第32話 過去を清算する

泣いている人を見たら僕は手を差し伸べずにはいられない。


「滝さん、僕にできることはありますか?」


「何を言っているんだ君は。できることなんて……」


「僕は泣いている人を見たら放っておけないんです」


「どうして……」


「昔、泣いている子を無視したら、しばらくしてその子が自殺してしまったことがあって。すごく後悔して。それ以来、泣いている人や困っている人を見つけたら助けようって決めているんです」


「……その子の名前は、滝俊介?」


 そうだ。僕があのとき無視した子の苗字は滝だった。


「今から八年ほど前、君や心が小学一年生の終わりを迎えようとしていた頃、大きな地震があっただろう。俺はそのとき避難地域の医療支援に行ったんだ」


 今も覚えている。もうすぐ家に着こうかという帰り道、大きな揺れに襲われた。立っていることもできずに地面に伏せ、長く大きな揺れの恐怖と戦っていた。すぐに母さんが来てくれて少し安心したが、見渡した街の様子は一変していた。


 ブロック塀が崩れ、屋根の瓦が落ち、信号が止まり、柱が折れ曲がって傾いた商業施設もあった。追い打ちと言わんばかりの猛吹雪によって母さんが来てくれたことによる安心はあっという間に吹き飛ばされた。


 僕の家は見た目は特に問題はなかったが中が荒れ放題になっていて、色んな荷物の間を縫ってリビングにたどり着き、すぐに帰ってきた父さんと三人で携帯電話についていたワンセグテレビで情報を集めながら不安の時間を過ごした。


 まず大きな衝撃を受けたのは火災の映像だった。映画やドラマのシーンかと思うかのような、この世の終わりかと思うような惨状で、幼い僕にもとんでもない事態が起きていることは分かって、父さんと母さんはそれ以上僕にテレビを見せてくれなかった。家に残っていた食べ物を少しつまんでその日は寝てしまった。


 翌日から学校は休校になった。家の中の片づけをしていると電気が復旧したがテレビはつけさせてくれなかった。父さんと母さんの二人だけが現実に何が起きているのかを知っていて僕はつまらない春休みを過ごした。 


「安相君、君は心がおかしくなったところを見たことはないか? 周囲に同じ感情を持つ人がたくさんいたりすると起こる現象なんだが」


 文化祭の開始式のときに興奮する生徒に囲まれて心さんも昂ってしまったときのことだ。あれがきっかけで色々好転したので今となっては良い思い出だ。初めて手を握ったのもあのとき、そして告白を止められたのもあのとき。僕は滝さんの問いに頷いて肯定した。


「幼稚園の運動会なんかでも起こっていたんだけど、この震災でも起きた。今度は日本全体の悲しみや不安に取り囲まれてしまったんだ」


 自分も同じ感情になる、というよりは常にその感情の味を感じ続け、周りをその感情を持つ人に囲まれた状態になる。悲しみや不安に取り囲まれれば悲しくなるだろう。


「さすがに大きな事態だったからさくらは俺に連絡をくれた。でも俺は医療支援に行っていたし、後ろめたさがあったから心のもとに行くことができたのは半年後のことだった。心は泣き続けたそうだ。ずっと悲しんでいて、家から出ることもできなかったそうだ。俺が心に会いに行ったとき心のそばには心の親友という女の子がいた。たしか幸さんといったかな」


「増子さん……」


「そう、増子幸さん。悲しむ心のそばで幸せそうにご飯を食べたり、楽しそうに本を見たり、クラスメイトから応援の手紙を預かってきて心と一緒に読んだり、心にポジティブな感情を食べさせてあげようと頑張っていた。その子は毎日のように通ってくれていて、土日は泊りがけで心のために頑張ってくれていたそうだ。俺にできたのは心が悲しみから解放されることを願うことだけだった。幸さんの努力が実って心は悲しみから解放された。それから俺は二度と心に会わないと決めた。あんな大変なことになっても心に何もしてやれなかったから、その資格はないと思った」


 その後滝さんは医療支援に行っていた地域で、震災で夫を亡くした女性と知り合い、互いの心に空いた穴を埋めるように恋をしてその女性は滝さんの地元に引っ越し、しばらくして滝さんも戻り、出会ってから約二年後に再婚した。


「その女性には前の夫との間に子供がいて、君や心と同い年だった。名前は俊介。いじめが原因で中学生になる前に自殺した」


 もう乗り越えたと思っていた呪縛が再びやってくる。救えなかった俊介君の顔を思い出す。


 僕に助けを求めていたのに無視されて絶望する表情。得体の知れない何かが僕の胸を締め付けて、苦しくなる。


「五年生の二月頃かな、俊介は安相君のことを話していたことがある」


「え?」


 いじめられている自分に気づきながら無視をしたひどいやつだと言ったのだろうか。何を言われたのか、聞くのが怖い。


「俊介が空き教室で泣いているとき君はその様子を見たそうだね。そのとき君の後ろを俊介をいじめていた子たちが通ったそうだ。いつもならまた何か嫌がらせをされるところだったが君がいたおかげでいじめっ子たちは何もせずに通り過ぎていったそうだ。君もそのまま行ってしまうところだったから行かないで欲しいと言おうとしたが君は聞く前に行ってしまって、またいじめっ子が来るのではないかと思ったが、来なかったのでそのまま帰ることができたそうだ」


