夏の来客 肆


 史紀ふみのりの随身の従兄弟である小柄な客人がさっさと背を向けその場を立ち去ろうとしたその瞬間、もうひとりの恰幅かっぷくのよい中年の客人がクククと嗤った。

 

「なんだい、実光さねみつ殿」

 のんびりとした声で史紀ふみのりが問うと、彼は実に愉快そうに答えた。

「いやはや、雁舞かりまいも隠すのに必死ですなあ、と思いまして」

「……なんだと?」

 明らかに不機嫌そうな声をこぼし振り返る公達はふたり。重行しげゆきだけでなく、忠行ただゆきもまた雁舞かりまいの男である。

史紀ふみのりさま第一の忠行ただゆき殿はまあ、ご存知ないかもしれませんがね。最近の雁舞かりまいはどうにも不穏な動きが多いのですよ」

 どこが不穏だと言うのか。心外だとばかりに重行しげゆきは顔を険しくする。

重行しげゆき殿がやけに後宮の人事を見直したほうがよいなどと進言するようになり、その頃から我が娘の具合も悪うなったのですよ」

「皇后陛下……徳子さとこさまのことだね。おっとりとして気立てはよいのだけだ、あまり今上帝きんじょうていの好みの娘さんではなかったから覚えているよ」

 のんびりと言葉をつぐ史紀ふみのりだが、ひとこと多い。まだ何かを続けようとするので、咄嗟に随身は声を大きくしてそれを阻止した。

「こ、皇后は御子を肚に宿しておられる。それゆえに体調が優れないのではないですか」

「それもあるが、どうにも異なるのですよ。とくに宵結よいむすびの守部もりべの遺体が上がる少し前からその症状が激しくなり」

  

 それは突然にふつりと膝から崩れ落ち、こんこんと眠るものだと言う。何度呼びかけても返事がなく、ひどい場合は半日こんこんと眠っているのだとか。

 

 絶やすことのなかった笑みを消し、心から娘を案じているような顔をする実光さねみつを前に、史紀ふみのりは「それは大変だねえ」とぼやっとした声をこぼし、何やら文机ふづくえの横をごそごそと漁りだす。何事だろうと見守っていると、紙と筆を取り出し、への字を書き始める。

 見守っていた公達ふたりはがくりと脱力し、忠行ただゆきは悲鳴をあげるように叫んだ。

史紀ふみのりさま。いくら暇で、実光さねみつのクソ野郎の話なのだとしても、楽書らくしょを始めないでください!」

「だってこの話、いつまで続くんだい。私は何もしないと答えているのに長くないかい」

 それもそうだが、と思うものの、じとりと年下の従兄弟が見つめてくるものだから随身としてはいたたまれない。

 

 するとだしぬけに、実光さねみつがその場で膝をつき、こうべを垂れた。

「長々と話してしまったが申し訳ない。じつは、娘を「みて」いただきたく、言い訳をつらつらと並べてしまったのです」

 突然の私的な「お願い」に、おいと驚いたように重行しげゆきが声を上げるが、構うことなくひたいを擦り付けている。

 それは他所目よそめには必死に懇願する父親である。たぬきの生産地とまで謳われる錦瀬にしきぜの男にたいし、とくに雁舞かりまいの男たちは懐疑的になってしまう。この体全体で哀れさを示す行動にも裏があるのではなかろうか、と。

 

 対してどちらにせよ答えを変える気のない史紀ふみのりにとっては、それが芝居であろうとどうでもよいことだ。つと筆の手を止め、変わらずぼんやりとした声で返した。

「それこそ、ちゃんとした医師に診てもらうといい」

「いいえ、朝廷の息のかかった者はいけないのですよ」

「まさか、毒でも盛られたのかい。君たちは大変だね」

 まるで他人事である。

 否。事実、彼にとっては遠い土地の出来事と同然なので、関心を覚えぬことなのである。ゆえにいつまでも引き下がる相手はただ煩わしいだけである。

実光さねみつ殿。ひとつ訂正したいのだけどね」

 呆れたように嘆息して、史紀ふみのりはゆっくりと言葉をつづける。

「私は智の蔵ちのくらゆえ知識としては持っているし、少しはけれど、君の望むような術がこなせるわけじゃあないんだよ」

だけでよいのです」

「そのみたものが、保証もないよ。無駄な時間を過ごさないで、信頼のできる者を探しなさい」

 

 きっぱりとつっぱね、やおら立ち上がる。ウツギを手招いて「お見送りを」などと言ってきたので、とうとう力付くでも追い返すつもりになったらしい。

 仕方なくウツギは客人ふたりへ向き直って、

「外までお送りします」

 と告げるとようやく実光さねみつも食い下がった。

 

「ああ、そうだ」

 

 戸のあたりまで出かかったところで、唐突に史紀ふみのりが呼び止めた。

実光さねみつ殿。土産にこれをあげるよ」

 ひょいと投げてよこされたものを受け取り、何とも微妙なおももちをした。

 長々と話を続けた嫌がらせなのか、それとも実は他意のないのか。渡されたのはいつの間にか色々と書き足されて複雑になったあのへの字の楽書らくしょである。送り出さねばならないウツギがどう反応すれば良いものか悩んだのは、言うまでもない。

 

 ふたたび倉の外へ出たときには、日が少しだけ西へ傾き、変わらず蝉の声が反響して濃い緑がゆらゆらと木漏れ日を落としている。湯けむりのように熱く湿り気のある外気が、じんわりと汗を滲ませるのも変わらない。

 

 外で待つ牛車のそばまで、ウツギはずっと無言のお客人ふたりに付き従った。網代車あじろぐるまの後ろから実光さねみつが乗り込み、次に重行しげゆきが続こうとしたそのとき、その小柄な公達はふと足を止めてこちらへ振り返った。

「ひとつ聞いてよいか」

「なんでしょうか」

 顔を隠す頭巾ずきんのしたで、ゆっくりと真朱まそほのまなこを瞬かせる。むろん、その目の色すらも重行しげゆきには見えないわけだが、彼はちらりと後ろの連れの様子をうかがったのち、声を潜ませてつづけた。

 

「あの御方に、何か伝えたか」

 

「どの件ですか……?俺、あんたと初対面だと思うんですけど、何かお伝えすることありましたか」

 首を傾げてみせると、相手はぴくりと眉を上げた。不思議な反応だ。顔を険しくして何やら考え込むような素振りをしたが、すでに乗車している連れが「いかがしたか」と問うので、悩ましげに眉間を手で押さえて言った。

「わからないならばそれでよい。あの困った御方には世話になったと伝えてくれ」

 車の中から見えぬようにしながら、ずいと何やらふみのようなものを押し付けられる。ふところに隠し持っていたらしい。受け取るほかに選択肢はなく、しかたなしに受け取ったが、何の文なのかはわからない。ウツギは眉をひそめていたが、さっさと重行が車へ乗り込んでしまい、問い返す時間はなかった。

 

 ――何だったのだろう。

 

 悠々ともりのなかを進みはじめ、その一行の姿が小さくなる。

 蝉の声が揺らす茹だる空気の中、ぽつんと取り残されたウツギはしばらく遠ざかる牛車を見届けていたが、ぽたりとひたいを伝った汗で我に返った。こうしていても暑いだけだ。頭巾ずきんを下ろすと、きびすを返し、史紀ふみのりたちのいる倉へ戻って行った。

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