コイ心いただきます

高鍋渡

第1話 まるで女神のよう

 泣いているあの子を無視した。

 あの子とは二度と会うことができなくなった。

 あのとき手を差し伸べられたのは僕だけだった。

 あの子に寄り添って涙が止まるまで一緒にいれば救えたかもしれない。


 人を助けるのに迷ってはいけない。

 自分ができることをひたすらやればいい。

 それはその人のためになるし自分が後悔しないためでもある。


 まっすぐで優しい人になりたい。

 話を聞いただけで人を癒せるようになりたい。


 そう思って中学校の三年間を必死に過ごしてきた。

 どこまで理想に近づけたかは分からない。

 困っている人を見捨てたことは一度もなかった。

 できるだけまっすぐに、できるだけ優しく生きてきた。

 少しだけ罪悪感から解放された。


 次の三年間もそうやって生きていこう。 



 この日は三月にしては珍しく大雪だった。もともと三月になってもたまに積雪がある地域とはいえ、最近は降る気配すらなかったので油断していた。それは僕らに限らず大勢の人が同じだったようで高校入試の会場に向かう車の列は両車線ともに大渋滞を引き起こしていた。


 受験会場である県立西高校はもう見えているというのに、会場への入室時間の期限が近づいてきても一向に車列は動かない。ネットを漁ってみて分かったがこの先で追突事故が起きているそうだ。


「三月になって安心して冬タイヤから切り替えちゃったのかねぇ。雪の少ない地域から越してきた人だとやりがちだよねぇ」


 助手席で僕と同じくスマホでネットニュースを見ていた母さんが心配そうに呟いた。


るい、車じゃ無理だ。降りて走りなさい」


 運転席の父さんがミラー越しに僕に言う。この様子では入室時間に絶対に間に合わない。


 僕は試験中音が鳴っては困るので忘れないうちにスマホの電源を落とし、車から降りて西高校までの三、四百メートルほどの道のりを走った。普段ならなんてことない距離だが歩道にも雪が積もっていて走りにくい。同じことを考えている受験生はたくさんいて、さながら試験問題の前に会場にたどり着けるかの試験をされているかのようだった。


 なんとか会場への入室時間の期限十五分前には西高の校門までたどり着くことができた。夏休みに学校見学に来ていて試験が行われる部屋までのルートは覚えているし、学校の敷地内は高校の先生たちが今も雪かきを続けていて昇降口までの道がしっかり確保されているので、迷う心配も手間取る心配もない。ひと安心して校門をくぐろうとしたとき、誰かの泣き声が聞こえた気がした。


 渋滞する車道を挟んだ反対側には市内でも大きめのショッピングモールがあり、車道に面した駐車場から声が聞こえる。これから大事な試験だというのに僕は気になってきびすを返し、渋滞している車の間からショッピングモールの駐車場を覗いてみるとそこには一人で泣いている男の子がいた。おそらく小学生にもなっていない四歳か五歳くらいの幼稚園児だろう。


 渋滞でどうせ車は動かないのだからと車道を堂々と横切って男の子のもとまで駆け寄り声をかけた。


「君、どうしたの? 一人? お母さんやお父さんは?」


「うぇええええん! うわああああん」


 男の子は泣きじゃくっていて話ができない。心配で駆け寄ったのはいいものの、あいにく小さい子をあやすテクニックは持ち合わせていない。入室時間の期限が刻一刻と迫るが泣いている子を放ってはおけない。このままこの子を放置してここを去ってしまったら試験を受けられなかったことよりも後悔してしまいそうだ。見捨てるという選択肢は僕にはなく、かといって周りには他に頼れそうな人もいない。


「大丈夫だよ。僕がそばにいるからね」


 できる限り優しい言葉をかけても男の子は泣き止むことはなかった。それでも僕はこの子のそばに居続けた。どんなに話しかけても僕の言葉は届かなかった。


 入室時間の期限まであと五分となったとき、車道の方から誰かがこちらに向かって歩いてきた。


「君、どうしたの? 受験生じゃないの? もう行かないと」


 雪のように白い肌、それとの対比が美しい艶やかで長い黒髪は胸や背中辺りまであって、鼻筋はすっと綺麗で、潤いのありそうな唇、寒さのせいで少し赤らんだ頬までもが彼女を彩る要素となる可愛いとも美人とも言えそうな顔立ちの女の子が僕らの方に歩み寄ってきた。


 どこかの中学校の制服と思われるスカートをはいているが、上半身は厚手の白いコートを着ているのでどこの制服かまでは分からない。


 困り果てていた僕と泣いている男の子を救うために雪の中からやってきた美しい女神のようで、試験のこととか、男の子のこととか忘れて見惚れてしまった。


「君は西高の受験生だよね? もうすぐ時間だよ、行かないと」


「あ、いや、実は一期試験で受かってて今日は友達の応援に来ただけなんだ」


 とっさに嘘をついてしまった。彼女に余計な心配をかけさせたくないというつまらない見栄だ。それは簡単に看破された。


「嘘、私には分かる。君は嘘をついている」


「どうして……まあ、そうだけど、でも泣いているこの子を放っておけないんだ」


「放っておけないって気持ちは本当みたいだけど、でもいいの? 今すぐ行かないと間に合わないよ?」


「いいんだ。もう私立に受かってるし、もともと合格率は半々くらいだったから。この子を置いていく方が後悔する」


 都会の方の進学校は私立が優勢という話を聞いたことがあるが、僕らの住む地方の県では断然公立の方がレベルが高く、私立は滑り止めという風潮が強い。西高は県内トップの進学校だが、校則もゆるく自由な校風で学校行事も楽しそうだったから志望した。僕の成績ではぎりぎりというところだったがレベルを一つ落とした南高は、校則が厳しく行事も厳格なものばかりだと聞いていたので無理をしてでも受験した。


 彼女とやり取りしている間に入室期限の合図と思われるチャイムが鳴り響いたため、今となってはもうどうでもいい話ではある。


「なんて綺麗な……」


「え?」


「ううん、なんでもない。ね、僕? どうしたのかな? お姉ちゃんとお話ししよっか?」


 彼女は僕を見て何かを言いかけたが、すぐに男の子の方に向き直って優しく言葉をかけた。


 僕では全然駄目だったのに、不思議なことに男の子はみるみるうちに泣き止んでしまい、この事態に至った経緯を彼女に話している。


 ただ目を見て話しているだけなのに、男の子の悲しみとか不安とかがすぱっと消えてしまっているように見える。


「すごい」


「ん?」


 つい言葉が漏れて彼女がこちらを見た。目が合うとドキドキしてしまうくらい整った顔をしているが、僕はそれ以上に彼女の内面にときめいた。


 優しくて、話しているだけで癒されて、そんな人に僕もなりたいと思っていた。僕の心の中に何か熱いものがこみあげてきて男の子をあやしながら話を聞いている彼女を見ていたいのに恥ずかしくなって見ていられない。


 でも見ていたいから目線を向けると、彼女もときどき僕の方を見て安心するように笑いかけるので、余計にどぎまぎしてしまう。

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