虚ろな目 壱


「お前は、人間ひとではない」

 

 その言葉は幾度となく聞かされた。 

 もっとも古い記憶は、ようやく歩き始めたくらいのころ。自分を育ててくれる女がそう言った。

 

 少年が生まれ、育ったのはきょうの中でも北西に位置する小さな集落だった。そこは切り立った山々に囲われた盆形ぼんがたの場所で、隙間を縫うように稲田いなだが広がっていた。その真中には哭鬼川なきおにがわと呼ばれる河川が流れ、その先にあるのが宵結ノ湖よいむすびのあふみだった。 

 ――宵結ノ湖よいむすびのあふみ

 それはきょうにおいて儀式的な意味を有する水源のひとつで、そのほとりにある北繋神宮ほくけいじんぐうであり、とある神鏡かがみ寛子ひろこの屋敷が少年の育った場所である。

 

「お前の器は死人しびとの一部であり、結びつくことの叶わなかった性質さがもまた、死しているのだ」

 女はそう言って、少年の手を引いた。

 他所目よそめに見たふたりの関係は不思議なものだ。

 下男と主人にしては近しく、子と母にしては遠い。女は少年をとりあげてから多くの時間においてそばに置いているが、慈しむような言葉を掛けることはなかった。

「よいか。お前は人間にんげんでも鬼人おにでもない。ならばせめて、人間ひとをせよ」

 どんな言葉の後ろにどんな言葉で返すのか。その会話の時はどんな顔をし、どんな仕草をするのか。理解はしなくてよい。すべてを記憶し、そのまま吐き出しなさい。

 女はとても子に掛けるべきではない言葉を掛け、そして従わせた。そして少年と言えば、この女の言うことには必ず「承知しました」と応え、深く考えみずから選ぶということをしなかった。 

「この子には魂と器が結びつくことで起きうる、心の働きがない」 

 言い出したのは女だ。けれども周囲にいる者たちもみな、口を揃えてそう言った。彼らはそんな少年のことを皮肉を込めて、「虚鬼うつろき」や「虚鬼うつき」と呼んだ。女もまた、そう呼んだ。

 

 女が少年を片時も離さなくなったのは、少年が五つのときだった。

 

「おぬし……痛くはないのか?」

 めずらしく呆気にとられる女の視線の先には、背の皮が大きく剥がれ、床に血をしたたらせている少年の姿があった。

 きっかけはよくある事故だった。

 当初、少年は下人たちに混ざって掃除や洗濯、飯炊きの手伝いをさせられることがあった。ゆえにその日もいつも通り、他の下人に言われてくりやへ訪れていた。その少年のうえに誤ってぐつぐつとものを煮る鍋が落下したのである。

 下人たちは慌てふためいたが、少年は涙を浮かべることすらしなかった。よほど我慢強い子なのだろうと周囲は関心したが、それこそか誤りだった。少年は汚れた服を着替えようとして、火傷ではりつく着物を脱いだのである。そのさいに皮膚ごとやって、大惨事である。

 

 青ざめる周囲に、少年はぼんやりと首をかしげた。

「いたい、てなんですか」

「……これは興味深い」

 息を呑む者たちが多いなか、女だけが頬を紅潮させた。あまりに面白い、これは貴重だと喜ぶものだから、少年が「いたい」とは嬉しいことなのかと勘違いしたほどだ。

 そのあとすぐに家人たちによって、痛みとは人間が生きるために持つ感覚で、それを感じると悲鳴を上げたり泣き叫んだりするものらしいことを教えられた。だがそのさいに、「じゃあ、そうしたほうがいいんですか」と問えば「五月蠅くてかなわんから、せんでよい」と女が言うので、どんなに痛々しい状況でも泣かない、不気味な人間もどきになってしまった。

 

