魂離れ 弍
その晩、
出かける直前にもあれをするなこれをするなと口を酸っぱくして主人を叱りつけていたが、どうやら急ぎの用事らしく、名残惜しげに倉を後にした。
なぜ後にしたのが
「よし。
さっそくの異例の事態にウツギは顔をしかめる。
「あの……。出掛けるってどこへですか」
「町だよ」
「
「いいや。
その言葉の意味をはかりかね、「え?」としか返せない。なぜ唐突に、昼間に追い返した
だが
「ほら、これに着替えて」
「あの。
「私が主人だよ」
きっぱりと言い切り、男はとろんとした目をにっこりと細めている。主人は自分なのだから、第一に優先されるのは彼の言葉である。あれこれ考えず、従いなさい。――そう、暗に伝えているのである。
「……そうおっしゃるなら、従いますけど」
しぶしぶ、渡された衣を受け取った。
岬をくだると、空はいつもより高かった。
日は西の地平へ隠れ始め、東は
大通りは町人が行き交っていた。彼らは今から
ウツギは
この主人は貴族だと言うのに徒歩で歩くのを好むため、自分からはめったに
なので、ふらりと消えられてしまうと、探す範囲が広くて
「さて、ここだよ」
と立ち止まる主人の前には、見ごとな寝殿造りの屋敷がある。――大納言、
「ようこそいらっしゃいました。主人も待ちかねておりまする」
待ち構えていたように門から現れた
中はいっそう華やかである。下ろされた
「お待ちしておりましたぞ、
聞き覚えのある声での前方へ視線を戻せば、
「こんばんは、
「まったく貴方という御方は人が悪いですなあ」
そう返して、ひらりと一枚の紙を持ち上げて見せる。
帰りぎわに
「あと少しで見のがしておりましたぞ」
「でもちゃんと見つけてくれたじゃないか」
ハハハと互いに笑い合う男たちに、ウツギはただ沈黙するしかなかった。この男は随身の目を欺くためだけにひと芝居打っていたのだ。
「それで。皇后陛下はいらしているかい」
「むろんでございます。急ぎ手配し、呼び寄せております」
「
「伏せてございます」
そうかそうか、と満足そうにうなずく。多くを主人と過ごすとは言え、うっかり家族から漏れないとも限らない。出かける直前にも「間違っても気分は変えるな」と再度指摘されたばかりなので、知られれば半日正座も夢ではない。
ふと
「後ろの家人はよいので?」
「ああ、この子はいいんだ。この子は
「ほお。なかなか信頼を寄せているのですなあ」
たったの七日で得られるとは何と軽い信頼だろうか、などという言葉は呑み込んで、ウツギは実光へ軽く一礼した。余計なことを言ってはならない。
ふたりは
「
とひとりが応じると、
「
割って入るように声を掛ける
青ざめる女房たちを退かせ、皇后が伏せているらしい部屋の妻戸を開くと、室内に立ち籠める
(なんだ……?)
ウツギは顔をしかめる。
それは溢れんばかりの香りの洪水だ。
それだけならばきっと、息が詰まるな、くらいで留まったであろう。――わずかに目眩がしたのである。
「大丈夫かい、ウツギ」
「あ、ええと……」
「慣れない香に酔ったかな?」
足元がおぼつかないのに、向こうも気がついたらしい。咄嗟に少年の肩を支えてつんのめるのを阻んだ。
酔ったのかは定かでない。
けれども嗅いでいるうちに感覚が遠のき、立っているのか歩いているのかもだんだんわからなくなって来たのである。まぶたも異様に重く、開けていられない。
(
花の香りのなかに、
小さく息を吐いて自分の両頬を張ると、ウツギはまっすぐと前を見据えた。
「大丈夫です」
そうかい、と応じる主人とともに部屋へ踏み込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます