泡遊記(ほうゆうき)

花野井あす

虚ろの鬼

荒海に遺されて 壱


 しゃらん、しゃらん。

 

 しるべの鈴ので、水晶花うのはなの君は目を覚ました。

 やみに塗りつぶされた室内を月の幽光ゆうこうがさしこんで、わずかに手元を明るくしている。その手元には、片付け忘れた日記が一冊あった。

 古い日記だ。

 遠い、遠い先祖が記したもので、この手元にあるものすらも過去に書き写したものだ。元となる書はもうない。

 この日記を手に入れたとき、舞い上がるような喜びに満たされた。

 

 ずっと知りたかったのだ。

 

 知りたくて知りたくて、けれども誰ひとり知る者はすでになくて。

 だから書という書を読み漁り、探し求めた。そしてようやく、この手におさめた。この何代目かのものですら文字はかすれて読むのにはたいへん骨が折れることだったけれど、それだけの価値はあった。

 

(お祖父じじ上。わらわは、正しくおりますか)

 

 応えはない――あるはずがない。

 その黄ばんでよれた紙面しめんを優しく手で撫で、水晶花うのはなの君は愛おしげに目を細めた。暗くてさすがに読めないけれど、ここに記された文字は愛する祖父のそれなのだ。こうして触れていると、祖父と語らっているような、そんな心持ちになれるのだ。

 

 ふと、水晶花うのはなの君はおもてを上げた。

 

たれか呼んだか」

 返事はない。

 誰かが呼んだような、そんな気がしたのだ。だがそこにあるのは静寂に包まれた部屋と、すうすうと寝息を立てている女たちのみである。

 しゃらん、しゃらん。

 また屋根から吊るしたしるべの鈴が鳴った。

 小袿こうちぎを肩にかけて立ち上がり、戸を開け外へ出てみた。理由はない。なんとなくだ。出てすぐにひゅうっと柔らかな潮風がおろしたままの水晶花うのはなの君の髪をさらった。

 

 ここは船の上で、その下は一面たいらな海原である。

 

 交代で船をる漕ぎ手たちがかいでかくたびにその海面うみづらは横へ線をえがくが波は少なく、白砂はくさをまぶした黒いとばりを宿している。

 船は夜のなかをすべっているのだ。

(あれは……)

 遠い黒塗りの地平がいる。

 丸めた紙みたいだ。それはだんだん大きな壁のようにまくり上がりながらこちらへ近寄ってくる。

 

 ――あれは、何であろうか。

 

 じっと目を凝らしながらもそんなことを考えていたが、押し出された夜が目の前まで押し寄せてきてようやく、水晶花うのはなの君は我に返った。

 

 ――しまった。

 

 そう心の奥底で叫んだがすでに遅い。

 それは波だ。轟音を立てて打ち付け、船体を大きく揺らがす荒波あらなみだ。船を繰る男たちはむろんのこと、船室で眠っていた女たちも目を覚ましてつぎつぎと青ざめた悲鳴をあげた。

 水晶花うのはなの君は声すらも上げられなかった。

 伏せてしがみついていたがとうとう海へ投げ出され、波濤はとうのなかへ飲み込まれてしまう。もがき苦しみ手を伸ばすが、長い衣が水を吸って重くなり意に反して沈んでゆく。海底うみぞこの闇を映す水鏡に見つめられながら、遠ざかっていく。

 

 ――しゃらん。

 

 しゃらん、しゃらん。

 しゃらん、しゃらん、しゃらん。

(鈴の音……?)

 違う。

 あれは魂をつかさどる天ツ原あまつはらと器をつかさどる地ノ泉ちのもとがこすれる音だ。

 しゃらん、しゃらん。

 薄れゆく意識の隅で、そのふたつのの境い目の音を聞いた。

 

(お祖父じじ上。わらわは還るのですか)

 

 たましいとうつわ。

 こころとからだ。

 彷徨えるきょうの民はみな、そのふたつのが接し重なることで生じた存在だ。それはまさしく泡のごとく儚い命だ。

(また、出会えるのですか)

 今は亡き、祖父。

 今は亡き、愛しい者たち。

 彼らはみな、ふたつに別れ、あるべき形へ戻って新たな刹那の生を待っている。そして今、おのれも彼らと同じ道へ向かっているのだ。

 月光もとどかぬ深淵しんえんへ導かれながら、水晶花うのはなの君は遠い過去へ想いを馳せた。




 

❖ ❖ ❖





 ひとつに、己霊きだまあり

 ひとつに、殻郭かくあり


 その二性にしょう天ツ原あまつはら地ノ泉ちのもとよりきょうにてめぐまわりて刹那の有情うじょう

 

 境とはすなわちしき

  

 有情うじょう三世さんぜことわりを正しく得るとき、有情うじょうは(以下、消失)

 

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