「今日はこれを試してみよう」

 少年の体質は女の好奇心と探究心をくすぐる何かがあったらしい。日々呼びつけては、あれこれと試された。

 色や形はどう見えているのか。においは。音は。味は。それは拷問とも近い形で検証され、女はその結果を日記へ記していた。

「不思議じゃ。この差はいったいどこから生じるのか」

 女は愉しげに考察し、また新たな検証をほどこす。

 少年の聴覚や嗅覚だけは獣なみに鋭敏だが、味覚と触覚は皆無に等しかった。面白いのが視覚で、けっして見えないというわけではなかった。一部の色は見えず、逆に人間ひとには見えない色が見えることもある。紙や土、水のようなものは同じように見えるが、鳥や人間の「姿」を正しく見ることはできない。何かが重なったように二重に見えるのだ。

 これらはすべて、魂の「性質」の影響を物質である器が受けていないためではないか、と女は言った。その影響か力の加減というものも知らず、気をつけなければ常に「火事場の馬鹿力」な状態をずっと続けてしまうこともあの女が見つけだした。

 

「嫌なら、嫌って言ったほうがいいよ」

 と下女の誰かがそう言った。

 外見が鬼のそれのため、多くの家人は話しかけようとはしなかったが、一部の、少年を赤ん坊のころから知る家人はこうして声をかけることがあった。

「嫌って……どうして。何に対して「嫌」だと思うものなんだ」

 そもそもの「嫌」という感情を理解していない。そして普通ならばその「嫌」という感情が喚起される状況であることもむろん、理解していない。

「あんた、そんな毎日血まみれになってさ。言っちゃなんだけど、獣でもそんな扱い受けないよ」

 そんな扱い、がどんな扱いかわからない。彼女がどうしてそんなに顔を歪め、涙をこぼしているのかがわからない。だから、はあ、とだけ返しておいた。これなよく一緒に働く下男の真似だった。

 

わらわめいは絶対じゃ。ただし、わらわがおらぬ時は、きょうにより近い者のめいを優先せよ。そしてきょうを――守るのじゃ」

 

 はじめてはくを離れた日だった。険しい山道を、はじめて見た遣いの男たちとともに進んでいたのだが、女は何を思ったのか突然そんなことを言い出した。

きょうとは、この地とこの地とされる今上帝きんじょうていのことですか」

「その後継もまた、含まれる」

「後継……皇太子とやらのことか」

 さよう、と応じる女に、また「承知しました」と返した。

 初めてこの女が「産んでみた」らしい男に会ったのは、そのあとしばらくしてからだ。雁舞かりまい何某なにがしなる貴族の屋敷に匿われ、その翌日の昼前だった。

 

 海、というものを初めて見た。

 

 水平線の向こうが見えないだけで、湖とさして変わらないな、というのが率直な感想である。めずらしく女が、「おぬしは風情がない」と言ったが、その風情が何かわからず、また「はあ」とだけ返した。

 そのやり取りのあと、はくにあるのと似た神宮の境内をとおり、彼に会った。直接言葉を交わすことはなかったが、今まで見た誰よりも大きな男だった。その男はじっとこちらを見たと思うと、なぜか微笑んで見せていた。

 

「ようやく支度したくが整った。ちいと暑くなってしまったがまあ、大丈夫じゃろう」

 

 またしても唐突にそんなことを言って、女は少年を海へ連れて行った。まだ日が昇っていない、空と地の両方に白砂はくしゃのある時分だ。

わらわはおぬしを形代人かたしろびととして任ずる」

 女はじっとを見てそう言った。

 形代かたしろと呼ばれる存在のことは、すでに聞いていた。けれどもその意味が指しているがわからないので、やはりいつも通りに「承知しました」と応えた。

 

「よいか。「きょう」を守れ。わらわからはそれだけじゃ」

 

 言い聞かせるように告げると、その瞬間気が遠退いて、少年の意識はそこで途切れた。いったい彼女に、自分に、何が起こったのか、記憶を取り戻した

 ただひとつ言えること。それは、女がけっして解かれることのない呪いを遺してこのきょうから消えたこと。――虚ろなは、独りになった。

 

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