第38話 打つ手はない

「どうしたの増子さん。君が泣いていたら心さんを助けられない……入るよ心さん」


 扉を開けて目に飛び込んできたのは、ベッドに横になりながら、新聞紙を引いた洗面器に向かって嘔吐をし続ける心さんの姿だった。僕に気づくこともなくひたすらに吐き続けている。  


 増子さんたちと一緒にスイーツを食べた以外は何も口にしていない心さんからは胃液くらいしか出ていないが、苦しそうに涙を流しながら吐き続ける姿を見ていられなくなって、僕は部屋の外に出て扉を閉めてしまった。


「……美味しい感情を食べさせれば治ると思って、美味しいもの食べたり、面白い動画見たりしたんだけど駄目だったんだ。そういう感情になれなかったんだ。あんなに苦しんでいる心を見て、楽しくなんかなれなかった。ごめん」


 泣きながら謝る増子さんを僕は責められない。僕も同じだったからだ。僕の恋心を伝えれば大丈夫だろうと思っていたけれど、心さんの姿を見てしまって僕もそんな感情を抱けなくなっていた。


 焦りや悲しみ、怒りといった様々なネガティブな感情をどうにかして抑えることしかできない。それでも諦めてはならない。美味しい感情を作るのが無理でもまだ何かできることがあるはずだと思い、もう一度部屋に入ろうとすると声が聞こえた。


「幸! 買ってきたぞ!」


 家の扉が開き尊琉たけるが入ってきた。尊琉の家は僕より心さんの家と近いから先に来て、嘔吐を続ける心さんのために経口補水液を買いに行っていたようだ。


「三春は大丈夫なのか? いったい何があったんだよ? いきなりこんなもの買いに行けって、どういうことなんだよ」


 尊琉が部屋の入り口で体育座りをして泣いている増子さんを問い詰める。それもそうだ、尊琉は心さんの力のことを知らない。増子さんは何も言わない。心さんの力のことを話したくないのではない、自分の無力さに絶望してしまい、尊琉の言葉が届いていない。



 さくらさんが部屋に入って心さんのそばに寄り添った。背中をさすってあげても、一向に楽になる気配は無い。開いた扉から尊琉も心さんの様子を見る。


「なんだよあれ、なんであんなに吐いてるんだ?なあ幸、類、何か知ってるのか? 救急車とか呼ばないのか?」


 増子さんは何も言えない。僕が説明するしかない。


「尊琉。心さんは人の感情を食べることができるんだ」


「こんなときに何を言ってんだよ」


 尊琉が怒り半分、呆れ半分といった口調で返す。


「本当なんだ。だから心さんはご飯を食べないし、綺麗な感情ほど美味しく感じるから中学の頃や高校に入りたての頃はあまり感情が美味しくない人とは付き合わなかった」


 それは尊琉も知っていたこと。まさかという顔で僕を見つめる。


「大勢の人の同じ感情を一気に食べすぎるとおかしな現象が起こるんだ。その感情の味をずっと感じ続け、その感情を持った人に取り囲まれた感覚になる」


「じゃあ、今三春は……」


「最近話題になってる合格発表のときの動画見た? あれのコメント欄、ひどいものだよ。あれを見てしまって、自分に向けられた下衆い感情に取り囲まれてしまったんだと思う。そういう感情は一番嫌いで、吐くくらい気持ち悪いって言ってた」


「そんなことが……」


「あるんだよ、実際に。今目の前で起きてる」


「どうすれば元に戻せるんだ?」


「ネガティブな感情に対してだったらポジティブな感情を与えてあげれば良いはず。でも、あんなに苦しむ心さんの姿を見てしまったら僕も増子さんも……尊琉もそうでしょ」


 尊琉も動揺していた。吐き続ける心さんの姿を見て、買ってきた経口補水液が入ったビニール袋を落としてしまうくらいには精神が揺れ動いている。


「安相君、それ持ってきてくれる?」


 さくらさんが尊琉が落としたビニール袋を指して僕を呼んだ。


「少しだけ嘔吐が治まるタイミングがあるからそれを飲ませてあげて。口に含ませるだけでも構わない。体や顔は私が支えるから、お願い」


 ペットボトルのキャップを外して心さんの口元で待機する。しばらくすると本当に吐き気が治まるタイミングがあった。この隙に何とか飲ませないと体中の水分がなくなって脱水症状を引き起こしてしまう。


「る……い?」


 心さんの口にペットボトルを近づけると心さんと目が合った。どれだけの涙を流したのだろう。目は真っ赤に腫れていて見てるだけでつらくなってしまうが、必死にこらえて君を助けたいと強く思う。


 心さんの唇に飲み口をつけるが顔の角度的にうまくほとんど飲ませられずこぼれてしまう。なるべくベッドにかからないように手のひらで皿を作ってこぼれた分を受け止めた。何か良い方法はないかと辺りを見渡すが、周りは心さんの女の子らしい部屋の光景が広がっているだけで使えそうなものはない。


 出入口で呆然とこちらを見る増子さんを見つけた。


「増子さん、ストロー持ってきて」


「……え?」


「ストローだよ! 感情を作れなくても僕らにできることはまだある。諦めちゃだめだ。少しでも心さんを楽にするんだ!」


 僕の言葉に増子さんははっとして動き出した。 


「大丈夫、今増子さんがストローを持ってきてくれるよ。だから、大丈夫」


 僕はそう言って、僕の手のひらに溜まった経口補水液を啜る心さんを安心させようと優しく声をかけた。心さんは虚ろな目をしたまま僕の手のひらに溜まった経口補水液を飲み干した。


 増子さんがストローを持ってきてくれて無事に水分を取らせることはできたが、またすぐに心さんは嘔吐を始めてしまった。今飲んだ分もほとんど吐いてしまっているだろう。 


「頑張るのよ心。つらいかもしれないけど水分を取らないわけにはいかないの。何度も繰り返すしかない。皆ついていてくれるから頑張るのよ」


 さくらさんが必死に心さんを励ます。


「あの、こんなにつらそうならさすがに病院に連れて行った方が……」


「病院に連れて行っても心の状態は理解してもらえない。病院では根本的な原因を解決できない。心を救えるのは事情を理解していて、心が好いてる感情を持った人だけ。それに医者ならもう呼んである」


「え?」


 ちょうどそのときインターホンが鳴った。

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