出逢い 弍
何が何だかわからぬうちに、まさか岩登りをさせられるとは露ほども思っていなかった。
男は少年を小脇に抱えたまま尖った岩壁を登ろうとしたが、少年は「自分で登るから」と言って断った。いくらなんでも、片手で登れる高さではない。
とは言え、ならば自力で登れるのだろうかと一瞬不安のようなものを感じたが、思いのほか身体は動いた。
軽かったのだ。
水を吸ってはいるものの、その着物自体も袖がなく丈も短いので重くなったと言えどしれている。身体は小柄かつ華奢で、それに反して力はあるらしくて手で岩を掴んでぶら下がるくらいのことは難なくこなせた。
むしろ驚くべくはこの男だ。
泳ぐために捨てたのか
さいごは渡してあった綱を支えに崖上へあがると、こちらへ手を伸ばして来た。
「掴まりなさい」
「……ありがとうございます」
その手をつかみ返し、自分も上へあがる。
東の空でさんさんと照りつける陽光が近くなっていっそう眩しい。
周囲を見渡せば、ここは町の端を縁どる山が海へ突き抜けたように続いた先らしい。斜め下を見下ろせば先ほどいた浜辺があり、人間たちが豆粒のように小さく見える。想像以上に高さがあったのだと実感する。
「さて。とりあえず
「……あの。そのウツギ、て俺のことですか」
少年が問い返すと、男はとろんとした目をしばたかせた。
「自分の
「はあ。申し訳ないのですが、あなたが何処のどなたで、ここが何処なのかも」
素直に応じれば、男は一瞬困ったなと頬をかいたが、すぐに気を取り直したように柔らかに微笑んだ。
「まあ、そんなこともあるさ。とにかく、夏とは言えお互い濡れ鼠はよろしくない。早く行こうか」
「はあ」
記憶がないことを「そんなこともある」で片付けるとは。だが不審におもったところで、男について行くほか少年には道がない。
岬は一面背の低い
その途中、立派な
朱色に合わせ
その
するとやにわに、ばたんと戸が開け放たれた。
「
出てきたのは、深緑の狩衣をまとった、四十半ばか後ろかくらいの、小じわの目立つ公達だ。生真面目という文字をそのまま描いたような顔をした男で、肩幅はあるものの背丈は中の中ていど。
「勝手にどこかへ消えるなと何度も申しておりましたのに。
勢いよく捲し立てる
「落ち着きなさい、
「は……!?」
今さらに目の前の男がずぶ濡れだと気がついたらしい。ぎょっと目を剥いている。
「まさか
「過保護だなあ、君は」
「主人を案じない護衛がどこにいますか!」
食らいつくように吠えるこの男のその腰元には
常にかたわらに従わせるべき
だが当の主人は呑気に苦笑して、ついと後方を親指で指した。
「それよりも、
「はい?」
「どこで拾ってきたのですか、いかにも危険な事情のありそうな子どもを」
「案ずるな、知人の連れだ」
潮水がにおいを洗い流したのか、血には気がついていない様子である。それでも少年が顔を
「知人ってどなたです」
「
「は?その御方って確か行方知れずでは……」
声を忍ばせているつもりなのだろうが、動揺で裏帰っていて丸聞こえだ。
「
「ああ、先ほど死体が見つかったよ。胸をひと突き、あれは殺されたのかな」
落とし物が見つかった、くらいの軽い口調だ。
「はあああ!?なんでそうなるのです!」
「詳しい調査は
まだ色々と聞き足りぬという様子の随身の背をぐいぐいと押し、暗に「さっさと行け」と命じる。
ようやく従って、
「さ。君はこっちだよ」
こっち、とは倉のことである。
まったく状況についていけない。死体の話をしているということは、この男はあの騒動を目にしていたということである。だと言うのに、少年を手助けする理由がわからない。
少年はずっと抱えていた疑問を口にした。
「あの……。あんたはどなたで、ここは何処なのですか。それに……」
「ああ、そうだね」
遮るように、けれども変わらずのんびりとした声で男はそう応じると、ゆっくりと
がらんとして、
そんな目的のわからない倉の前で、男は中を指し示すように袖をひらいた。
「私は
「あんたと俺は、いったいどのような関係なのですか」
訝るように、おそるおそる続けて問うと、男はにこりと微笑を浮かべた。
「ただの顔見知りさ。それも一方的に知っている、というたぐいのね」
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