第35話 保留

 文化祭開催を一週間前に控えた金曜日の放課後、僕は須藤先生に呼び出されて職員室にいた。周りに他の先生がたくさんいる須藤先生の席ではなく、端の方の人気がないスペースに連れてこられた僕は壁にもたれかかって腕を組む先生と向き合う。


「お前にも伝えて欲しいと言われたから聞いてくれ。明後日の日曜日、三春先輩と真さんが会うことになった。三春も同席する」


 これで動き出す。八年以上前に止まってしまっていたさくらさんと滝さんの関係が、心さんと滝さんの関係が。悪い方向に進んでしまうかもしれないがそれでも立ち止まり続けることよりはましだろう。


「何か真さんに伝えることはあるか? 何かしてやりたいんだろう?」


 これから話し合いに臨む滝さんにかける言葉。僕はさくらさんのことをほとんど知らないから何を言ったら良いか分からないが、心さんのことならある程度は知っている。心さんは雑味のないまっすぐで優しい感情が好きなんだ。


「まっすぐに優しく、自分の気持ちを言ってください、と伝えてください。心さんはそういう感情が好きだから」


 頷いた須藤先生が電話をかけ始めるのを見て、僕は職員室をあとにした。


 職員室から出ると心さんが待っていた。不安そうに僕のことを見つめている。自分を捨てた父親といきなり会うことになったのだから無理もない。心さんは何も言わずにただただ僕を見つめている。胸の前でぎゅっと握っている両手を僕は自分の両手で優しく包み込んだ。これくらいなら許してくれるだろう。


「前に心さんのお父さんと会ったんだ。黙っててごめん」


「須藤先生が類君にも話していいかって聞いてきたのはそういうことだったんだ……」


「お父さんも色々抱えているみたい。ちゃんと話して、全部知って、それから決めたらいいと思う。僕から詳しいことは言えないから、今はこれしか言えない」


「私を心配して、応援してくれる優しい味」


 心さんは握っていた自分の手を離して、僕の手を握り返した。いつかと同じ構図。でもあのときと違って心さんは正気だ。不安げな瞳の中に小さな決意が見えた気がした。


「どうなるか分からないけど、ちゃんと向き合ってくる……頑張ってくるね」


 その夜も土曜日も自分が何かをするわけでもないのにそわそわしてなかなか眠れなかった。  


 日曜日の午後二時半。約束の三時を前に心さんから【いってきます】と一言だけメッセージが来た。【待ってるよ】と一言だけ返し、自室のベッドの上に横たわり僕はただ祈ることしかできない。そう簡単にさくらさんがすべてを許し復縁するわけがない。


 でも、少しでも心さんが喜ぶような展開になって欲しい。最悪でも心さんが悲しむようなことだけはあって欲しくない。


 夜になった。もう話は終わった頃だろうか。心さんに連絡をしようかと思ったがまだ話の途中の可能性もあるし、悪い結果だった場合どう反応すればいいか分からないので、僕はただ待つことにした。自分で【待ってるよ】と送ったのだから待つしかない。やがて心さんから届いた【直接お話がしたいので明日早めに学校に来れますか?】というメッセージに了解のメッセージを返しその日は眠りに就いた。



 翌日、朝七時に学校に着くと他に誰もいない一年一組の教室に心さんが待っていた。


「おはよう。ごめん、遅くなった」


「おはよう。私も三分くらい前に着いたところだから平気だよ」


 心さんは僕に挨拶してくれるときに必ず優しく微笑んでくれる。その微笑みが僕は大好きだった。そしてそれが今日も見られたということは少なくとも悪い結果ではなかったと思える。


「こんなに早く学校に来たの初めてだからなんか緊張しちゃうね」


 そう言いながら心さんはお腹の前あたりで両手の指を互いにいじり合わせながら少しうつむいた。何からどうやって話すかまだ整理がついていないのだろう。


「ゆっくりでいいよ。僕は待ってる」


「うん……」


 しばらく沈黙が続いた。僕はただ心さんの手を見つめ続けた。身長の割には小さい手のひら、細くて白い指、人差し指同士がくっついたと思ったら嫉妬するように右手の中指が左手の人差し指とくっついて、そんな様子を見続けてやがて指の動きが止まった。僕が顔を上げるのと同時に心さんも顔を上げて、しっかりと目が合って、心さんはまた優しく微笑んだ。


