中日の葬送 壱


 後宮のいっかく、皇后の居所である弘徽殿こきでんで、宮の女房信子のぶこは座して礼をした。

「皇后さま、帝がおいでになりました」

 

 秋の中日である今日は、亡き宵結よいむすびの守部もりべを悼むための儀式が執り行われる日である。夕刻までに牛車ぎっしゃ海ノ端あわのはまで赴かなければならないゆえ、皇后の徳子さとこは女房たちの手助けのもと、儀式用の白い小袿こうちぎを纏っていた。豊かな黒髪の上で綺羅びやかな宝冠ほうかんが輝き、胸には鈴を括り付けた金の組紐飾りを下げている。

 

「まあ。今上きんじょう陛下、ごきげんよう」

はらの子はどうだ、皇后よ」

 几帳きちょううしろから姿を表したのは、冕冠べんかんに赤い衣姿の、三十手前の男である。彼こそが今上帝きんじょうてい神鏡かがみ玲仁あきひとその人だが、その凡庸な顔つくりから、畏れ多さは感じさせない。常のまつりごとでは御簾みすで顔を隠しそれらしく振る舞っているが、その実は穏やかなまなざしをした、親しみ深さを感じさせる男なのである。

 

 徳子さとこは自分の頬に手を添え、こくりと首をかしいだ。

「順調に違いありませんわ。三日前から倒れることもなくなり、わたくしの体調もすこぶるよいのです」

「それはよかった。きっと元気な子を産むのだぞ」

 皇子、と断定して励まさないのは、期待していないためか、それとも妻をいたわってのことなのか。周囲の女房たちは緊張したおももちで見守るなか、徳子さとこは持ち前のおっとりとした微笑えみを浮かべた。

「今日は上皇さまもいらっしゃるのでしょう」

「ああ。先ほどお顔を拝見したが、元気そうであった。近ごろは詩に夢中だそうだ」

「ふふ。すいは美しいところと聞き及びますもの。その情緒あふれる景色にきっと感銘されたのですわ」

 

 先帝は早くに帝の地位を辞し、今や悠々自適に東のすいの国で隠居生活を愉しんでいる。そのすいの国には風流な落水の名所などがあり、詩人のあいだでは「ぜひ住みたい場所」として名高い。

「叔母上の死のしらせを受けたさいは大変落ち込まれたようだが、それもようやく乗り越えられたようで」

 ため息混じりに今上帝きんちょうがぼやくと、皇后はころころと笑った。

「仲の良い姉弟きょうだいで有名でございましたものね」

「仲の良い、というか。あれは一方的に姉を慕っていたクチであろうなあ」

 

 破天荒な姉――亡き宵結よいむすびの守部もりべを心酔するあまり、「皇太子の地位は姉上に」と大真面目に辞退しようとした、というのは朝廷では有名な逸話である。

 そしてそれは逸話ではなく、事実なのを今上帝は知っている。即位前、幼い頃からまるで自分のことのように叔母の話を聞かされたからだ。やれ熊をひとりで仕留めただの、やれ酒比べで優勝しただの、やれすべての書をそらんじて見せただの。

 

「ふふふ。陛下も兄弟仲、よろしいですわよね」

「それはむろん。妹や弟は可愛いものだ。即位してからまったく会えておらんがな」

「お忙しいですものね」

 鼻高々に応じ、自慢げにきょうだいの話をしようとするところは、さすが父子と言うところだろう。皇族の子どもと言えば、今もそうであるように、帝位の継承を巡って火花を散らしていそうなところなのだが、先代と今代こんだいは比較的平和だったらしい。