「偶然助けたことになっただけで僕は何もしていません。それに結果的に次の日から俊介君は学校に来なかったですよね……」


「その日、俊介は追い詰められていてもう死にたいと思っていたそうだ。でも君に助けられて、救われた気がして、もう少し頑張ろうと思ったと言っていた。次の日から学校を休んだのはこのこととは関係なくてインフルエンザにかかってしまったからなんだ。だから君は悪くない。悪いのは俊介をいじめた子たちと、気づいておきながら救えなかった俺たち大人なんだ。遺書には俺たち大人にとってもつらい内容が書かれていたけど、唯一書かれていた前向きな内容は君への感謝だった。偶然とはいえ君は俊介を一年長生きさせてくれていたんだよ」


 僕は何も言えなかった。結果として俊介君は自殺という道を選んだ。救えなかったことには違いない。でも、滝さんの言葉でほんの少しだけではあるが心が軽くなっていく。僕の後悔が完全に消えることはないが目の前が開けて光が見えたような気がした。


「俺が再婚した女性は前の夫と息子を失った。二人とも何も悪いことはしていないのに。悲しみに暮れる女性を俺は励ましたがその女性は見抜いていたんだ。俺がさくらや心に未練を持っていること。時が経つにつれて、心から逃げた自分の未熟さや愚かさに気づき、自己嫌悪に陥っていたこと。俺たちの関係はただの傷のなめ合いだったことを痛感して、彼女とも別れることになった。それからは後悔を抱えながら医師としてただただ忙しい毎日を送っている」


 どうすれば滝さんを、心さんを助けられる。滝さんの後悔から、心さんの矛盾から二人を救い出すために僕ができることは何がある。アイディアは一つある。だがそれはあまりにも都合が良すぎることで、さくらさんや心さんがそう簡単に受け入れることはないだろう。


「俺は、真さんにもう一度三春先輩と一緒になって欲しい」


 しばらく黙って話を聞いていた須藤先生が久しぶりに口を開いた。まるで高校生のときのような純粋な目で僕の隣でうなだれる滝さんを見つめる。


 滝さんはゆっくりと顔を上げて、須藤先生の方へ向いた。涙が溢れているが悲しみの涙ではない。きっとこの言葉を待っていたんだ。自分に自信を持てない滝さんはこの思いを誰かに言って欲しかったんだ。言ってもらえたから嬉しくて泣いているんだ。


「須藤……俺は」


「皆! 集まってくれ!」


 須藤先生が呼びかけると野球の試合をしていたおじさんたちがベンチの前に集まった。先生は滝さんがさくらさんとヨリを戻したいと思っていることを簡単に説明し、続けた。


「これは俺の勝手な願いで真さんの意志は関係ない。ただ、俺は高校時代に真さんと三春先輩を見て憧れた。野球と勉強しかなかった人生に恋という概念が生まれた。ああいう恋がしたいと思った。皆だってそうだろう? 野球部皆で二人を応援して、自分もいつかあんな素敵な彼女を作るんだって誓い合っただろう?」


 ベンチの周りの皆が頷いた。


「でも二人は勝手に別れた。あんなに応援して手助けしてきたのに俺たちの思いを無視して、別れやがった。だから俺たちも二人の思いなんて無視してやってやるんだ。勝手にセッティングして無理やりにでも話し合わさせてやる。もう一度くっつけばそれでよし。駄目なら駄目で真さんの未練が消えるまで徹底的に痛めつけてもらうんだ。そうやって二人を前に進ませるんだ。あのときの文化祭のように、俺たちでやるんだ」


 そして須藤先生は皆に頭を下げた。僕を含めて須藤先生以外の全員が驚く。それは唐突であまりにも綺麗な形をしていた。


「これは教師としての俺の願いです。俺が担任する生徒が二人、この問題に関わっている。色々考えて、何とかしようと行動している。どうか二人の思いが報われるように、協力をして欲しい。お願いします」


 反対する人は誰もいなかった。僕が考えていたアイディアは須藤先生と野球部の仲間たちによって実行されることになった。それが正しいのか正しくないのかは結果次第だ。


 それから僕らも入って試合が再開された。覚悟を決めた滝さんが投手を務め、捕手は須藤先生、打者は僕。野球経験はないことを伝えると変化球は投げないと言ってくれたが、四十代とはいえ甲子園出場投手。ど素人の僕が打てるはずもなくあえなく空振り三振となった。


 滝さんは清々しい顔をしていて、笑顔も増えた。図書室で見た卒業アルバムの写真のような爽やかな笑顔だ。

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