方ないよ。いつかはバレるだろうなあと思っていたことだし」

「でもこれでは葬儀に……」

「近くでは参加できないだろうねえ」

 どころか見舞いと称して様子を見に行くことも叶わない。どうしたものかと史紀ふみのりは苦笑するが、今はそれより優先すべきことがある。視線を足元の鬼人きじんへ下ろし、忠行ただゆきへ声をかけた。

「どうだい。焼印はあったかい?」

 普通の鬼人ならば、首輪として家門の入った焼印が施されている。忠行ただゆき紙燭しそくの炎で頸の、毛の薄くなっているあたりを照らして、沈黙していた。

「どうしたんだい、忠行ただゆき

「あ、史紀ふみのりさま……。その、焼印なのですが……」

 どこか歯切れの悪い言葉である。

 

 その紙燭しそくはぼんやりと文様を浮かび上がらせていた。それは――くちばしのある、鳥の頭のような文様である。

「これは……」

 史紀ふみのりもその文様には見覚えがあり、口をつぐむ。そのかたわらで、忠行ただゆきは頭を抱えていた。

「こんなものを寄越すだなんて……。重行しげゆき、何を考えているんだ」

 それは雁舞かりまいの家紋であった。そしてこんなものを寄越す理由を持つのは、朝廷で雁舞かりまいの筆頭として勢力闘争をしているだろう忠行ただゆきの従兄弟である。

「他の雁舞かりまいの者かもしれないし、そう肩を落とすな、忠行ただゆき

「祖父は病がちで、兄たちは地方役人です。いま中央で先頭を切っているのはあいつなんです」

 嘆くような声だ。実の兄弟でもないのに、重行しげゆき忠行ただゆきを「兄上」と呼んでいる。それほどに仲の良い間がらなのだ。

 

「ね、ねえ父上」

 

 悲痛な空気のなか、娘の末の姫すえのひめの声が差し込まれた。いつも凛としているのに、今はどこか動揺している。

 忠行ただゆきは泣きたい気分なのに、とばかりに眉間に皺を寄せて振り返った。

「なんだ末の姫すえのひめ

「う、ウツギのそれ……大丈夫なんですか?」

「え」

 史紀ふみのりも驚いたように声をこぼし、かたわらにいる少年を見た。その腹は黒々と染まって、足元には血溜まりが出来ている。よく見れば、あの黒い毛の鬼人きじんの手には短刀が握られている。あの乱闘で刺されたのだ。

「うわ、なんて傷だい。痛くないのかい」

「痛くない……ですけど」

 当のウツギは茫然として、言われるまで気が付かなかったと腹に触れる。

 かなり深く刺されたのか、押さえた場所からごぽりと血が噴き出す――次の瞬間、ウツギの身体はぐらりと傾き、力なく崩れ落ちていた。 

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