第31話 父親と母親

 出会いは高校一年生、同じクラスになった。滝さんはさくらさんに一目惚れした。後でさくらさんから聞いた話ではさくらさんも滝さんに一目惚れだったそうだ。滝さんが野球部に入ることを伝えるとさくらさんはマネージャーとして入部した。


 勉強では学年一位と二位を常に争う関係で、野球部では一年生から控え投手としてベンチ入りしていた滝さんをさくらさんは献身的に支え、その姿から部内ではほぼ公認のカップルという扱いになり、それは校内全体にも波及していた。


 お互いの気持ちはなんとなく分かっていたにも関わらず、勉強や部活の忙しさや照れくささからはっきりと気持ちを伝えることはなく一年が終わった。


 二年生になると須藤先生も入ってきて、滝さんは二年生にしてエースピッチャー、須藤先生も控え捕手としてベンチ入りすることになった。二年生から文系と理系のクラスに分かれるため医学部志望だった滝さんは理系、弁護士を目指すため法学部志望だったさくらさんは文系のクラスとなったが、二人の仲は変わらず恋人一歩手前の状態が続いていた。


 この年の県予選は惜しくも決勝で敗れたが来年こそはと部活にも力が入り、新チームで正捕手になった須藤先生と滝さんは一緒に自主練習をすることが多くなった。

激しいプレーも果敢に行う須藤先生は擦り傷などの小さな怪我を繰り返し、自主練習に付き合っていたさくらさんによくケアをしてもらっていたらしい。


 須藤先生は滝さんとさくらさんのなかなか次に進まない関係に我慢がならなくなり、二人を除いた野球部員全員で二人を恋人にする作戦を計画、実行しようとした。


 滝さんが三年生になった文化祭にてその計画は実行される。


「計画と言ってもただ野球部で劇をするってだけだったけどな。部活に勉強に忙しい中で皆睡眠時間を削って脚本とか何から何まで準備してくれて、俺とさくらは主役とヒロインを演じるだけだった。王子がさらわれた姫を助けるために冒険に出て、敵を倒して姫を取り戻してハッピーエンドっていう王道の物語だった。その最後に王子が姫に愛の告白をするシーンがあった。全校生徒が見守る前でまじかと思ったけど、そのおかげで最後の一歩を踏み出せた」


「……アドリブでキスをしたのには驚きましたよ」


「昔の話だ、もう忘れてくれよ」


 県予選で悲願の優勝。甲子園では一勝して部活を引退した。その後は勉強に一直線で二人で支え合い、卒業文集には夢と、夢を叶えたら結婚することを記し、二人そろって東大の希望する学類に現役で入学し、順調に夢を叶えていった。


 滝さんが研修医期間を終える頃にはさくらさんはすでに弁護士になっていて、二人は結婚した。


 二人とも地元で働く希望を持っていたので結婚を機に地元に戻った。そして心さんが生まれた。忙しかったが幸せな生活が続いた。しかし心さんが言葉を覚え始めたあたりから雲行きが怪しくなる。


「心はご飯を積極的に食べなくなった。いや、食べる必要がないことに気づいたと言った方が正しいのかもな。ご飯の時間になってもお腹一杯と言って食べようとしないことが増えた。自分でも診たし、知り合いのもっと優秀な医者にも診てもらったが、まともに食事をしていないのに心の健康状態は一切問題がなかったし、体もしっかり成長していた」


 やがて心さんが幼稚園に入るころになると語彙力や表現力、想像力も豊かになっていった。


「俺が仕事で疲れて帰ると心が聞くんだ。パパ疲れてない? 一緒に遊べる? って。あの頃から優しい子だった。幼いなりに医師や弁護士の仕事の大変さを理解していて、俺たちのことを気遣ってくれていた。子供にそんな気遣いをさせたくなかった俺は疲れていても大丈夫、遊べるよと言って心と遊ぼうとした。心は言った。嘘、パパ嘘ついてるでしょ。疲れてるなら一人で遊ぶってな」


 それから滝さんとさくらさんはある可能性を考えた。心さんは人の心が読めるのではないかと。だが実際は違った。心さんを観察したり、話を聞いたりすると、何も食べていないのに甘いとか辛いとか言うことが増え、幸せそうな人の近くにいると心さんも幸せそうに美味しいものを食べたかのような表情をすることに気づいた。


 幼稚園の先生にはご飯を食べなくても平気だからと伝えていたが、あるとき連絡がきた。喧嘩している二人の園児を心さんがいさめてくれたが不思議なことが起きたということだった。怒ったり泣いたりしていた二人が急に大人しくなり、同時に心さんがなにか不味いものでも食べたかのような表情をして、お腹一杯と呟いていた。


「科学的に考えればありえないことだ。でも実際にその事象を目にしてしまったら信じるしかなかった。心は人の感情を食べることができて、味でどんな感情か分かったり、食べることでその相手の感情を減らしていくことができたり、食べた感情を栄養に変えることができる。色々な実験と推察を経てこの結論にたどりついた」


