虚ろな目 肆


 やっと大内おおうちを出たとき、史紀ふみのりは少年に声をかけた。

「ウツギ。どうしたんだい、そんな浮かない顔をして」

「……俺はその「浮かない」顔をしていたんですか」

「たぶんね」

 のんびりと応えると、史紀ふみのりは大きな手で頭巾ずきんごしき少年の頭をくしゃくしゃと撫で、ゆっくりお言葉を続ける。

反面教師はんめんきょうしというやつかな。こう見えても私は母と同じことはしたくない、と思っているんだよ」

「同じこと、ですか」

「そう。私は母の興味だけで生み落とされ、捨てられた。それと同じことだけはしない、と私は決めているんだよ」

 だから私は君を捨てないし、興味のためにしない。だから安心しなさい――史紀ふみのりの言葉に、なぜ突然そんなことを伝えるのか理解できないのか、少年はただ「はあ」と言葉をこぼした。

 

「君はどうして私の養父――初氷ういごおり春紀はるのりが順風満帆な人生を捨ててまで、私を引き取ったと思う?」

「さあ。知りません」

「実は私も、んだ」

 苦笑して見せるといっそう、少年は眉を寄せた。その様子を少し愉快に思え、史紀ふみのりはからからと笑い、そしてふと、寂しげに目を細めた。

「私はどうにも人の心というものに疎いらしい。だから、が「幸せになりなさい」と言ったのに、私の意思を聞かなかった理由もわからないんだよ」

 

 忠行ただゆきは気づいていたのだろうか。史紀ふみのりにとって、春紀はるのりと過ごす時間よりもずっと、忠行ただゆきと過ごす時間の長かったことに。

 史紀ふみのり春紀はるのりが過ごした時間ときは六年少しと、短い。そのうちの、自我のあったのが数え三つくらいからなのだから、その実、彼にとっての時間は三年少しに過ぎない。そんな男が、父と呼べるだろうか。

 

 二十年には満たないが、それに等しい時間ときを、史紀ふみのり忠行ただゆきと過ごした。それこそ、まことの家族のように。あの男はけっして家族と呼ぶことを認めなかったが、他に身寄りのない彼にとって、忠行ただゆきはただ一人の家族だったのだ――それも昨晩のたった数刻の時が奪って行った。

 

 ふっと笑って、史紀は少年の背中をぽんと叩いた。

「さて。私の呟きはこのあたりにして、早く帰ろうか」

「はあ」

「しかし、二十五にして十の息子かあ。ふふ、これからが楽しそうだね」

 きっと、春紀はるのりが地位を捨てて赤子を引き取ると言ったとき、こんな気分だったに違いない。

「……あの養子にする、というお話は本気なのですか」

 少年の顔がやや引きつっている。こんなとき、どんな表情をすべきか知らぬのだろう。史紀ふみのりはとろんとした目を細めてあっさりと、

「本気だよ?」

 と返した。

「はあ。でも俺、宵結よいむすびの守部もりべ形代かたしろですよ」

「知ってる。でも、はもういないし、君は形代ではないから問題ない」

 この男はひと言も、この宵結よいむすびの守部もりべの所有する形代かたしろがそのまま、真の形代かたしろである、とは言っていない――だが、少年がその言葉の意味を理解できようはずもない。ゆえにきょとんとして首を傾げている少年に、史紀ふみのりは苦情した。

「まあ、追々ね」

「はあ」

「貴族の子ども、というのもやることを覚えれば君もすぐ馴染むよ。少し目立つけれど、きっと何とかなるさ」

 ようは「らしさ」をまた身につければよいだけのことなのだから。そう、付け加えると、史紀ふみのりは何となしに空を見上げた。日は西へ少しだけ傾いている。少年をつれて史紀ふみのりはのんびりと足を進め、岬上の南繋神宮なんけいじんぐうへ向かった。

 

 双神殿そうしんでん裏手の倉へもどると、そこには何もなかった。

 

 知っている場所なのに、どこか無機質な静寂がある。

 あの随身ずいじんと名乗る男が、主人のいい加減な格好に青筋を立てることもなければ、腹が空いただろうと世話を焼くこともない。

 ここにはもう、何もない。

 日常だったものは無に帰し、元よりあの生真面目な男は自分の私物は置いていなかったゆえ、その生活の痕跡すら残されていない。ただ、そこには質素な文机ふづくえや乱雑に積まれた書があるだけだ。

 

 その静寂のなか、文机ふづくえのうえには一枚のふみがある。

 

 ただふたつに折られただけの、その白い紙。その紙のあいまから「協力に感謝する」「錦瀬にしきぜ」の文字が覗かれている。史紀ふみのりはその紙が少年の目に入る前にそっと拾い上げて、ふところへしまった。

 そのときの史紀ふみのりのまなこが虚ろであることをそばにいる少年が知る由もなかった。



❖ ❖ ❖

 


 そのとし雁舞かりまい忠行ただゆき流刑るけいに処された。共に流されたのは、皇后の女房をふくめた共謀した者たちと、忠行ただゆきの妻である。むろん、すべてを処せたわけではないが、かなりの多さに朝廷も危機感を感じたらしい。

 成人前の子どもたちは従兄弟の重行しげゆきが引き取り、後見人になったのだという。末の姫は何を思ったのか皇后が女房として引き抜き、裳着もぎとともに参内することが決まった。

 だがウツギがその忠行ただゆきの子どもたちと再会するのはもっと後。元服して、名を「初氷ういごおり春弥はるや」に改めたあとである。

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