魂離れ 肆


「ああ、よかった!また目を覚まされなければどうしようかと……」

 飛び込むように走り寄り、皇后の手を取って叫んだのは女房の信子のぶこである。よほど喜ばしく思ったのか、涙を浮かべて鼻をすすっている。

「それで、徳子さとこはどうだったのですか」

 同じくほっと胸をなでおろしていた実光さねみつが問うた。

 

「いわゆる魂離たまはなれ、だね」

 

 ――魂離たまはなれ。

 その言葉に、その場にあった者たちはみな、眉をひそめた。

「なんだって?」

「大きな病や怪我を患われたこともないのに……」

「小さなころから健康そのものでしたよね」

 口々にそう呟く彼らのなかで、ゆいいつウツギだけが理解できず首をかしげていた。そんなウツギの腕を引いて立たせると、いつもののんびりとした声で史紀ふみのりは言った。

魂離たまはなれ、ていうのは言葉の通り、魂と器が離れてしまうことだよ」

 

 きょうの民は魂と性質をつかさどる己霊之御神きだまのかみたちと、器と物質をつかさどる殻郭之御神かくのかみたちが偶発的に触れて生まれたとされる存在である。つまりは魂と器はもともとは別個で、生まれたときに結びつくものなのである。

 通常であればこの結びつきが緩んだりほころんだりすることはない。だが器を大きく損傷するような怪我や病をきっかけにその結びつきが不安定になることがある。

  

「身籠って不安定になることで、魂と器の繋がりが弱くなる、ということもあるよ。もちろん、子を生んだ直後でもね」

 と続けると、史紀ふみのり御帳台みちょうだいにある皇后へ視線を戻す。 

「でも今回のは少し酷いから……他の要因も考えたほうがいいね」

「他の要因とは」

 疑問を口にする実光さねみつに、「さあ、なんだろうね」と史紀ふみのりは何も答えなかった。あえて伏せているのか、それともまことに思い当たる節がないのか。だが答える気のないこの男を問い質したところで、何も返ってこないことを彼らは知っている。

 

 つと、実光さねみつはウツギへ目を向けた。

「……それより、史紀さまのご家人はどうしたので?」

 それは他の女房たちも思っていた疑問であろう。史紀ふみのりはううむと考えて、

「この子は、体質でね」

「え、どんな体質なんですか」

 自分のことなので、つい問い返してしまう。

「おや、無自覚なのかい。君はひどく魂と器の結びつきが緩いだろう」

「自覚することってあるんですか」

「ないかもね」

 ないんかい、と内心で思いながらも言葉を呑み込んだ。代わりに、もうひとつの疑問を口にした。

「この部屋に来た途端に気が遠くなったのも、その体質の所為なんですかね」

「そうなる要因がこの部屋にあった、ということだろうね」

「もしかして俺、探知機として連れてこられたんですか」

「まあそうだね」

 そう言うことは先に言え、となぜか実光さねみつや女房たちのほうが言いたげである。彼らは、客人の連れが卒倒して何事だとひやひやさせられたである。

 

 何か言いたげな者たちに史紀ふみのりはからからと笑って、

「ウツギ。この部屋で奇妙に感じたことはないかい?」

「そうは言われましても……。こういうお屋敷はこちらが初めてですし」

 初めてなのは「おそらく」である。ウツギには海で女の死体を見る前までの記憶がない。

史紀ふみのりさまはいつもくらに籠もっていらっしゃいますし。むしろ違いしか見えません」

「それは盲点だったなあ」

 呑気に頬をかく男に、ウツギは沈黙で返した。

 

 すると、ようやく落ち着いたらしい女房の信子のぶこが眉をひそめて問うた。

「奇妙な点とは……どういうことですか。皇后陛下のいらっしゃる居室に、何者かが良からぬことをしたと申すのですか」

「そうだね」

 史紀ふみのりはあっさりと認めるが、皇后に仕える彼女からすれば由々しき事態である。唇をわななかせて叫んだ。

「なんということ!今すぐにでも側仕えの者たちをあらため、ひっ捕らえなければ」

「それは難しいと思うよ、信子のぶこ殿」

「どういう意味ですか」

 熊のように大きな男をきっと睨みつける信子のぶこの目には怒りが籠められている。

「おそらく、通常では見抜けない相手だからだよ」

「呪詛でも掛けられていると申すのですか」

「そうだね。それに近しい何かである可能性がある」

 だから諦めろと言うのか。何もせず皇后陛下が苦しむのを見届けるなど、皇后付きとしてあってはならないことだ――信子のぶこは強い語調で言い、詰め寄った。

「もしや……宵結よいむすびの守部もりべもその見抜けない者とやらの仕業で……?」

 唐突にぽつりと言葉を落としたのは実光さねみつである。あまりの唐突さに史紀ふみのりがとろんとした目を瞬かせて「え?」と返してしまった。

宵結よいむすびの守部もりべがそう安々と殺められるはずがないじゃあありませんか。それに時期!徳子さとこが倒れるようになった時期と宵結よいむすびの守部もりべがご遺体となって現れた時期が奇妙なほどに近いではありませんか」

 納得したようにうんうんと頷き、さらに加えて、きっと雁舞かりまいの雇った暗殺者によるものに違いないなどとひとり結論にまで至っている。頭から尻まですべてが無理矢理に結びつけた憶測である。

 

 ふむ、そうだあなと困り顔をして史紀ふみのりは自分の顎に手をやった。

「私はあまり大っぴらに動けないからなあ」

 ならばどうするのか。とろんとした目をウツギへ向け直し、彼はゆっくりと続けた。

「よし。ウツギ、君が私の代わりに動きなさい」

「はあ。…………はあ?」

 このくだり、既視感がある。

 ウツギは頭巾ずきんの下で大きく真朱まそほのまなこを見開き、瞬いた。この主人は突拍子もない提案がとにかく多すぎる。

「あの、代わりって何をするんですか」

「まずは貴族のお屋敷を知ってもらって、違和感がないか比べてもらおうかな」

「違和感ってたとえば」

 それはわからない、とあっさりと白状する主人へ呆気に取られる。史紀ふみのりいわく、魂と器の結びつきが弱いからこそ感じる何かが「きっと」あるはずなのだとか。なんとも不明瞭な確信である。

「どちらにせよ忠行ただゆきの目もあるし、私は動き回れないから、君の勘に頼るしかない」

「その忠行ただゆきさまの目を盗んでまで皇后さまの手助けをするんですか」

「まあね。面白そうだし」

 その面白そうという軽い理由で家人を振り回すのか、と実光さねみつたちがひたいに汗を伝わらせたが、史紀ふみのりは変わらずのんびりとした笑みをたたえている。これは何を言おうとウツギを振り回すつもりなのである。

 

 小さく息をつくと、ウツギは観念したように問いを続けた。

「それで。貴族のお屋敷を知るとおっしゃいますが、それは史紀ふみのりさまのお屋敷と比べるということですか」

「いいや。私の屋敷は落ちぶれ貴族みたいになってしまっているからあまり参考にならないんだ」

「……めったにお帰りにならないですしね」

 ウツギが史紀ふみのりのもとで暮らしてから一度も見たことがない。

「ひとりで暮らすには広すぎるからねえ。何も置いていないし」

 それはくらへ運んでしまったからでは、とウツギが小さくこぼすと、それもそうだと史紀ふみのりは笑い、続けた。

「とにかく。ウツギ、これは決まりだ。さっそく明日から飛び回ってもらおうか」

 

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