虚ろな目 弐


 射し込む真昼の陽光に、少年は目を覚ました。

 

 不覚にも、ぐっすり眠ってしまったらしい。起き上がり、大きく伸びをした。

「ああ、そうか。ここにいたんだったな」

 少年は、がらんとした板の間に敷かれた二枚の畳のうち、片方の畳のうえでぽつんと座っていた。隣で眠っていたはずの史紀ふみのりの姿はない。起き上がり、ぼさぼさの白銀をかきながら開けっ放しな格子の下をくぐって簀子敷すのこじきへ出る。

 

 まばゆい秋晴れだ。

 

 雲ひとつない天頂で、さんさんと日が照りつけている。その下で手入れされていない庭園の緑や池がきらきらと陽光をはじき、だいぶ涼しさを伴った風が頬を撫でた。

「でもやっぱり、はくより暑い気がするなあ」

 ふああと欠伸をして、井戸まで歩いた。

 暑さや寒さにかんしても、他の人間たちよりずっと鈍く、気がつけば茹で上がって倒れたり、冷えすぎて動けなくなったりすることもある。それでも環栄かんえいの空気は潮を含んでべたついて、生暖かいように感じた。

 

「おや。おはよう、ウツギ」

 

 その声で振り返ると、盆に握り飯をいくつか乗せて運ぶ、熊の姿があった。

「……おはようございます」

「いい天気だねえ。梅に握り飯を作ってもらったんだ。一緒にどうだい」

「あの、ひとついいですか」

「なんひゃい」

 すでにひとつ頬張りだした男に、少年はやや沈黙する。はくでは、「いただきます」もなく食うのはいけないことだと聞いたのだが、この男は違うらしい。

 

「その「ウツギ」ってなんですか」

 

 記憶が戻ったいまも、少年はウツギを知らなかった。

 少年はこれまで、「虚鬼うつろき」だとか「虚鬼うつき」だとかとしか呼ばれたことがない。重行しげゆきの屋敷では、その主人から「こいつ」「お前」とも呼ばれていたが、やはり「ウツギ」ではない。

「とりあえず、座って食べようか」

 とろんとした目を細めて、史紀ふみのりは握り飯の盆を持ち上げた。ぐううと腹のが代わりに応えた。

 ひさしで雑草の多い庭をながめながら、史紀ふみのりはのんびりと言葉をこぼした。

「ウツギ、いいと思うんだけどなあ」

「はあ」

 まったく話が読めない。

「文字に書くとね、こう」

 そう言って立ち上がったと思えば、棚を漁って紙と筆とすずりを用意する。何をするのだろうと見守れば、ごりごりとすみをするところから始まった。「こう」がなかなか表されない。ようやく墨の用意を終えると、筆の先につけ、すらすらと紙に記した。

 

 ――卯木うつぎ

 

 彼いわく他の文字もあるそうだが、この文字で呼んでいるつもりらしい。

「春の終わりに、雪みたいな花を咲かせる低木ていぼくだよ。なごり雪みたいで、それはそれは綺麗なんだ」

「はあ」

 他にもウツギの花は「雪見草」、「弓木」、「かきみ草」などという名で呼ばれることもあるのだ、と語る男の声は柔らかい。少年はただ、「はあ」とだけ返してその記された文字を見た。

「ウツギは木の幹の中が空洞になっていてね。けれども、その咲かせる花はまったく虚ろでなく、美しい。君にふさわしい名だと思わないかい?」

 穏やかな目がこちらへ向けられた。その目が、言葉が意味していることもわからない。返答に困ることばかりで、少年は同じような反応をするしかなかった。

「あ、そうそう」

 こいつ話をころころ変えるな、と内心で思いながらも少年は「なんですか」と返した。

「このあと、出仕しようと思ってね」

「……倉にですか。もう昼ですが」

「いいや。大内おおうちに」

 夏の終わりから共に生活して、初めて聞いた言葉かもしれない。自分のぶんの握り飯を食い終えると、史紀ふみのりは少年の口元についた米粒を手で取ってやり、続けた。

「で、君に付いてきてもらおうと思って」

「……はあ?」

 返事に疑問符がつくようになったのかは、この男と出会ってからかもしれない。少年はぽかんとしながらも、従う以外の選択肢はなかった。

 