「お父さんはずっと謝ってた。素直な気持ちを全部正直に話して、嘘はなかった。私のことが怖くて逃げだしたっていうのはちょっとだけショックだったけど、私やお母さんのことを嫌いになったわけじゃなかったのが分かって嬉しかった。今のお父さんなら、私は受け入れられそう」


「本当に? 心さんはお父さんに捨てられたと思っていたんだよね? それを、もう許せる?」


 心さんが滝さんを許せばさくらさんも許してくれるかもしれない。優しい心さんだから、さくらさんと滝さんのことを思って無理して許すと言っているのではないかと心配になる。


 心さんは照れくさそうに笑って無邪気に言い放った。


「私の人に対する判断基準は感情が美味しいか美味しくないかなの。昨日のお父さんの感情はまっすぐで優しくて嘘がなくて、まるで類君みたいだった。だからもういいかなって思った。生まれつきこういう基準で人を見てきたから。類君のおかげで色んな人と関わることができるようになったけど、やっぱり好きなのは感情が美味しい人。それが一番」


 心さんだけの、心さんにしかできない判断基準。それが良しとするならば僕が口をはさむ義理はない。


「お母さんはなんて?」


「お母さんは最初に軽く挨拶をしたきり何もしゃべらなかった。お父さんが話をして、私がたまに質問したりして、またお父さんが自分の気持ちを話して、その繰り返しをお母さんはずっと無言で聞いていた。お母さんの感情は不思議なくらい味がしなくて、何を考えているのか分からなかった。けどお父さんが全部話し終わった後、『また話をしましょう』って言って別れたの。色々な味が混ざってた。辛くて苦くてしょっぱくて、でも嘘じゃないのは分かった。嘘の味とはまた違う不快じゃない混ざり方。多分お母さんは色んな事を考えて、何も結論を出せなかったんだと思う」


 また話をしましょう。それは成功でもなく失敗でもなく保留。さくらさんの考えは変わっていないが変わる可能性も残された。あとは滝さんの頑張り次第だ。


「色々ありがとう類君。類君が支えてくれるって分かってたからちゃんとお父さんと向き合えた。ね、ちょっと学校の中探検して見ない? まだ誰も来てないからなんかわくわくするよね」


 心さんは色々と吹っ切れたような笑顔で僕に右手を差し出した。今まで何度も見た僕の好きな笑顔。


「うん」


 僕が左手でその手を掴むとそのまま手を引かれて教室を出た。誰もいないのをいいことに廊下を走ったりしてみて普段よりも子供っぽくはしゃぐ心さん。僕も色々考えるのをやめてこの時間を楽しむことにした。


 普段はあまり行けない二年生や三年生のフロアに行ったり、すでに出勤している先生に見つからないように職員室の脇の廊下を息を潜めて走り抜けてみたり、校舎を走り回った。一緒に悪いことをしているみたいで自然と心が躍った。青春だなあなんて考えていると、その感情を味わった心さんは笑いだした。


「どうしたの? なんか変な味でもした?」


「類君、何考えてたの? 青臭くて、草みたいな味」


「ええ? そんな、もっと美味しいはずだよ」


「でも甘酸っぱい。ね、どんなこと考えてたの? 青臭いけど甘酸っぱくて結構好きな味なんだけど」


「青春、かな」


 青春とは青臭いもので、甘酸っぱい。そんなことを理解しながら学校中を巡った僕らの探検は旧校舎の四階にて終了した。 


 最後に屋上まで行ってみようとしたが、屋上への扉の鍵が閉まっていたので諦めて戻ろうとすると、登校してくる生徒が増えてきたので僕らは名残惜しく手を離した。


 ほんの少しだけど恋人になれた気がした。心さんと繋いでいた左手を見つめてから自分の右手で握ると、心さんも同じことをしていた。二人して恥ずかしそうに笑いながら教室に向かって歩き出す。


 やっぱり僕は心さんが好きだ。優しいところ、気遣いができるところ、真面目なところ、たまに見せる無邪気なところ、挨拶をするとき微笑んでくれるところ、他にもまだまだ好きなところがある。百個は言える。


「もうちょっとだけ待っててね」


 心さんが嬉しそうに、でも少しだけ申し訳なさそうに言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る