虚ろな目 壱
「お前は、
その言葉は幾度となく聞かされた。
もっとも古い記憶は、ようやく歩き始めたくらいのころ。自分を育ててくれる女がそう言った。
少年が生まれ、育ったのは
――
それは
「お前の器は
女はそう言って、少年の手を引いた。
下男と主人にしては近しく、子と母にしては遠い。女は少年をとりあげてから多くの時間においてそばに置いているが、慈しむような言葉を掛けることはなかった。
「よいか。お前は
どんな言葉の後ろにどんな言葉で返すのか。その会話の時はどんな顔をし、どんな仕草をするのか。理解はしなくてよい。すべてを記憶し、そのまま吐き出しなさい。
女はとても子に掛けるべきではない言葉を掛け、そして従わせた。そして少年と言えば、この女の言うことには必ず「承知しました」と応え、深く考え
「この子には魂と器が結びつくことで起きうる、心の働きがない」
言い出したのは女だ。けれども周囲にいる者たちも
女が少年を片時も離さなくなったのは、少年が五つのときだった。
「おぬし……痛くはないのか?」
めずらしく呆気にとられる女の視線の先には、背の皮が大きく剥がれ、床に血をしたたらせている少年の姿があった。
きっかけはよくある事故だった。
当初、少年は下人たちに混ざって掃除や洗濯、飯炊きの手伝いをさせられることがあった。ゆえにその日もいつも通り、他の下人に言われて
下人たちは慌てふためいたが、少年は涙を浮かべることすらしなかった。よほど我慢強い子なのだろうと周囲は関心したが、それこそか誤りだった。少年は汚れた服を着替えようとして、火傷ではりつく着物を脱いだのである。そのさいに皮膚ごとやって、大惨事である。
青ざめる周囲に、少年はぼんやりと首をかしげた。
「いたい、てなんですか」
「……これは興味深い」
息を呑む者たちが多いなか、女だけが頬を紅潮させた。あまりに面白い、これは貴重だと喜ぶものだから、少年が「いたい」とは嬉しいことなのかと勘違いしたほどだ。
そのあとすぐに家人たちによって、痛みとは人間が生きるために持つ感覚で、それを感じると悲鳴を上げたり泣き叫んだりするものらしいことを教えられた。だがそのさいに、「じゃあ、そうしたほうがいいんですか」と問えば「五月蠅くてかなわんから、せんでよい」と女が言うので、どんなに痛々しい状況でも泣かない、不気味な人間もどきになってしまった。
「今日はこれを試してみよう」
少年の体質は女の好奇心と探究心をくすぐる何かがあったらしい。日々呼びつけては、あれこれと試された。
色や形はどう見えているのか。においは。音は。味は。それは拷問とも近い形で検証され、女はその結果を日記へ記していた。
「不思議じゃ。この差はいったいどこから生じるのか」
女は愉しげに考察し、また新たな検証をほどこす。
少年の聴覚や嗅覚だけは獣なみに鋭敏だが、味覚と触覚は皆無に等しかった。面白いのが視覚で、けっして見えないというわけではなかった。一部の色は見えず、逆に
これらはすべて、魂の「性質」の影響を物質である器が受けていないためではないか、と女は言った。その影響か力の加減というものも知らず、気をつけなければ常に「火事場の馬鹿力」な状態をずっと続けてしまうこともあの女が見つけだした。
「嫌なら、嫌って言ったほうがいいよ」
と下女の誰かがそう言った。
外見が鬼のそれのため、多くの家人は話しかけようとはしなかったが、一部の、少年を赤ん坊のころから知る家人はこうして声をかけることがあった。
「嫌って……どうして。何に対して「嫌」だと思うものなんだ」
そもそもの「嫌」という感情を理解していない。そして普通ならばその「嫌」という感情が喚起される状況であることもむろん、理解していない。
「あんた、そんな毎日血まみれになってさ。言っちゃなんだけど、獣でもそんな扱い受けないよ」
そんな扱い、がどんな扱いかわからない。彼女がどうしてそんなに顔を歪め、涙をこぼしているのかがわからない。だから、はあ、とだけ返しておいた。これなよく一緒に働く下男の真似だった。
「
はじめて
「
「その後継もまた、含まれる」
「後継……皇太子とやらのことか」
さよう、と応じる女に、また「承知しました」と返した。
初めてこの女が「産んでみた」らしい男に会ったのは、そのあとしばらくしてからだ。
海、というものを初めて見た。
水平線の向こうが見えないだけで、湖とさして変わらないな、というのが率直な感想である。めずらしく女が、「おぬしは風情がない」と言ったが、その風情が何かわからず、また「はあ」とだけ返した。
そのやり取りのあと、
「ようやく
またしても唐突にそんなことを言って、女は少年を海へ連れて行った。まだ日が昇っていない、空と地の両方に
「
女はじっと
「よいか。「
言い聞かせるように告げると、その瞬間気が遠退いて、少年の意識はそこで途切れた。いったい彼女に、自分に、何が起こったのか、記憶を取り戻した
ただひとつ言えること。それは、女がけっして解かれることのない呪いを遺してこの
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