 外へ出ると木群ノ端こむらのは特有の緑と土の香りがした。山が近いためだろう。少し南下して神向かむかい大路おおじ方面に出れば大内おおうちの区画なので、寝坊するうっかりさんには立地のよい屋敷である。反対に、いちからはかなり離れているので、家人かじんからすれば大変つとめにくい場所である。

 昼下がりで多くの官人かんにんたちは帰宅してしまっているゆえ、大内おおうちはどこもがらんとしていた。顔を隠すための頭巾ずきんの奥から前を見れば、黒の直衣のうし垂纓すいえいと言う、いわゆる「ちゃんとした格好」をする史紀ふみのりの姿がある。出会って一月ひとつきとなったが、初めて見る正装を見て、なんとなく不思議な気持ちになった。

 

 あまりにじろじろと見るので気になったのか、史紀ふみのりが苦笑した。

「どうしたんだい?」

「いえ。烏帽子えぼしもまともになさらなかったので、不思議だなと思いまして」

「ここの人たちは頭を見せると恥ずかしいらしいからね」

 それははくにいたころも聞いたことがあった。というよりは、直接見たのだ。うっかり人前で脱げてしまい、しばらく人前に出たくないとむせび泣いた家人かじんがいた。少年はまだ元服前で頭をさらすことが当たり前なうえ、服を着ないと恥ずかしい、といった感覚も持ち合わせていないので、「そういうものなのだ」として記憶していた。

 だのにいざ環栄かんえいへ来てみれば、毎日頭をさらして昼寝をする男がいるので、困惑ものである。

「その恥ずかしいとやらは史紀ふみのりさまにはないのですか」

「ちっとも」

 うん知ってた、という返答だ。

 

 ふと、どこかの家人と思われる男が走って庁舎へ吸い込まれていくのを見、少年は足を止めた。

「質問ばかりで申し訳ないのですが……俺はまだ、史紀ふみのりさまの家人かじんとしておそばにいてよろしいのでしょうか」

 どの立場として随行しているのか。礼儀というものは宵結よいむすびの守部もりべのもとで学んだ。

 下男ならばこの入口から入り、随身ならばここか入る、みたいな「あたりまえ」なこともそのさいに叩き込まれた。言葉遣いを使い分けられるのも、その知識の蓄積あってのことだ。

 だが、今の自分はどの立場なのだろうか。とりあえず前と同じ、と仮定しているが、正しく定めてもらわねば、失礼なる振る舞いをしてしまいかねない。

「ううん……内緒かな?」

 もっとも反応に困る返答に、少年は唖然とした。

 

 史紀ふみのりの用事があるのは、御所ごしょのなかだったらしい。智の蔵ちのくらは扱いとしては帝の秘書的な役割を持つ蔵人所くろうどどころの四位相当の一役職として扱われているらしく、今日はその智の蔵ちのくらとして今上帝きんじょうていへ面会しにきたらしい。

 建礼門けんれいもんをくぐって紫宸殿ししんでん横をすぎ、清涼殿せいりょうでん前へ出ると業務復帰を果たした雁舞かりまい重行しげゆきが腕を組んで待っていた。

「遅い」

 対面してそうそう、ぴしゃりと吐き捨てられる。

「貴様、時間を作れと自分で言っておいて、昼過ぎに来るとはどういった了見だ。私を餓死させる気か」

 出仕しゅっししてから帰宅にこぎつけられていない彼は、朝から水以外何も口にしていないのである。

「まあまあ、そうカリカリしないで。ほら、差し入れだよ」

 とそっと差し出すのは梅に作らせた握り飯である。つまり屯食とんじきを食ってまだまだ働け、帰さないぞ、の意味である。感激、もとい怒りの開いた口が塞がらない男の肩を強くたたき、史紀ふみのりはにこやかに言った。

「さ、急ごうか」

 

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