出逢い 壱


 ごうごうと、荒波の唸るような音がする。

 

 その轟音のなか、誰かが呼びかけているような気がした。悲痛な声が誰かの名を何度も、何度も呼んでいる。誰かの名を叫びながら、泣いている。哭いている。

 ――だれ?

 俺を呼ぶのはだれ。いったいどうしてそんなにも苦しそうに名を呼ぶの。そう、呼びかけに応じようとした瞬間、ふつりと音が止み、周囲は無音に包まれる。

 

 しゃらん、しゃらん。

 

 今度は何かがこすれる音がした。 

 それは鈴にも似た音で、その清らかな音で少年は意識を取り戻した。

 暗くて何も視えない。目だけではない。頭がぼうっとしてすべての感覚がにぶって遠い気がする。なんとか手を持ち上げて自分に触れてみると、身につけている衣がすっかり濡れていることだけはわかった。

 

「ここ、どこだ……」

 

 ぽつりと彼は独り言ちた。

 その声はまだ変声期をむかえていない子どものもの。喉を痛めたのかひどく掠れていて、ひゅうひゅうと異様な呼吸音をともなっている。

「だれ、……か」

 誰か助けて。そう続けようとするが息が詰まるような感覚にとらわれ、次の瞬間にはひどく咳き込んで、外気を吸い込むことすら難しくなっていた。

 このままではまずい。

 少年は力の入らぬ手でざりざりと滑る地面をかき、身体を引きずるようにして進んだ。

 

 ――誰か。

 

 声にならぬ声で叫び、彼は助けを求めた。そのつどにまた激しくせ、それでも一心に手を差し伸べてくれる誰かを求めた。 

 どうしてこんなにも苦しいのだ。

 いったいここはどこで、自分は何をしていたのだ。そもそも俺は――――誰なんだ。

 自問しても何も思い出せない。思い出そうとすればきいんと耳鳴りがするのだ。頭の奥が焼きごてを当てられたように熱くなり、そして首や四肢が四方八方から引かれるように軋んで痛むのだ。鈍い感覚のなかで、痛みと苦しみだけが研ぎ澄まされ、痛みと苦しみが彼を支配した。

 

 しばらくそうして藻掻もがいていたが、ようやく息苦しさや身体の痛みがおさまり始めた。

 痛みと苦しみから思考が放たれて、外へと意識が向けられるようになる。それでようやく、自分の左手が何か別のものに触れていることに気がつき、ゆっくりと目を開いた。

 

「……なん、だ?」

 

 外はまばゆい白色光に包まれていた。

 あまりの眩しさに目を細めたが、だんだん慣れてくると、そこには白の他に紫と橙、赤で三層の重なりをなす彩りのあることが見て取れるようになる。

 それは東の地平からこぼれ出た黎明れいめいの光に縁取られた空だ。否。地平線で区切られた空と、海だ。

 あまりにもくっきりと映しているゆえ、その地平の下にあるものがどこまでも広がる大海原おおうなばらだと判ぜられなかった。陽光をきらきらと弾いて水面の底にあるものを隠し、おのれが空であると偽っているようだ。

 

 少年は黒の袖無し服に顔を隠すように同色の頭巾ずきんを巻いた姿で、その偽りの朝焼け空の終わりの浜辺にいた。

 

 日の出時のわりには気温の高く、じんわりと汗がにじむ暑さがある。淡い日射しも肌をちりちりと焼く強さを有している。 

 意識を下の波打ちぎわへおろせば、剥き出しの脚には細やかな小砂の感触と、離れては打ち寄せる、冷たい水の感覚があった。そして――左の手から伝わる感覚は、砂でも石でもそして水でもない。

 もう片方の手で身体を支え、よろよろと起き上がりその左手に触れるものへ目を向けようとした、そのとき。

 思わず飛び上がり、尻もちをついていた。

 

 女だ。

 

 女が横たわっている。

 年齢とし四十しじゅうなかばくらいだろうか。少年と同じくずぶ濡れで、双対ふたついの神々に仕える者を示す額当ぬかあてをした女である。狐の尾のように切れ長の目は虚ろに開かれ、整った顔を紙のように白くしている。その胸は懐剣かいけんで貫かれ、白い衣は元の色が判然とせぬほどに赤黒く染め上げられている。

 

 少年ははっとして自分の手を見――そして目を見開いた。

 

「――!」

 その赤銅しゃくどうに日焼けた手にはべったりと血がこびりついている。

 さらには黒だと思っていた頭巾ずきんはもとは白、衣は薄浅葱うすあさぎか何かで、それらは黒く見えるほどに血染み付いているのだ。

 つまり、この女は自分が殺したということなのか。

 ――わからない。

 わからない。何も覚えていない。何も、思い出せない。

 

「うわあああ!ひ、人殺しだ!」


 突然に、背後から悲鳴が上がった。

 振り返ればきなりの水干姿の男が蒼白顔をしてこちらを指さしている。その声を聞きつけて海沿いに住まう人々が長屋から出てきて、男のそばへ集まってくる。彼らはこちらを認めると同じように蒼然として、検非違使けびいしを呼べと口々に言った。

 どうしよう。

 あまりの困惑で思考が停止する。気がつけば、無意識に少年は走り出していた。

 意味もなく水の中をざぶざぶと走り、沖側へ。むろん海のなかに逃げ場などあるはずもなく、水位はだんだんにあがって、顔のあたりまで水が到達して、水を飲んでしまう。泳ぎ方を知らないのだ。手で水をかくも虚しく、少年は水底へと沈んで行った。

 

 ここは、どこなんだ。

 俺は、何なんだ。

 

 何度も何度も、同じ問いを続けても答えはない。衣が水を吸って重たく、水のあぶくの音が全身を捉えて自由を奪う。

 もう駄目だ――そう思ったとき、何かが手を掴み、ぐいと一気に引き上げられた。

「げほげほ!」

 息ができる。すっかり鮮やかな群青になった空がまぶしい。飲んだ水を吐き終え、少年は自分を抱きかかえている何かへ視線を向けた。

 

 ――誰?

 

 それが一番に出てきた言葉だ。

 青年と壮年のあいだくらいの男だ。熊のように上背のあり、そのたくましい腕で少年を抱えて岸へ向かって泳いでいる。こちらが落ち着いたことに気がついたのか、とろんと垂れた目を向けて、穏やかな声をかけてきた。

 

「大丈夫かい、


 え?と驚きで小さく声をこぼす。

 ウツギ、とは自分のことだろうか。この男は自分を知っているのだろうか。少年はぽかんとして、その男を見上げた。男はそんな少年に変わらず微笑みかけて、

「よしよし、もう安心していいよ。私にしっかり掴まりなさい」

 と返すが、掴まるもなにも、男がしっかりと抱えているので手の動かしようがない。

 男は人だかりのある浜辺ではなく、東側をつらぬく岬の崖下へ泳いで渡った。それは角のように尖った岬で、斜めに切り立った崖はごつごつとした岩と土でできている。その崖の途中までは何故か綱が下ろされており、もしやと眉をひそめていると、男はにこやかに崖を顎で示して言い放った。

「さ、上に登ろうか」

 嘘だろ。

 思わず大声を上げてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る