魂離れ 参
そのかたわらに控えていた
「誰です」
おそらく宮の女房である。
突然見ず知らずの、しかも熊のように大きな男が入ってきたためか、警戒したようにきっと強くこちらを睨めつけている。ツンとした雰囲気のある顔立ちをした
慌ててその警戒を解くべく、
「
「
「そのために来たのだからね。ちょっと失敬」
相手が帝の妃だろうとかまうことなく、
「ウツギ。君もこちらへ来なさい」
なぜ?と思いながらもしぶしぶと主人のそばへ行く。
「……あの、
「
穏やかな目できっぱりと否定するが、ウツギは実にやることがなく、ぼけっと立っているだけである。
(まただ)
ぐっと目を閉じ、こらえた。
また、まぶたが重くなってきたのである。ウツギは
この香りの所為なのか。それとも別に理由があるのか。
だんだんに周囲の声が混ざって風の唸る音のように聞こえ始めた。汗が全身から吹き出して、ウツギはとうとう膝をついていた。
「
とたとたと女房のひとりが小さな鈴を手に部屋へ飛び込んだ。それは
「だ、大丈夫なのですか。何やら家人が……」
脂を蓄えた顔のうえで目を真ん丸にして
「ありがとう、
と返した。
「え。あの、よろしいので?」
「ああ、大丈夫。
しゃらん、しゃらん。
清らかな鈴の
しゃらん、しゃらん。
鈴の音は香る空気のなかへ吸い込まれてゆき、
そのとき、あの墨汁のような独特な香りがしたような気がした。何の香りだろう――そうと頭の縁で思うも間もなく、ウツギはいよいよ目も開けていられなくなった。すべての感覚がふっとかき消え、がくりとそのまま倒れ込んだ。
ウツギは意識だけが呼び戻された。
暗くて何も見えず、何も聞こえない。いったいどうしたのだろうと息をしようとしたその瞬間、全身に
――いたい、くるしい。
ウツギは声にならない悲鳴を上げた。
その激しさは肺や臓腑にまで至るようで、息もうまくできない。骨はきしみ、頭蓋が割れそうだ。
それはまるで
(なんだ?)
だが次の瞬間、以前にはない光景が開けた。
自分は何かの狭間にひとり佇んでいるのである。
片側には
もう片側はあらゆる色や形の混沌として、輪郭のない世界だった。それらは息づくように脈打ち、うずまいて、こちらへ触れて霧散してまた戻る。その霧散したものの一部は溶けて消えているようにも思えた。
あれらの、溶けて消えたものはどこへ行くのだろう。手を伸ばそうとしたが、自分の手がどこにあるのかわからない。足も感覚がなく、自分が在るという意識だけがそこにあるようだった。
(あれ)
俺は、
しゃらん、しゃらん。
しるべの鈴が鳴る。
こちらへ
(向かわなければ)
そうしないと。そうしなければ、
(だれ?)
だがその瞬間、一気に喉奥からせり上がる感覚がして、大きく咳き込んでいた。
「げほげほげほ!」
それは現実に咳き込んでいた。
木の床についた自分の手や、床の上をしたたる汗が見える。息を詰まらせる花の香りも、周囲にいる屋敷の者たちの声も元通りになっていた。
「おや、自分で
「
気がつけば主人の足に寄りかかっていたらしい。とろんと垂れた目がこちらを見下ろしている。その目は穏やかに細められて、
「よかったよかった。私には
「あの?」
何を言っているのかわからない。
だが、すぐ傍らで身じろぐような衣ずれの音がしてはっとした。その音がした方を見れば、ぐったりしていた皇后が頬に赤みを呼び戻して、まなこを開いている。
その丸顔の女人はふくふくとした頬に手を添えて、淑やかな声をぽつりと零した。
「わたくしは……また眠ってしまっていたのですか?」
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