思いを継ぐ者 弐


 その日は、雨の打ち付ける薄暗い夏の日。皇后の懐妊に安堵した側近たちが抱き合ったその日の夜だった。

 すでに忠行ただゆきたちは侍従から別の地位を与えられ、各々与えられた役職に就いていた。つまり、蔵人くろうどとうである実光さねみつ以外は本来ここに呼ばれるはずがないのだ。

 ではなぜここにあるのか。

 彼らが寛子をよく知る人物で、今上帝が気を許しているから、という理由だけでこの緊迫感溢れる清涼殿へ呼び出されたのである。とばっちりもいいところだ。

 

「は……?陛下。もう一度おっしゃってください」

 

 問い詰めるのは、関白である実光さねみつの祖父君だ。他の側付きたちも呆気に取られた表情で、うつむく今上きんじょう陛下を見つめていた。

 寛子ひろこ姉上を身籠しまった。

 そう、もう一度繰り返す陛下に、忠行ただゆきも耳を疑う。

「ちょ、陛下。いくら貴方さまがお姉さま至上主義でも、やっていいことと悪いことがございます。妃さまがたを蔑ろにして、実の姉気味と交わるなんて……」

 前代未聞だ、と側近たちは頭を抱える。それに対し、その姉君本人だけはけろりとしていた。

「妊娠というやつを経験してみたかったのじゃ」

「なに巫山戯たことを……!お立場をお考え下さい。経験なさりたいならどなたか殿方と手順を踏んでですね……」

「知らん。婚姻はするつもりはない。面倒じゃ」

 あっさりと跳ねのける寛子ひろこに、摂政殿も言葉を失ってしまっている。即位してから長らく侍従をしていた忠行ただゆきはおそるおそるという風に訊ねた掛けた。

「あの、寛子ひろこさま。子を産みたいとして、そのあとどうするおつもりだったのです」

「産んだら用事はない。海にでも還せばよかろう」

 この人でなし!などと今さらである。それよりも、この姉弟の夜を許してしまった寛子ひろこの女房や陛下の側近が問題である。この女の奇行は今に始まったことでもないし、そのことを陛下がよしとしてしまっているのも今に始まったことではない。

 

「本当にお前たち、記憶にないんだね」

 忠行ただゆきがちらりと横で震える若い侍従たちを見れば、青い顔でこくこくと頷く。寛子ひろこの女房も同様で、蒼白顔で「申し訳ございません」と何度もこぼしている。彼らはその「事があった」夜、現場にいたはずの者たちなのだ。彼らはいちように、「気が付いたら朝だった」と言う。

「おおかた、寛子ひろこさまの術だろう。結師むすびならば可能だ」

「……春紀はるのり

「しかし、妊娠ね。そこに興味があったとは盲点だった」

 さすがの春紀はるのりも頭痛がするらしい。忠行ただゆきのかたわらで苦笑いをしながらも蟀谷こめかみをおさえていた。

「逆に、他のことだったらありえたのか」

腑分ふわけとか、毒物の実験とかならしそうじゃないか?」

「……ありうる」

 ここで否定できないのがおそろしいところだが、それが現実なのである。

 ふいに、春紀はるのりは処罰におびえる者たちを一瞥した。その顔にはいつもの笑みがない。そのことを不思議に思い、忠行ただゆきは声を掛けようとしたが、先に春紀はるのりが「あの」と声を上げた。

 

「肚の子を、別の者との子としてはいかがでしょう。ならば、問題ないでしょう」

 

 帝の子、となると姉弟の間の子というだけでなく、とにかく扱いに困る。なまじ血筋が良すぎてしまうのだ。今の皇后は錦瀬にしきぜの姫。女御は他の従八家の姫たち。もっとも尊いとされる神鏡かがみの姫ではない。神鏡かがみの女が妾では、他の妃たちもどう接すればよいか困惑するであろう。しかも、寛子ひろこはその優秀さで密かに人気のある。勢力争いが起きればかならず問題になる。

 ならば別の男との間の子、としてしまえばよい。まつりごとに興味のない寛子ひろこのことだ。別にこだわることはないだろう。――が、ここにも問題がある。

神鏡かがみの女をめとれるだけの地位と血筋の男がわざわざ面倒ごとを背負ってくれるはずなかろう」

 皇女の多くは独身で生涯を終える。それはなぜか。境において、ことに魂の性質を決めるとされる「血」は重要視される。ゆえにもっとも尊い血筋である神鏡かがみの女の相手には事細かに決まりがあり、該当する男が少ない。

神鏡かがみには男が少ないし、雁舞かりまい錦瀬にしきぜの本家は朝臣あそんの地位のある家系だが……正妻を持たぬ男で、従三位以上の男がそもそもいない。いてもはだしで逃げ出すに決まっている」

 きっぱりと言い放つ忠行ただゆきの言葉に、うんうんと他の官人かんにんたちもうなずく。寛子ひろこは人気はあるのだが、嫁にはしたくないという手合いのものなのだ。

 

「ならば、私がその面倒ごとを受けよう」

 

 あっさりと言う春紀はるのりに、忠行ただゆきは唖然とする。

「お前、何を言っているのかわかっているのか?」

 初氷ういごおりの家は従八家のなかでも地位が低い。加えて、春紀はるのりの位階は従五位。けっして低いわけではないが、まだ公卿の地位にない。とにかく、神鏡かがみの女を妻に迎えられる地位にない。むしろ、尊い血を怪我したと罰せられる地位だ。

「むろんだ。でもこのままでは埒が明かぬし、もっと地位の低い男になすりつけて死罪は哀れだろう。私ならば卜師ものうらの資格があるぶん、死罪まではいかないだろう。流刑くらいにはなるかもしれんが」

「それは、そうだが……」

 神官の術を扱えるものは重宝される。ゆえに春紀はるのりの言葉も事実だ。だが罰則はあるだろうし、たとえ原因が今上帝だとしても、他の者たちに理由を話すわけにいかないゆえ、その罰則はかなり重いものになりえる。

「私にはまだ妻はないし、流行病はやりやまいで父母もきょうだいも死んでしまったから迷惑をかける家族も少ない」

「しかし……」

 忠行ただゆきは言葉に詰まらせた。それでも、それでは友を人身御供にすることに変わりない。

「それでよろしいかな?」

 

 自分から将来を投げうってくれるならば万々歳、と言わんばかりにあっさりと了承された。春紀はるのり左兵衛府さひょうえふすけの地位をたまわったばかりであったが、その地位をはく奪され、「智の蔵ちのくら」という名だけの役職に移された。

 

 そののち、皮肉なことにも皇后の子と寛子ひろこの子は同じ日に生まれた。わずかに早く生まれた皇后の子こそがのちの玲仁あきひと寛子ひろこの子はのちの史紀ふみのりとしてこのきょうの地に生を受けた。

 雁舞かりまい忠行ただゆき史紀ふみのりの随身として名乗り出、待てば頭のとうの中将ちゅうじょうも夢ではない約束された道を辞したのは、史紀ふみのりが六つのときである。

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