無の混沌 参


 普通の家族、というものを知らない。

 

 父がいて、母がいて。兄や弟、姉や妹がいて。妾の子であればあまり父は近くないかもしれないが、それでも母ときょうだいというものがあり、彼らとどうってことのない日常を過ごす家族というものを自分は知らない。

 けれどもそれでも構わない、と感じていた。きっとそれだけ、今の自分に満ち足りていたのだと思う。

 

「お前に、母はないと思え」

 

 その言葉に、感じるものはあった。

 悲しくもあったかもしれない。けれども、それはしだいに感じなくなった。それほどに、周囲に恵まれていたもかもしれない。

 ゆえに、したときは虚無に包まれた。すべてを忘れられたらどんなによいかと、絶望した。

 目を閉じれば、きょうを吹き渡る潮風が身を包んだ。その、さああと海原をなでる潮風には、自分の知らない無機質さがあった。

 

「ひとつ、お願いがあります」

 

 そう、申し出るとその人はうっすらと面白い、と笑った。

 ならば。すべて忘れて、なかったこのしてしまえばいいわ別れぎわにそう小さくこぼした言葉もまた、潮風にまれ、かき消された。

 そこにはもう、何も無い海原だけが残った。


 

❖ ❖ ❖


 

「大丈夫かい、末の姫すえのひめ殿」

 

 史紀ふみのりの声で、忠行ただゆきの娘は目を覚ました。

 彼女は岬先の草原くさはらのうえに横たえられていた。そばにあの銀髪の鬼子おにごの姿はない。我に返った末の姫すえのひめは飛び起き、ぐらりとめまいがして頭を抱えた。

「くうう……!」

「急に起き上がらないほうがいい。それより、君がどうしてこんなところにいるんだい?」

 熊のように大きな男の腕には、子どもの替えの衣がある。倉へ戻って書き置きを読んでそのままここまで訪れたのかもしれない。

「ウツギは……ウツギは見ませんでしたか、史紀ふみのりさま」

「ウツギ?見ていないよ。君と一緒にいたんじゃないのかい」

 それならここにいるはずだろう。末の姫すえのひめはずきずきと痛む頸を手で押さえながら、呻くように言葉を絞り出す。

「なぜか急にあたしを殴って消えたのです。はやく探さないと」

 その行動の理由を知りたい、というのが第一の理由である。だがそれ以上に、心配もあった。平気そうに歩いていたが、あの傷は深い。あまり無茶をすればまた開くかもしれない。

 

 急ぎ南繋神宮なんけいじんぐうの敷地内を探して回ったが、やはり少年の姿はなかった。あの傷と日の昇り具合からしてさほど遠くには行けないはずだと考え、史紀ふみのりと町へ降りて春市はるのいちの付近も探したが、鬼子おにごはもちろん、顔を隠した子どもを見たという証言すらなかった。他にも行きそうな場所――史紀ふみのりの屋敷のある木群ノ端こむらのはまで赴いてみたが、どこにもその姿はなかった。

 

 そうこうしているうちに、日は天頂に上がっていた。

 環栄かんえい央鳥なかばとり大路おおじ秋市あきのいち近くの路端ろばたでふたりは足を止め、史紀ふみのりは頬をかいた。

「まいったね。あの見た目でどうやって人目を盗んで逃れたのやら」

「それより、あの傷でよく歩き回れるなと……」

「そうだねえ。まあ、その理由はなんとなく察しはついているんだけどね」

 え?と問い返すが、史紀ふみのりは何も答えず、ぼんやりと町の人波を見つめていた。その視線の先では、いつも通りの平穏な町の様子がある。

 

史紀ふみのりさま。ウツギはいったい何者なんですか。昨年さくねん、父上と一緒に訪ねに来たときは連れておりませんでしたよね」

「ああ、先月からそばへ置くようになったからね」

「先月って……」

 宵結よいむすびの守部もりべの死が確認された月である。その死体のそばにウツギがいた、ということは随身ずいじん忠行ただゆきすら知らぬことで、むろんそのようなことを、その娘の末の姫すえのひめに話すこともない。史紀ふみのりはいつもどおりの、ぼやっとした表情をするのみ。

「お屋敷で見ましたけどウツギ、あの細さから想像もできない身のこなしですよね」

 大人の男ですら背伸びしてもその先が見越せない高さのあるへいに軽々と飛び乗り、身体の大きな鬼人きじんと対等以上に渡り合い、最後には無力化して見せた。どう考えても、ただ者ではない。

「あのやけに痛みに鈍いことや、全身傷だらけなのもそれに関わるのでは?」

 まっすぐと見据えるその女の目に、史紀ふみのり微笑びしょうで応じた。

「さあ、どうだろうね」

 

 史紀ふみのりは再びぶらぶら歩き始めると、いちに訪れる平民の母子ははこを見かけた。母親はまだ若く、その手を繋ぐ子どもはよたよたと歩く幼い女の子だ。その様子を見ていると、思い浮かべる光景がある。

「しかし、君も大きくなったねえ」

「話がよく逸れますね」

 すかさず指摘する少女に、史紀ふみのりは苦笑した。

「少し前はよく、小さな君たちきょうだいを連れて屋敷に集まったなと思ってね」

「あまり覚えておりませんが……。春紀はるのりさまがご存命のころのお話ですか」

「そうだよ。父上は愉快なことが好きだったから、君の父君に無茶振りな一発芸をよく求めていたよ」

「今もじゅうぶん、求められているような……」

 いえ、なんでもないです。末の姫すえのひめはとっさに言葉を呑み込む。父の忠行ただゆきは、傍目には実に滑稽に見えるほどにひと回り若い主人に振り回されている。が、言わぬが花である。いちおう父の名誉を守っておこうと思うわずかな娘の配慮である。

 

「あ、噂をすれば」

 

 だしぬけに史紀ふみのりが声を上げた。

 そこには近衛府からの呼び出しから帰路につく、草臥くたびれた中年男の姿がある。

「このようなところで何をなさっているんです、史紀ふみのりさま」

「んー。隠れ鬼かな」

「隠れ鬼……?」

 

 その鬼が深手のままどこかへ姿をくらませたことを知らせると、忠行ただゆきは顎が外れそうなほどにあんぐりした。

「はあ?ウツギがどうしていなくなるのですか」

「さあ。理由なんて知らないよ。まあ、そのうち腹をすかせて戻って来るでしょう」

「貴方にとって、ウツギは犬か何かですか」

 呆れたように顔を引きつらせる随身ずいじんだが、史紀ふみのりは肩をすくめ、嘆息を落とした。

「そうは言っても、そろそろ朝餉あさげだから末の姫すえのひめ殿はお返ししないといけないし、無闇矢鱈むやみやたらに探し回ってもきっと見つからないよ」

 すでに一刻半も探し回っているが、一向に見つかる様子もない。しかも、きょうの民は朝に食事をあまり摂らず、昼と夕方に摂る文化である。ゆえに彼らはひどく空腹である。

「安心なさい。すぐにまた会うことになるだろうよ」

 いったいどこから生じているのか、その言葉には確信がある。随身とその娘は、その不確かな自信のある主人に、しぶしぶと従った。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る