第23話 必要ない

 進路の話を打ち切ると心さんはまた笑顔が増えてきた。尊琉が店の手伝いと言って裏に引っ込んだタイミングで増子さんに尊琉とのことを聞いたり、教室に保管してある回収した恋のメッセージを休み時間ごとに読んではつまみ食いしてにやにやしていることを僕と増子さんでいじったりして、楽しく過ごし、午後六時前には解散することになった。


 心さんに数学で分からない分野があると言うと、その分野をまとめたノートが家にあるから着いてきて欲しいと言われたので僕は今、心さんの自宅に向かっている。もう時間も時間だし家に上がることはないだろうが心さんの家に向かうという事実だけでワクワクが止まらない。 


 喫茶にしもとから自転車で約十分。前を走る心さんが自転車を停めた。


 広い庭に立派な二階建ての和風な住居。少しだけ年季を感じさせる佇まいだが、確かお母さんの他におじいちゃんとおばあちゃんと暮らしていると言っていたからそちらの持ち家なのだろう。


 玄関の前でノートを取りに行った心さんが戻ってくるのを待っていると、高級感漂う赤い乗用車が敷地の中に入ってきて、ほとんどが土の庭の中でコンクリートになっているスペースに駐車した。中から一人の女性が降りて玄関の方へ歩いてくる。


 きっちりとスーツを着こなして、いかにも仕事ができるといった雰囲気が漂い、薄めの化粧だが口紅だけはしっかりと塗られている。美人ではあるもののどこかきつい印象を持たされ、年齢はおそらく四十代。この人が心さんのお母さんだと直感で分かった。


「……あなたは心の友達? 家の中から何か持ってくるのを待っているのかしら」


 心さんのお母さんは玄関近くに停めてある心さんの自転車を一瞥してから僕を見た。それだけでどんな状況なのか理解してしまったようでさすが心さんの母親と言わざるを得ない。


「はい。安相類といいます。同じクラスで文化祭の実行委員とか一緒にやってて、数学で分からないところがあると相談したらノートを貸してもらえることになりまして」


「そう……あなた、心のことはどう思ってる?」


「え?」


「あの子モテるでしょう? 顔が良いから」


「はあ、まあ」


「あなたは違う?」


「違、わないです」


 淡々と語るその口調は、娘の自慢でもなく、娘の彼氏候補をいじって遊ぶでもなく、ただの事実確認のようでとても冷たい。


 心さんのお母さんは大きくため息をつき、睨みつけていると言ってもいいくらいの鋭い目で


 僕を見据える。そして冷たい口調のまま僕に言い放った。


「やめてくれる? そういうの。心に男は必要ない」


 冷徹なまでの拒絶。一方的に突き放された僕に反論の余地はない。心が揺さぶられた。もちろん悪い意味で。


 僕らは高校生で、一人で生きていくことは難しい。衣食住のほとんどを保護者である親に依存している人が大半で、自分で何とかできるのはごく一部の特別な事情がある人くらいだ。


 僕も例外ではないし、心さんだって食費はかからないかもしれないが他のほぼすべてのこともお母さんに依存していない可能性は低い。であればその生活や進路について親の考えをまるっきり無視することは許されることもなく、その親から男は必要ないと言われるということはどういうことなのか、想像はたやすいことだった。


 心さんのお母さんは呆然としている僕に興味をなくして家の中に入っていった。入れ違いで心さんが出てくる。


「お待たせ、はい、どうぞ。お母さんと会った? 厳しそうでしょ私のお母さん。私が小学一年生のときに離婚して以来ああなの。変なこと言ったかもしれないけどあんまり気にしないでね。 あ、ノートの内容は理解してるから返すのは連休明けでいいよ」


「あ、うん。ありがとう」


「……暇があったらうちに持ってきてくれてもいいけど、そのときは一応前日に連絡頂戴ね」


「うん」


 高校生の僕にとって親という存在がどれだけ大きいものか分かっているつもりだ。だからこそ心さんのお母さんの言葉で、動揺している。僕の周りの空気が凍り付くような感覚。手や足が震えるのを我慢するので精一杯で、その気持ちはすぐに悟られる。


「お母さんと何かあった? なんか苦くて、美味しくなくていつもの類君じゃないみたいだよ」


「え、いや大丈夫なんでもないよ。ちょっと疲れただけ……ノートありがとう。またね」


 心さんに嘘をついたのはいつ以来だろうか。その場を面白くする冗談くらいは言っていたし、むしろ心さん自身がそういうのは嫌いじゃないと言って自分でも言うことはあった。だが自分の本心を隠すような嘘は言った覚えはない。いつも本心を包み隠さずさらけ出してきた。


 だからこそ今の心さんとの関係ができあがったと思っているし、これからも嘘をつくつもりはなかった。だが心さんのお母さんから与えられた動揺でその誓いは簡単に破られた。


 心さんにできるだけ悟られないように大急ぎで自転車にまたがり、その場を後にした。



 この年は祝日と土日のめぐりあわせが良く十連休となっていた。例年なら嬉しい限りだが今年はどうも気が晴れない。理由は明確で、心さんのお母さんのあの言葉のせいだ。


 何もしないでいるとどんどん気落ちしていくのでこういうときは勉強するに限る。集中していれば余計なことを考えずに済むので、中学時代からある意味逃げのために勉強をしていた。


 心さんの数学のノートはとても分かりやすかった。書いてある公式や定理自体は教科書とほぼ変わらないのだが心さん自身の言葉でどう考えたらいいのかが書いてあり、この問題では何故この定理を利用するのかであったり、公式や定理ではない問題を解くためのテクニックや考え方までしっかり書かれていて、問題を解くためではなく理解するために書かれたノートという印象を受けた。


 ただあくまでこれは心さんが自分のために作ったノートであるから、わざわざ書かなくても理解できている内容は書かれていないのでたまに僕では分からないところもあった。


 電話やメッセージで聞くこともできるが、心さんに連絡しようとするとお母さんの冷たい顔が浮かぶようになってしまったので気が引けた。何より、ノートの真ん中辺りに大きめの付箋が貼られていて【がんばれ!】と書かれているものだから自分で頑張りたかった。


 だが心さんの方から連絡は何度か来て、雑談のような他愛ないやり取りを就寝前にすることはあった。


 勉強の休憩時間には猫の動画を見て癒されているが、やめようと思ってもどんどん他のおすすめの動画が出てきて大変だということ、食べすぎた増子さんのダイエットと称して近くの運動公園で一緒にランニングをしていることなど、言うなればただの日常ではあるのだけれど、聞いているのは楽しくて、心さんの方は特に変わった様子はないことは分かったのでお母さん関係のことを聞くことはしなかった。

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