 すると今度は悲しいことでも思い出したのか、帝はしゅんと肩を落とす。

「以前会いに来ないかと声をかけたのだが、やれ忙しいだのと断られてしまった」

「まあ、それは残念でしたわね。きっと今度こそお会いになれますよ」

 この会話、月に一度していることを知る女房たちは気不味そうに沈黙していた。

「今上陛下、皇后陛下。車の用意ができてございます」

 信子のぶこの声に、夫婦は振り返る。そこには近衛府の男がおり、出発の知らせを運んだのだとふたりはすぐにさとった。

「さて。向かおうか、皇后」

「はい、陛下」

 

 出発する直前、屋形やかたの中で皇后はぽつりと呟いた。

「あの鬼の子はどうしているでしょうか」

 中には信子のぶこを含む裳唐衣もからぎぬ姿の三人の女房が同行していた。その中でもっとも年嵩としかさのある信子のぶこは眉を寄せ、やや裏返った声で返した。

「まあ皇后さま。あのようなけがらわしい獣の子のことなぞ、お忘れください」

「でもあの子のおかげで、わたくしは今こうしているのですよ」

 その指摘に、う、と信子のぶこは言葉を失う。魂と器があまり長いこと離れると死に至る、と言われている。すみやかな呼び戻しは皇后を生かすことには必須で、それを行える神官は数が少ない。その数少ない神官の多くは雁舞かりまいに連なる家門と強い繋がりがあることをかんがみるに、ウツギという少年の手助けは助かった、以外の何物でもない。

 だがそれでも鬼人きじんが直接触れるなど、多くの高貴な血筋にとっては死んだほうがマシ、な出来事なのである。

「それにあの子、本当に鬼子おにごだったのでしょうか」

「たしかにつのがございましたよ」

「でも信子のぶこ。人間のような外見なりだったのでしょう。顔を見ておりませんが、手足は毛深くなかったのは知っていますわ」

「そういう鬼もいるということでしょう」

 そのいい加減な結論のしかたが史紀ふみのり随身ずいじんと同じである。むろん、そんなことを知るはずもなく、不機嫌な顔をする女房に皇后は「そんなものなのかしら」と呟いた。

「ねえ信子のぶこ。わたくし、またあの子に会えるような予感がしているのですよ」

「よしてくださいまし!皇后さまのお命を狙う輩も捕らえられたとのことですし、もう関わることはありませんよ」

 

 日が西へ傾き始めた環栄かんえいの中央通り、神対かみむかい大路おおじは物々しい空気に包まれた。

 

 ゆっくりと進むのは帝とその妃や親王しんのう内親王ないしんのう、それから関白や上皇の一行の大行進である。

 近衛の騎馬が先導し、続いて帝と上皇、それから皇后の乗る三台の唐車からぐるまが、その後ろを女御やその子供たちの乗る数台の糸毛車いとげのくるまがゆっくりと進んでいる。その左右をしゃらん、しゃらん、と徒歩で行く付き人たちがしるべの儀仗ぎじょうを鈴のを鳴らしていた。

 

 めったに見ることのできない光景に、町の人々は路端ろばたに出て見物していた。その行く手は日宿大海ひやどりのあわのある、海ノ端あわのは。日はだんだんに西へ傾き、間もなく夕暮れ時になる。

 

 しゃらん――。

 鈴の音が鳴り止むと、一行は海辺の祭祀場さいしじょう前で止まった。平屋の祭祀場てまえ、通路として敷かれた赤い長布の左右にはすでに黒い束帯姿の官人かんにんたちがずらりと並び、尊い方々の到着を待ち望んでいる。

 

 その中をゆっくりと今度は徒歩で進む。皇后は扇で顔を隠しながらも、その隙間から前方に臨む大海原を見る。

「まあ、美しい」

 周囲に聞こえぬよう、小さな声で思わず言葉をこぼす。高貴な女たちはめったに外歩きができない。用事もない海辺となるとなおさらで、その佳景かけいに感動せずにはいられないのだ。

 しゃらんしゃらん、と再びしるべの鈴が鳴らされる。

 宵結よいむすびの守部もりべを見送る、葬送の儀式が始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る