出逢い 弍


 何が何だかわからぬうちに、まさか岩登りをさせられるとは露ほども思っていなかった。

 

 男は少年を小脇に抱えたまま尖った岩壁を登ろうとしたが、少年は「自分で登るから」と言って断った。いくらなんでも、片手で登れる高さではない。

 とは言え、ならば自力で登れるのだろうかと一瞬不安のようなものを感じたが、思いのほか身体は動いた。

 軽かったのだ。

 水を吸ってはいるものの、その着物自体も袖がなく丈も短いので重くなったと言えどしれている。身体は小柄かつ華奢で、それに反して力はあるらしくて手で岩を掴んでぶら下がるくらいのことは難なくこなせた。

 

 むしろ驚くべくはこの男だ。

 

 泳ぐために捨てたのかかんむりのたぐいはしていないものの、あか狩衣かりぎぬ姿いう袖も裾も自分よりうんと長い、濡れていなくともかなり重たそうな格好をしている。それに加えてあの巨体。走るのすら苦労しそうな姿でひょいひょいと岩を登って行く。

 

 さいごは渡してあった綱を支えに崖上へあがると、こちらへ手を伸ばして来た。

「掴まりなさい」

「……ありがとうございます」

 その手をつかみ返し、自分も上へあがる。

 

 東の空でさんさんと照りつける陽光が近くなっていっそう眩しい。

 周囲を見渡せば、ここは町の端を縁どる山が海へ突き抜けたように続いた先らしい。斜め下を見下ろせば先ほどいた浜辺があり、人間たちが豆粒のように小さく見える。想像以上に高さがあったのだと実感する。

 

「さて。とりあえず南繋神宮なんけいじんぐうへ向かおうか、ウツギ」 

「……あの。そのウツギ、て俺のことですか」

 少年が問い返すと、男はとろんとした目をしばたかせた。

「自分のを忘れてしまったのかい」

「はあ。申し訳ないのですが、あなたが何処のどなたで、ここが何処なのかも」

 素直に応じれば、男は一瞬困ったなと頬をかいたが、すぐに気を取り直したように柔らかに微笑んだ。

「まあ、そんなこともあるさ。とにかく、夏とは言えお互い濡れ鼠はよろしくない。早く行こうか」

「はあ」

 記憶がないことを「そんなこともある」で片付けるとは。だが不審におもったところで、男について行くほか少年には道がない。

 

 岬は一面背の低い草原くさはらに覆われていたが、奥の方は鬱蒼としげるもりがあった。

 

 その途中、立派なあかい鳥居が姿を現した。扁額へんがくには南繋神宮なんけいじんぐうと記されている。その鳥居の下をくぐると、立派な双神殿そうしんでんが出迎えた。

 朱色に合わせ水鳥みずどりと呼ばれる、羽根を広げた鳥が向かい合ったような金色こんじきの文様のほどこされた立派な水盆すいぼんが設けられた神明造しんめいづくりやしろだ。

 そのやしろの横を過ぎ、その裏手のもりのなかにひっそりと構える高床の大きな木造平屋へ男は進んだ。かなり年季のいった倉なのか、倉へ続くきざはし井桁いげた状に組まれた校木あぜぎはささくれだっている。

 

 するとやにわに、ばたんと戸が開け放たれた。

 

史紀ふみのりさま、いったいどちらへいらしてたんですか!」

 出てきたのは、深緑の狩衣をまとった、四十半ばか後ろかくらいの、小じわの目立つ公達だ。生真面目という文字をそのまま描いたような顔をした男で、肩幅はあるものの背丈は中の中ていど。きざはし下にいる男を認めるやばたばたと駆け下りて詰め寄った。

「勝手にどこかへ消えるなと何度も申しておりましたのに。わたくしの胃のに穴をあけるおつもりか!」

 

 勢いよく捲し立てる公達きんだちに、史紀ふみのりと呼ばれた男はからからと笑う。

「落ち着きなさい、忠行ただゆき。少し海水浴をしてきただけだよ」

「は……!?」

 今さらに目の前の男がずぶ濡れだと気がついたらしい。ぎょっと目を剥いている。

「まさか岩登りをなさったのですか。危ないからお止めくださいと……」

「過保護だなあ、君は」

「主人を案じない護衛がどこにいますか!」

 食らいつくように吠えるこの男のその腰元には太刀たちがはかれている。忠行ただゆきというこの男は史紀ふみのり随身ずいじんなのだろう。

 常にかたわらに従わせるべき帯刀たちはき供人ともびとを放っておいて崖登り。なんとも守りづらそうな主人だ。

 

 だが当の主人は呑気に苦笑して、ついと後方を親指で指した。 

「それよりも、いちまでひとっ走りしてこの子に着替えを用意してくれるかな」

「はい?」

 忠行ただゆきの目が少年へ向けられる。主人の服装以上に目に入っていなかったのだろう。明らかに警戒したように顔をしかめた。

「どこで拾ってきたのですか、いかにも危険な事情のありそうな子どもを」

「案ずるな、知人の連れだ」

 潮水がにおいを洗い流したのか、血には気がついていない様子である。それでも少年が顔を頭巾ずきんでおおう、いかにも怪しい格好をしていることには変わらず、じろじろと目を向けながら史紀ふみのりに耳打ちした。

「知人ってどなたです」

宵結よいむすびの守部もりべだよ」

「は?その御方って確か行方知れずでは……」

 声を忍ばせているつもりなのだろうが、動揺で裏帰っていて丸聞こえだ。

 

 宵結よいむすびの守部もりべ

 

御方おかた」と称していることから、誰かを指す言葉なのだろうが、少年の知らない言葉だ。いったい何の話をしているのかと首をかしげる少年と、その少年をいっそう警戒する随身ずいじんに対し、史紀ふみのりはふむと声をこぼし、のんびりと応じた。

「ああ、先ほど死体が見つかったよ。胸をひと突き、あれは殺されたのかな」

 落とし物が見つかった、くらいの軽い口調だ。

「はあああ!?なんでそうなるのです!」

「詳しい調査は検非違使けびいしに任せることだよ。ほらほら、早く買ってきておくれ」

 まだ色々と聞き足りぬという様子の随身の背をぐいぐいと押し、暗に「さっさと行け」と命じる。

 

 ようやく従って、忠行ただゆきもりの奥にある町へ続く道へ出たのを認めると、史紀ふみのりはくるりと少年へ向きなおる。

「さ。君はこっちだよ」

 こっち、とは倉のことである。

 まったく状況についていけない。死体の話をしているということは、この男はあの騒動を目にしていたということである。だと言うのに、少年を手助けする理由がわからない。

 少年はずっと抱えていた疑問を口にした。

「あの……。あんたはどなたで、ここは何処なのですか。それに……」

「ああ、そうだね」

 遮るように、けれども変わらずのんびりとした声で男はそう応じると、ゆっくりときざはしをあがり、戸に手をかける。きいいと音を立てて扉が開かれると、おもむろに振り返った。

 がらんとして、書棚が連なる、何も無い倉だ。その向こうにはびっしりと畳の敷かれた、四畳半ていどの一角があり、文机ふづくえや乱雑に積まれた書物やふみがある。

 そんな目的のわからない倉の前で、男は中を指し示すように袖をひらいた。

 

「私は初氷ういごおり史紀ふみのり。ここは私の勤め先の倉で、私はしがない倉番さ」

 

「あんたと俺は、いったいどのような関係なのですか」

 訝るように、おそるおそる続けて問うと、男はにこりと微笑を浮かべた。

「ただの顔見知りさ。それも一方的に知っている、というたぐいのね」

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