魂離れ 参


 西の対にしのたい母屋もやに設けられた御帳台みちょうだいで、皇后と思われる女が伏せていた。

 年齢としは、裳着もぎを済ませて間もないのだろうか。ウツギとあまり変わらない、とおを少し過ぎたくらいに見えた。ふくふくとした頬をした丸顔の女人なのだが、その顔は青白く生気がない。

 

 そのかたわらに控えていた単重ひとえがさねの女人がこちらに気が付き、顔をしかめた。

「誰です」

 おそらく宮の女房である。

 突然見ず知らずの、しかも熊のように大きな男が入ってきたためか、警戒したようにきっと強くこちらを睨めつけている。ツンとした雰囲気のある顔立ちをした白髪しらがのめだつ細身の女人で、蝶とも鳥ともとれる、不思議な形に結ばれた朱色の組紐を胸に下げている。

 

 慌ててその警戒を解くべく、実光さねみつが前へ出た。 

信子のぶこ殿、安心なされ。私のお客人だ」

実光さねみつさまの?ですか皇后陛下はいま、とてもお話できる状態では……」

「そのために来たのだからね。ちょっと失敬」

 相手が帝の妃だろうとかまうことなく、史紀ふみのりはずいと中へ押し入り、寝台横へ立つ。

「ウツギ。君もこちらへ来なさい」

 なぜ?と思いながらもしぶしぶと主人のそばへ行く。頭巾ずきんで顔を隠した子どもを怪しまないはずがなく、女房は通りすがりに「妙なことをしたらただではおきませんよ」と言った。その鋭い目は今にも人を刺しそうなほどの激情が宿っている。

「……あの、史紀ふみのりさま。俺、何もできませんけど」

 穏やかな目できっぱりと否定するが、ウツギは実にやることがなく、ぼけっと立っているだけである。

 

 史紀ふみのりは医師がやるように、横たわる女のまぶたを押し上げて目の具合を見たり、腕に手を添えて脈の具合を見たりしていた。それから実光さねみつや女房たちへいくつか質問をし、何かを取ってくるように指示していたのだが、その間もウツギは何もすることがなく、女房の視線で針のむしろにされていた。本当になぜ、ここにいるのだろうと思えてならない。

 

(まただ)

 

 ぐっと目を閉じ、こらえた。

 また、まぶたが重くなってきたのである。ウツギは頭巾ずきんと奥で唇をかみしめ、薄れそうになる意識をなんとか繋ぎ止める。

 この香りの所為なのか。それとも別に理由があるのか。

 だんだんに周囲の声が混ざって風の唸る音のように聞こえ始めた。汗が全身から吹き出して、ウツギはとうとう膝をついていた。

実光さねみつさま、しるべの鈴をお持ちしました」

 とたとたと女房のひとりが小さな鈴を手に部屋へ飛び込んだ。それはきょうの民ならばたいていひとつは家のどこかに吊っている鈴で、史紀ふみのりが持ってくるよう指示したものであった。

 実光さねみつはその鈴を受け取るや史紀ふみのりへ手渡そうとしたが、そのかたわらで膝をつく少年にぎょっとした。

「だ、大丈夫なのですか。何やら家人が……」

 脂を蓄えた顔のうえで目を真ん丸にして史紀ふみのりへ声を掛けるが、少年の主人はそのこと関しては何も言わない。そのかわり、

「ありがとう、実光さねみつ殿。だけみてみるから、一定の間隔でその鈴を振っていてはくれないかい」

 と返した。

「え。あの、よろしいので?」

「ああ、大丈夫。

 頭巾ずきんに隠されているゆえ顔色を見ることはできぬが、肩で呼吸をしている様子からしてとても平気には見えない。だが主人が気にするな、と言うのだから、外野の実光さねみつがあれこれ口出しできるはずもない。史紀ふみのりの頼まれたとおり、ゆっくりとしらべの鈴を振った。

 しゃらん、しゃらん。

 清らかな鈴のが室内に響き渡る。

 しゃらん、しゃらん。

 鈴の音は香る空気のなかへ吸い込まれてゆき、史紀ふみのりはひたいを皇后へ合わせ虚ろなまなこで何かを

 そのとき、あの墨汁のような独特な香りがしたような気がした。何の香りだろう――そうと頭の縁で思うも間もなく、ウツギはいよいよ目も開けていられなくなった。すべての感覚がふっとかき消え、がくりとそのまま倒れ込んだ。


 ウツギは意識だけが呼び戻された。

 

 暗くて何も見えず、何も聞こえない。いったいどうしたのだろうと息をしようとしたその瞬間、全身にじ千切らん勢いで引っ張られているような痛みが走った。

 

 ――いたい、くるしい。


 ウツギは声にならない悲鳴を上げた。 

 その激しさは肺や臓腑にまで至るようで、息もうまくできない。骨はきしみ、頭蓋が割れそうだ。

 それはまるで日宿大海ひやどりのあわで意識を取り戻した時の感覚に似ている。終わりのない痛みと苦しみがすべてを支配し、意識を混濁させ、無に帰そうとする。

(なんだ?)

 

 だが次の瞬間、以前にはない光景が開けた。

 

 自分は何かの狭間にひとり佇んでいるのである。

 片側にはの卵のようなものが乱雑に並び、色も音もない。無機質な世界だ。その卵がごろりとこちら転がって、境い目で溶けて消える。一部はその過程で粉々に砕けて、細やかな砂をこちらへさらさらと流していた。

 もう片側はあらゆる色や形の混沌として、輪郭のない世界だった。それらは息づくように脈打ち、うずまいて、こちらへ触れて霧散してまた戻る。その霧散したものの一部は溶けて消えているようにも思えた。

 あれらの、溶けて消えたものはどこへ行くのだろう。手を伸ばそうとしたが、自分の手がどこにあるのかわからない。足も感覚がなく、自分が在るという意識だけがそこにあるようだった。

(あれ)

 俺は、だっけ――その自意識すらも薄まって、気が遠くなる。


 しゃらん、しゃらん。


 しるべの鈴が鳴る。

 こちらへと呼びかけているようである。かすかな意識をその音の鳴る方へむけて、海の中をもがくように進んだ。

(向かわなければ)

 そうしないと。そうしなければ、――ふと、ウツギはそばにもうひとり、誰かがいるような気がした。

(だれ?)

 

 だがその瞬間、一気に喉奥からせり上がる感覚がして、大きく咳き込んでいた。

「げほげほげほ!」

 それは現実に咳き込んでいた。

 木の床についた自分の手や、床の上をしたたる汗が見える。息を詰まらせる花の香りも、周囲にいる屋敷の者たちの声も元通りになっていた。

「おや、自分できたみたいだね」

史紀ふみのりさま……?」

 気がつけば主人の足に寄りかかっていたらしい。とろんと垂れた目がこちらを見下ろしている。その目は穏やかに細められて、

「よかったよかった。私には技術がないからねえ」

「あの?」

 何を言っているのかわからない。

 だが、すぐ傍らで身じろぐような衣ずれの音がしてはっとした。その音がした方を見れば、ぐったりしていた皇后が頬に赤みを呼び戻して、まなこを開いている。

 その丸顔の女人はふくふくとした頬に手を添えて、淑やかな声をぽつりと零した。

「わたくしは……また眠ってしまっていたのですか?」

 

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