「な、そんなことありえるんですか?」


 須藤先生は初めて聞いた衝撃の事実に驚愕している。口をあんぐり開いて滝さんの顔を凝視した。だが時間が経つにつれて冷静さを取り戻し、今までの心さんのことを思い出しているようだ。


「……確かに三春が何かを食べている姿は一度も見たことがない。思春期の女子特有のダイエットのためだと思っていたが……それにクラスの女子生徒から聞かされたことがある。三春は人の心が読めてるんじゃないかと思うくらい気が利く子だと」


「そういうことだ……話を続けよう」


 心さんは賢い子だった。どんどん言葉を覚えて、滝さんやさくらさんの感情を味から推理していった。特に嘘や誤魔化しをしているときの感情はとにかく不味いらしく、心さんは大嫌いだった。二人は嘘をつけなくなった。


「須藤、高校時代の俺のことをどう思っていた?」


「え? それは、勉強も野球も抜群にできて、三春先輩のことを大切にしていて、何をやるにも自信に満ちていて、あんな人間になりたいと憧れていました」


「そうだよな。客観的に見れば俺ってすごいんだよ。甲子園に出て、東大の医学部に現役合格、おまけに同じく東大に合格した美人な彼女もいて……でもそれは結果としてそうなっただけで、本当の俺は違うんだ。自信なんて一度も持ったことがない。俺は臆病で弱虫で、それなのに見栄っ張りだったから、口では自信があるように見せかけていたんだ。覚えてるか? 県予選の決勝、一点リードした九回裏の守備。その大会中一回もエラーをしなかった西高はその回三人連続でエラーをしてノーアウト満塁となった」


「はい。でもその後、真さんが三人連続で三振を取って優勝できたんです。皆がマウンドに集まったとき、俺が絶対に抑えるからミスは気にするなって言ってくれて、みんな安心して……」


「俺はあのとき逃げ出したくなっていた。本当は泣きたくてたまらなかった。でも皆が見てる。さくらが見てる。だから逃げ出せずにただ何も考えずに投げた。結果的にうまくいったが、俺が絶対抑えるなんて言葉は強がりでしかなかったんだ」


「それは真さんの実力ですよ」


 滝さんは気を遣った須藤先生の言葉に、首を横に振る。


「さくらのこともそうだ。俺は付き合い始める前からなんとなく両思いだとは感じていたがそれでもさくらが別の男と話しているところを見ると不安になっていた。須藤はよく擦り傷なんかを作っていてさくらに消毒してもらったり絆創膏を貼ってもらったりしていたから、それにも嫉妬していた。でも興味がないふりをした。嫉妬して焦っている姿をさくらや皆に見せたくなかった。勉強のことだって、いつも飄々として余裕そうにテストを受けているように見せかけていたが内心ミスをしたらどうしよう、順位が落ちたらどうしようという不安ばかりだった」


「真さん……それは弱虫なんかではなく普通の人間ですよ。人間なら皆抱いたことがある感情だと思います。臆病などではありません」


「それでも俺はこのことが露見するのが怖かった。今まで俺を褒めてくれた人、応援してくれた人、好きになってくれたさくらに見損なわれるんじゃないかと思った。だから大きくなっていく心に恐怖を感じたんだ。いつも虚勢を張っていることを心に見破られてしまうんじゃないかと」


「それでさくらさんと離婚を選んだ?」


「ああ、さくらと心のことは愛していた。でもあのときの俺は自分が傷つかない道を選んでしまった。ちっぽけなプライドのために心から逃げたんだ。心からは自分を捨てたと思われても仕方がない。実際それに近いことをしているわけだしな。さくらには他にもっと好きな人ができたから別れたいと言った。さくらに嫌われた方が未練を断ち切れると思ったから」


 面会については逃げ出した滝さんはもちろん、捨てられたと思っている心さんも希望していないので正式に面会したことは一度もない。ただ九月一日の心さんの誕生日や入学式、卒業式などの節目にはさくらさんが簡素なメールで近況だけは教えてくれている。


「あんなに愛し合って、支え合って、色んな人に支えられて一緒になったというのに、簡単に裏切った俺に怒ったから男なんていらないって言ってるんじゃないかな。それにさくら自身も弁護士になって最初の頃は東大出身っていう肩書きに助けられたこともあったって言ってたから、心にも東大を目指すように言ってるんだと思う」


 滝さんの今の感情を一言で表すなら後悔だ。悔しさが涙となって目に溢れていた。


 弱い自分を強く見せるために虚勢を張って生きてきた。なまじ優秀だったからその虚勢が本当になってしまって、周りからの期待はさらに高まり、自分の気持ちに嘘をつき続けなくてはならなくなってしまった。


 その嘘を最も愛すべき存在だった自分の娘に暴かれてしまう恐怖に勝てなくなって逃げ出したことへの後悔。離婚したのは心さんが小学一年生のとき、それから八年以上経っていて、もう心さんと過ごした時間よりも、逃げ出してから経った時間の方が長い。


 大人の男性がこんなに大粒の涙を流して泣く姿を見たのはいつ以来だろうか。

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