雁舞の家 壱


 それで今度はここかよ、とウツギは思わず小さく呟いた。

 

 翌日の昼も茹だる暑さの快晴であった。

 ジリジリと町内を木霊して反響する蝉の声が実にやかましい。照りつける陽光はまぶしく、それでいて熱い。長い袖の下や頭巾ずきんの奥は汗が大洪水を起こし、括袴くくりばかまからひょろりと生えた脚はじりじりと焼き付けられている。

 

「ごめんください、雁舞かりまい重行しげゆきさまはご在宅ですか」

 

 門前で声を張って訪問を報せると、家人かじんと思われる無表情な男が現れた。

「なんだ、珍妙な格好をした小童こわっぱ悪戯いたずらならさっさと帰れ」

初氷ういごおり史紀ふみのりさまのつかいでまいりました」

史紀ふみのりさまの?あの御方が遣いなぞ寄越す理由がわからん」

 まったくもってその通りである。

 そもそもまともにふみの返信すらしないのがあの男である。くわえて普段から倉に籠もっていて、出掛けるとしてもいちか海なので、他者との交流は皆無に等しい。

 

「あの、おふみも預かっておりまして」

 ふところから一枚のふみを取り出し、手渡す。

 そこにはあの熊のような見た目のわりに流麗で繊細な史紀ふみのりの文字で、宛先である重行しげゆきの名と、送り主である史紀ふみのりの名が記されている。

 その文字に覚えがあるらしく、その無表情な家人は「確かに、そのようだが」とわずかに眉を寄せた。


「おい。何事だ」

 家人かじんの背後から、三人目の男の声が鳴らされた。聞き覚えのある声だと思っていたら、険しい顔をした、小柄で二十半ばの公達きんだちが姿を現した。まさにウツギの訪ね人である頭のとうの中将ちゅうじょう雁舞かりまい重行しげゆきだ。

 出仕しゅっし先から戻ったばかりなのかまだ二藍ふたあい直衣のうし姿で、精悍な顔をしかめてこちらを見つめ返した。

「なんだウツか。史紀ふみのりさまのところの家人が何用だ」

 あのたった一回の訪問のどこかで名を覚えたらしい。一文字違うが。ウツギはへこりと小さくこうべを垂れ、ふたたび用件を伝えた。

史紀ふみのりさまのつかいでまいりました。直接お渡ししたく」

「構わん、通してやれ」

 あっさりと認めて背を向ける屋敷の主人に、あの無表情な家人も呆気に取られて「え?」と聞き返している。

「あんな顔を隠した者、怪しくて通せません」

「あれは火傷痕が醜くて隠しているらしいぞ」

「そんな馬鹿な。婚前の娘でもあるまいし……」

 いいから通してやれと冷たく言い放つ主人に、家人は渋々と従う様子でウツギを通した。どこも仕える者は主人に振り回されて大変だ。

 

 邸内の造りは多少の違いがあれど、広いことには違いない。透渡殿すけわたどのを渡る途中で見かけた壺庭つぼにわや庭園は実光さねみつの屋敷のそれに比べると花をつける草木が少ないぶん質素に見える。

「急ぎの仕事をせねばならん。調べ物をしながらで構わんか」

 正殿前で振り返ることなく重行しげゆきがそう問うので、「はい、むろんです」と答えた。

 

(うわ)

 

 母屋もやへ通されてすぐ、呆気に取られた。

 想像以上に散らかっている。史紀ふみのりもかなり散らかすが、それを超えるか超えないかくらいには荒れている。

 この屋敷の主人にとって不要とみなされたのか、屏風びょうぶのたぐいはない。すべての家具は飾り気のなく、しとねの横に置かれた文机ふづくえは簡素。一番大きな家具である御帳台みちょうだいは書類と仕事着が放り捨ててあってとても寝れる状態ではない。

 

(これ、参考にならないんじゃあ)

 

 みやびやかで家人たちの手の行き届いた貴族らしい実光さねみつの屋敷から真反対とも言える、無骨とすら思える質素さがあり、なのに整頓されておらず雑然としている。部屋というより倉庫だ。

 むろんこの板の間も、実光さねみつの屋敷同様に空薫物からたきものの香りに包まれている。それは貴族らしいところといえるだろう。なのだが、そこかしこに積まれた書物のためか、それ以上に紙と墨の匂いがして風流のかけらもない。

「そのへんに好きに座れ」

 そのへん、の範囲が広すぎてどこへ座るのがよいのか判断つかない。というより足の踏み場がない。しばらくうろうろして、見つけ出した隙間にぽつんと正座した。

「なぜそこに座る」

「ここしか空いていなかったので」

退ければいいだろうが」

「屋敷の者でもない者が、勝手に触れるわけにもいきませんので」

 きっぱりと言い切る少年に、男は顔を引きつらせた。

忠行ただゆき兄上の躾か?よく行き届いたことだ」

 対してウツギはとくに何も否定も肯定もしない。変わらず背すじを伸ばして座している。

 

「……それで。史紀ふみのりさまに何を言われて来た」

「このふみをお渡しするように、と」

 差し出したのは先ほど家人に見せたものとは別のものである。

 その文を受け取り、ぞんざいな手つきで開いて目を通す。そこそこ長い文章だったのか少し時間を要し、しばらくしてようやく文をぐしゃりと畳んで閉じた。

「しばしここで待て」

「はあ」

 重行しげゆきはすっと立ち上がると、塗籠ぬりごめへ引っ込んでしまった。

 

 なかなか戻ってこず、ぽつりと残されたウツギは少しだけきょろりと周囲を見渡した。あまりに違いが多すぎて比べる対象にならないが、それでも本来の目的は果たせるだけ果たせねばならない。

(ここじゃ何もわからないな)

 音を立てぬようにして立ち、わずかな足場を歩いてみることにした。

 不思議と実光さねみつの屋敷であった、気が遠くなる感覚はない。つまりは、こうの匂いで酔ったわけでもなかったのだ。

 

 おっと、と声に出しかけて押し留める。

 何かを蹴飛ばしたのだ。そっと拾い上げてみれば、それは蝶とも鳥ともとれる、不思議な形をした朱色の組紐飾りである。ちょうどあの皇后が首から下げていたものによく似ているが、こちらはより紐が古びているように見受けられる。

 いったい何に使うものなのだろうか。何かを示すものなのだろうか。

 ウツギは屈んで、その組紐飾りを元あった場所へ戻そうとした。勝手に触るのはいけないことだ、と忠行ただゆきには何度も言い聞かされている。

 

 だがふと、一枚のふみに目が留まり、手を止めた。

 

宵結よいむすびの守部もりべ。そう記されていたのである。そっと拾い上げてみれば、やはりその文字は見間違えではない。

(この筆跡、どこかで)

 何処かで見たのだが、思い出せない。普段から主人の代わりに何枚も読んでいるから、そのいずれかかもしれない。

 そのまま読み進めそうになってすぐ、我に返ってウツギはその文を閉じた。

(あっぶな……)

 ついうっかり中身まで見そうになった。余計なことはしない。その文も組紐飾り同様に元の場所へ戻しておき、自分も元いた場所に座った。

 ちょうどその時、重行しげゆき塗籠ぬりごめから出てきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る