魂離れ 弍


 その晩、史紀ふみのり随身ずいじんはひと晩空けるよろしくと言って出かけていった。

 出かける直前にもあれをするなこれをするなと口を酸っぱくして主人を叱りつけていたが、どうやら急ぎの用事らしく、名残惜しげに倉を後にした。

 

 なぜ後にしたのがくらなのかというと、またしても帰るのを面倒がった史紀ふみのりが倉で夜を明かすと言ったからだ。けっきょくまた、主人の屋敷を見る機会を失ったわけだが、ウツギからすればやることは変わらない。おとなしく倉のなかで、忠行ただゆきのかわりに主人のそばに付き従うのみだ。

 

「よし。忠行ただゆきもいないことだし、出掛けようか」

 

 さっそくの異例の事態にウツギは顔をしかめる。

「あの……。出掛けるってどこへですか」

「町だよ」

いちですか。もう買うものもないと思うのですが」

「いいや。実光さねみつ殿の屋敷へ行く」

 その言葉の意味をはかりかね、「え?」としか返せない。なぜ唐突に、昼間に追い返した公達きんだちの屋敷を訪ねようなどと言い出すのか。

 だが史紀ふみのりは積んでおいた着替えをのそのそと漁りはじめ、衣を深縹ふかははだのものに変えて烏帽子えぼしをきちんと被り直す。加えていつの間に買ってきていたのか丈の短い藍地の水干を取り出してウツギへ投げて寄越した。

「ほら、これに着替えて」

「あの。忠行ただゆきさまには伝えてあるんですか?」

「私が主人だよ」

 きっぱりと言い切り、男はとろんとした目をにっこりと細めている。主人は自分なのだから、第一に優先されるのは彼の言葉である。あれこれ考えず、従いなさい。――そう、暗に伝えているのである。

「……そうおっしゃるなら、従いますけど」

 しぶしぶ、渡された衣を受け取った。

 

 岬をくだると、空はいつもより高かった。

 

 日は西の地平へ隠れ始め、東は白砂はくしゃをまぶした紺藍こんあいの帳で覆われている。

 大通りは町人が行き交っていた。彼らは今から夕餉ゆうげを囲うのだろう。なかには、さっさと夕餉ゆうげをすませ宿直とのいのしたくをしてまた出掛ける者もあるだろう。

 

 ウツギは史紀ふみのりの後を追うように、環栄かんえい中央の神対かむかい大路おおじを過ぎ、東へ横に折れてずっと進み、東端から二番目の通り、染衣そむころも小路しょうじという名の通りへ出ていた。

 

 この主人は貴族だと言うのに徒歩で歩くのを好むため、自分からはめったに牛車ぎっしゃに乗らない。健脚でもあるので、もっとも離れている北の山脈ぞいまで散歩してしまうこともある。

 なので、ふらりと消えられてしまうと、探す範囲が広くて家人かじんたちは苦労する。ゆいいつの救いは、熊のようにおおきいので、「熊は見ませんでしたか?」でたいてい通じるということだ。ある時は熊がひとりと一頭だったことがある、と忠行ただゆきがげんなりして語ったが、今のところウツギはひとりしか迎えに行ったことがない。

 

「さて、ここだよ」

 

 と立ち止まる主人の前には、見ごとな寝殿造りの屋敷がある。――大納言、錦瀬にしきぜ実光さねみつの邸宅だ。

「ようこそいらっしゃいました。主人も待ちかねておりまする」

 待ち構えていたように門から現れた家人かじんはすぐにふたりを中へいざなった。

 

 中はいっそう華やかである。下ろされた御簾みすの向こうかは女たちの笑い声が奏でられ、ちらりと覗くのは色鮮やかな重ねの衣である。意識を庭へ転ずれば、整えられた松や梅が点々と植えられ、その真中には小さな橋の渡された大きな池がある。その水面みなもは凪いで、すっかり夜の装いをした空を映し出している。

 

「お待ちしておりましたぞ、史紀ふみのりさま」

 聞き覚えのある声での前方へ視線を戻せば、透渡殿すけわたどのの渡り切る手前に恰幅かっぷくのよい公達きんだちの姿がある。

「こんばんは、実光さねみつ殿。今日は穏やかな夜だね」

「まったく貴方という御方は人が悪いですなあ」

 そう返して、ひらりと一枚の紙を持ち上げて見せる。

 帰りぎわに史紀ふみのりが手渡した、への字の楽書らくしょである。その絵のふちには目を凝らさねばけっして気づかぬであろう、「今晩、訪ねる」という豆のような文字がある。

「あと少しで見のがしておりましたぞ」 

「でもちゃんと見つけてくれたじゃないか」

 

 ハハハと互いに笑い合う男たちに、ウツギはただ沈黙するしかなかった。この男は随身の目を欺くためだけにひと芝居打っていたのだ。

 

 史紀ふみのりはなおもとろんとした目を細め、軽く実光さねみつの肩を叩いて言った。

「それで。皇后陛下はいらしているかい」

「むろんでございます。急ぎ手配し、呼び寄せております」

雁舞かりまいには?」

「伏せてございます」

 そうかそうか、と満足そうにうなずく。多くを主人と過ごすとは言え、うっかり家族から漏れないとも限らない。出かける直前にも「間違っても気分は変えるな」と再度指摘されたばかりなので、知られれば半日正座も夢ではない。

 

 ふと実光さねみつがうしろのウツギへ目を留めた。

「後ろの家人はよいので?」

「ああ、この子はいいんだ。この子は言いつけを破らないから」

「ほお。なかなか信頼を寄せているのですなあ」

 たったの七日で得られるとは何と軽い信頼だろうか、などという言葉は呑み込んで、ウツギは実光へ軽く一礼した。余計なことを言ってはならない。

 

 ふたりは西の対にしのたいへ導かれた。何やら女房たちが騒がしく、屋敷の主人である実光さねみつがいかがしたと問いただす。

徳子さとこさまがまたお倒れになりまして」

 とひとりが応じると、実光さねみつは眉を寄せた。昼間に言っていた「体調が優れない」というものであろう。

実光さねみつ殿。いただいても?」

 割って入るように声を掛ける史紀ふみのりに、その恰幅のよい男はかぶりを縦に振る。 

 青ざめる女房たちを退かせ、皇后が伏せているらしい部屋の妻戸を開くと、室内に立ち籠める空薫物そらだきものの香りがふわりと流れてきた。

 

(なんだ……?)

 

 ウツギは顔をしかめる。

 それは溢れんばかりの香りの洪水だ。史紀ふみのりはめったに香を焚かないので慣れぬが、きっと高貴な屋敷ではよくあることなのだろう。

 それだけならばきっと、息が詰まるな、くらいで留まったであろう。――わずかに目眩がしたのである。

「大丈夫かい、ウツギ」

「あ、ええと……」

「慣れない香に酔ったかな?」

 足元がおぼつかないのに、向こうも気がついたらしい。咄嗟に少年の肩を支えてつんのめるのを阻んだ。

 酔ったのかは定かでない。

 けれども嗅いでいるうちに感覚が遠のき、立っているのか歩いているのかもだんだんわからなくなって来たのである。まぶたも異様に重く、開けていられない。

 

すみの……香り?)

 

 花の香りのなかに、った墨を水でといたような、そんな独特の香りがした。それはまことにほんの仄かで、気のせいかもしれぬし、じっさいに書き物していた残り香かもしれない。

 小さく息を吐いて自分の両頬を張ると、ウツギはまっすぐと前を見据えた。

「大丈夫です」

 そうかい、と応じる主人とともに部屋へ踏み込んだ。

 

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