中日の葬送 肆


 その夜は、気味が悪いほどに静かな夜だった。

 

 厚い鈍色の雲が月や白砂はくしゃとばりを覆うので、いっそう暗くしている。ほう、ほう、と鳴くふくろうの声は哭き声なきごえのようにさみしげで、ひゅううと唸る風音かざおとは悲鳴のよう。

 

 清涼殿せいりょうでん御帳台みちょうだいで、今上帝きんじょうてい玲仁あきひとは眠っていた。

 皇后の一件で、今日は妃を殿でんに呼び寄せていない。今も苦しめられているかもしれない徳子さとこを思うと、とても女を抱く気分にはなれないのだ。

 

(彼女は無事であろうか)

 

 彼女はけっして意中の娘でも、気に入りの娘でもない。そもそも、好みの女人でないのだ。とお以上も年齢としが離れているというのもあるが、どうにもおっとりとしている女人よりも溌剌とした女人のほうに惹かれるところがあるのだ。きっと自分が穏やかな性格なので、真反対な女性に心惹かれるのだろう。

 だからと言って、さらわれ怯えているに違いない妃のことを「どうでもよい」と見放せないのだ。気分としては妹を案じる気分に等しいのだろうか。彼女がなかなか身籠らなかったのも、どうにも妹に手出しするような気分になれず、夜に呼んでも楽しく会話しておしまい、にしがちだったのである。

 錦瀬にきしぜの関白はその無意味な優しさにじれったかを感じていたようだが――玲仁あきひとは悶々と巡る思考に顔を歪めた。

 

(眠れん)

 

 むくりと起き上がった。

 明日も早くからやることが目白押しなので、しっかり眠るに越したことはない。だが、あまりにそわそわして落ち着かないのだ。水でも飲もう、と寝台から降り、暗い室内を歩いた。

 するとカタリ、とわずかに音が鳴った。

 その音で振り返り、息を呑んだ。「何者だ?」と問うも返事はない。そもそも側仕えならば必ず、ひと声掛けるはずだ。

「だ、誰かおらぬか」

 声を大きくして、警備をしているはずの近衛を呼ぶ。だが妙なことに、近衛が誰も駆けつけない。ゆっくりと後ろへさがり、護身用の懐剣かいけんを手繰り寄せようとした。

 

「――!」

 

 だしぬけに、口を手で覆われた。

 いつの間にか背後に人影がある。そもそも玲仁あきひとは武芸が苦手で気配を読むのも得意ではないので、いとも容易に背後からの忍び寄りを許してしまったのだろう。

 一心に抵抗し、なんとか声を上げようとする。だが相手の力は強く、振り払うことも叶わない。取り押さえられたまま寝台へ押し付けられると、すらりと刀を抜く音が室内に響いた。

 殺される。死を覚悟してまなこを固く閉ざしたその瞬間。

 

「そこまで。その手を離しなさい」

 

 バタン、と妻戸が蹴破られる音とともに、聞き覚えのある男の声が鳴り響いた。

 その声で下手人は動揺したのか、玲仁あきひとの口を抑える手が緩んだ。その隙を逃さず、声を上げた。

史紀ふみのり!」

「いやあ、実に無様な格好だね。少しは護身のすべでも真面目に学んだらどうだい?」

 今にも殺されそうなこの状況に、その飛び込んできた男、史紀ふみのりはからからと笑う。

「お前と同じにするな。これでも毎日稽古を積んでおる」

「それでそのざまですか。きょうの頂点をいただいているというのに、みっともない」

 

 迷うことなくすたすたとこちらへ歩き寄る史紀ふみのりに、下手人は怯えたように手を震わせている。

「な、なぜこちらに……」

 口元を布で覆っているのか、その声は曇っている。ゆえにその声主が誰なのか、声だけではわからない。明かりのない部屋の中ではその姿を見て取ることも叶わない。だが、史紀ふみのりは確信していた。

「ん?私が一度でも素直に従ったことがあったかな」

 途中でぴたりと足を止め、史紀ふみのりは笑っていない目でその下手人を見据える。

 

「ねえ、忠行ただゆき?」

 

 その名に、玲仁あきひとも驚いたように目を見開いた。

 あの鈍色の雲がわずかに切れたのだろうか。開け放たれた戸から青白い幽光ゆうこうがさしこんで、その下手人の男の顔を映し出す。――それは史紀ふみのりが呼んだとおり、彼の随身ずいじん忠行ただゆきであった。

「……いつから、お気づきに」

「はじめから、と言いたいけど、確信したのは実光さねみつ殿のお屋敷で皇后にお会いしたときかな」

「そんなにお早くから。さすがでございますね」

 簡単なことだよ、と史紀ふみのりは笑う。

信子のぶこ殿は我が父の乳母うばだろう。名だけでなく術で無理矢理顔を変えていたからわかりづらいが」

 魂呼たまよびの術を地ノ泉ちのもとのほうへ応用すれば、器の形を「歪める」ことは可能だ。ひどくやせ細っていたのは、その術の影響で身体が弱っていたからだろう。

「でも、私が見間違えるはずがない。あの胸にある飾り。あれは父の形見だ」

 最近の神官がすることは減ったが、昔の神官は卜師ものうらの地位へあがると渡鳥わたりどりを模した組紐飾りをすることがあった。

「私の父、初氷ういごおり春紀はるのりは武にけた男であったが、神官の資格も有していた。よくあの組紐飾りをしていたのを覚えている」

 けれども死したあと、荷の整理をしてもその紐飾りは無くなっていた。

「それで、忠行ただゆき。お前の目的はなんだい?」

 しんとした空気のなか、沈黙がおとされた。いまだにその懐剣かいけん玲仁あきひとの首すじへ突きつけられている。ゆえに、これ以上は近寄れなかった。史紀ふみのりはいつもは穏やかなとろんとしたまなこに鈍い光を灯して、じっと随身の男を見据えた。

「……のためです」

 ぽたりとこぼされた声は掠れて、聞こえない。忠行ただゆきは悔しげに唇を噛み締めると、今度ははっきりと言い放った。

 

「すべては貴方のためにございます、史紀ふみのりさま。いえ――「史仁あやひと」さま」

 

 その発せられた言葉に、史紀ふみのりが表情を変えることはなかった。

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