無の混沌 弍


 ゆっくりと上体を起こし、少年は史紀ふみのりたちを見た。熱が高い所為か、動きは緩慢である。

 

「ええと……どんな状況なんでしたっけ?」

 頭が重いのか、顔を覆ってうつむく少年を、忠行ただゆきがとっさに支えた。 

「熱で混乱してるんだろう。お前、鬼人きじんに刺されて倒れたんだ。ここは智の蔵ちのくらで、時間としてはまだ半日も経っていない」

「そうなんですね。お手数おかけしました」

「気に病むことはないよ。君は仕事をしっかり全うしたのだから」

 今度は史紀ふみのりが声をかけ、少年の肩を叩く。その身体は燃えるように熱く、目を覚ましたのが奇跡と感じられるほどだ。触れてなくともその土色の顔色と滝のような汗で本調子でないことはひしひしと伝わる。末の姫すえのひめは物憂げな顔で問いかけた。

「ウツギ、痛くないかい。横になっていたほうが……」

「痛くはないです。何だか動きづらいですが」

「熱が高いのだから、気怠けだるくて当然だ。あと格好つけて平気なふりをするな」

 忠行ただゆきはぴしゃりと濡らした手ぬぐいをウツギのひたいへ叩きつける。痛くないはずがないのだ。ウツギはぼんやりと「はあ」と答え、また横になった。

「少し、やすみます」

「そうしなさい」

 史紀ふみのりの大きな手が、子どもの頭を優しく撫でた。

 

 ウツギはまた、こんこんと眠った。時おり目を覚まして水を飲み、また眠る。それを繰り返して、宵結よいむすびの守部もりべの葬儀が行われる日の朝を迎えていた。

 その日、史紀ふみのり随身ずいじん近衛府このえふに呼ばれて不在であった。ゆえに倉にあったのは主人の史紀ふみのりと、看病で付きっきりの忠行ただゆきの娘であった。看病も三日目に入り、末の姫すえのひめは慣れた手つきで倉の掃除などの家事をこなしていた。

 

 ウツギの目が開いていることに先に気がついたのは、のんびりと書を嗜んでいた史紀ふみのりだ。

「おや、ウツギ。目が覚めたかい」

「はい。今日って何日ですか」

「まだ混乱してるのかい。今日は稲刈月いねかりづき二十三日はつかあまりみかだよ」

 そうですか、と体を起こすウツギの顔色は幾分かよい。傷は治っていないが、熱はだいぶ下がったのだ。  

「何か食べられるかい?」

「おそらく」

 その返事に、末の姫すえのひめが急ぎ粥をつくり、運んだ。

「今日って、葬儀の日ですよね」

「そうだよ。君は怪我をしているから、私と一緒にここで不参加だよ」

 のんびりと応える主人に、ウツギは沈黙で返す。

 皇后の女房に、ウツギが鬼子おにごと知られた以上、皇后のそばで見守るということはできなくなった。くわえてその腹の傷は深いので、歩き回るのはあまり勧められたものではない――と史紀ふみのりはさらに付け加え、少年の頭を撫でた。 

「あの。着替えたいのですが」

「ああ、汗でひどいからね。着替えって今ここにあるかい、末の姫すえのひめ殿?」

「今外に干しているものだけです」

 もともと買い与えた着物は少なく、それらはすぐ汗だくになってしまい、洗って干したのである。そうだったと史紀ふみのりは呟くと、よっこらせ、と声をこぼして立ち上がった。 

「じゃあ取ってくるよ」

「あ、それはあたしが」

「君はウツギをみてやってくれ」

 穏やかにとろんとした目を細め、末の姫すえのひめをその場に留まらせた。

 

 熊のように大きな男の姿がいなくなると、とたんに倉のなかはがらんとした。残された末の姫すえのひめは粥のなくなった器を盆によけ、かたわらに積んであった清潔な手ぬぐいを引っ張り出した。

「手ぬぐいでも替えようか」

 傷を負った腹部は手ぬぐいを幾重にもぐるりと巻いて覆われている。血で染みることはなくなったが、はじめは何度取り替えてもあっという間に赤黒く染まったものだ。

 手ぬぐいを外すと、腹部には一文字の大きな傷跡がある。だがそれだけでなく、体中のあちらこちらに古い痣が残されていた。

「お前、傷だらけだな。どんな働き方をしていたんだ?」

「普通におつとめしていただけなのですが」

「そんなわけないだろう。はじめて見たとき、拷問でも受けたのかと思ったぞ」

 

 末の姫すえのひめは新しい手ぬぐいをウツギの腹の刀傷にあてがい、ぐるりと長布を巻きなおす。

 そのさいに手を滑らせて、傷口近くをかすめ、思わず「すまない」と大声で叫んだ。だが当のウツギが表情を変えないので、つい顔を引きつらせた。

「父上じゃないが、あまり痛いのは我慢するな。こっちがいたたまれない」

「はあ。よくわからなかったので」

「神経でもやっちまったのかい」

 ばしっと強く背を叩くといい感じに入ったのか、ウツギは大きく咳き込んだ。

「あ、すまん」

「いえ……。それより、外の空気を吸いに行ってもいいですか」

「その傷でか?」

 血は留まったとはいえ、塞がったわけではない。しかも、本来は今も激痛で立つのも辛いだろう傷の深さである。

「少し歩くだけですよ」

「あたしも付いて行く。あんた、傷が開いてものそのそ歩き回ってそうだし」

 ごもっともである。「ちょっと歩いてきます」の書き置きをすると、ふたりは倉の外へ出た。

 

 空は、すっかり秋の青になっていた。

 たったの三日籠もっていただけでも、季節は少しずつ移り変わって行くものなのだ。じりじりと照りつけていた日射しは変わらず健在だが、あと少しすれば和らぐだろう。

 双神殿そうしんでん横を過ぎるとき、ふとウツギは足を止めた。

「そう言えば、あの鬼人きじんはどうなったのですか」

「あたしは知らんな。重行しげゆきさまが捕らわれたあとの話は聞かなくてな」

「そうですか」

 

 合わせ水鳥みずどりの水盆の水面みなもがゆらり、と柔らかな海風をうけて波紋を描く。振り返ると、朱色の鳥居の向こうの、岬の草原くさはらが見える。ふらふらと風に導かれて岬の先へいくと、どこまでも続く海原うなばらが広がっている。

 

「葬儀は海辺の祭祀場さいしばでするんですか」

「おそらく。帝やお妃がたはもちろん、すいの国に引っ込んでいた上皇さまも参列なさるらしいよ」

 それはきっと、直近でおこなわれたどの儀式よりも盛大で厳かに執り行われることだろう。宵結よいむすびの守部もりべはそれほどまでに重要な御人だった、ということだ。

 そうですか、と小さく答え。ウツギはじっと海を臨んだ。その顔は翳ってよく見えない。いったい何を考えているのだろう、と末の姫すえのひめは首を傾げ、声をかけようとした。

 

「のんびりしていられないな」

 

 ふいに少し低く鳴らされたウツギの声に、末の姫すえのひめはびくりと肩を震わせた。

「どうしたんだ、ウツギ?」

「悪いな」

 ぽつりと落とされた少年の声と同時に、頸に激しい衝撃が下ろされた。

 大きく揺れる視界と、きいんと響く耳鳴りのなか、冷ややかな赤い目を認め、末の姫すえのひめはそのまま意識を失った。 

 

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