第43話 フルコースは終わらない
ここは心さんの部屋だということを思い出し、さらには薄ピンク色のパジャマ姿の心さんが目の前にいることを再確認すると何だか緊張する。
心さんはベッドに腰かけて、ベッドの脇に座っていた僕に笑顔をくれた。
もう、大丈夫そうだ。
「コース料理を頂いちゃった気分」
「満足頂けたかな?」
心さんは少し意地悪そうな笑みを浮かべて僕に言う。
「最後が全部好きって言葉だったから、実質好きなところ九十九個なんだよね。もう一個欲しいな」
「うーん、そうだな、たまにこんな風に僕を困らせるところが好き。どう?」
「うん、満足。私にとっては最高のフルコースだった……類君、皆、ありがとう」
心さんは立ち上がって皆に頭を下げた。さくらさんが心さんを抱きしめる。その目には涙があって、心さんもさくらさんを抱きしめ返した。
「お父さん」
お母さんから離れた心さんが滝さんを呼んで、抱きしめた。
「来てくれてありがとう」
「うん……」
滝さんはまだ抱きしめ返すことができない。でも時間をかければいつかは抱きしめることができる日が来ることだろう。
「こころー」
滝さんから離れた心さんに増子さんが飛びついた。心さんは勢いでベッドに押し倒され、二人の身体がバウンドした。僕は驚いて立ち上がった。
「よがっだ、ほんどに……」
泣いている増子さんを心さんは優しく抱きしめる。
「いつもありがとね、さっちゃん。それと……良かったね」
「うん……」
「尊琉君も、ありがとう」
「おう」
そして心さんはベッドの上で上体を起こし、さくらさんを見た。さくらさんが頷くのを確認すると、僕の方をじっと見つめる。
心さんはこの一連の恋心の摂取をコース料理と言った。たくさんの人のそれぞれ好きな相手へ向けた恋のメッセージ、尊琉と増子さんの長年想い続けていた恋、そして僕の百個の恋心。でもこれらは前菜に過ぎない。メインディッシュはまだ味わっていない。
「類君、もう気づいているかもしれないけど、私、類君のことが……」
メインディッシュにはもっとふさわしい場所がある。
僕は右手の人差し指で心さんの唇をふさいだ。必然的に目が合う。僕の目は心さんにどう見えているだろう。優しくて凛々しい表情をしているつもりだ。心さんは目を見開いて驚いていて、何も言えなくなっている。僕はそれを確認すると指を離した。
「明日は一緒に文化祭に行こう。朝、迎えに来るよ」
僕はそう言うと心さんの返事は待たずに部屋を出ようとする。文化祭開始式の日に心さんにやられたことをやり返したつもりだったが、あれは二人きりだからできる所業であって人前、しかも相手の両親がいるところでやるのには恥ずかしすぎる。
そして心さんの部屋で、パジャマという薄着で、涙や汗なんかで色々湿っていて、増子さんに押し倒された衝撃で色々はだけている心さんを見ていると耐えきれなくなったからだ。
「
尊琉を促して、恋のぼりを持って心さんの部屋を出た。
僕は恋のぼりを運び出す間も、心さんの唇に触れた右手の人差し指をそのままの形にしていた。とりあえずは恋のぼりを一階まで降ろし、玄関に置かせてもらって、手持無沙汰になって指を見つめた。
「その指どうすんだよ。舐める?」
尊琉にからかわれたがそうしたい気持ちもあったり、さすがにそれはと思う気持ちもあったりでどうにもできない。それを見ていた滝さんが僕に声をかけた。
「水を差すようで済まないが、心はついさっきまで嘔吐を繰り返していたから唇にも
お医者さんに言われては仕方ない。大人しく水道を借りて手を洗い終えると、着替えを手伝っていたさくらさんが降りてきた。
「一応体調を診てもらえる?」
「ああ、分かった」
滝さんが再び心さんの部屋に入って行くとさくらさんが僕らのそばに近寄ってきた。今までに見たことがないくらい穏やかな表情をしている。
「安相君、西本君、今日は本当にありがとう。あなたたちがいなかったら心はいつまで苦しんでいたことか分からなかった。本当にありがとう」
さくらさんの目にも涙が溜まっている。厳しく当たりながらも心さんのことを愛していた証拠だと思う。
「少しお話してもいいかしら。リビングの方で……」
「あ、俺はパスでお願いします。母ちゃんにまた来てもらってこいつら学校に運ばなきゃならないんで」
「西本君のお母さんがこれを運んでくれたの? 私もお礼の挨拶を……」
「いや今日は大丈夫です。そのうち喫茶にしもとに来てくださいよ。じゃあ類、こっちは俺一人で大丈夫だから。学校に行ったらクラスの連中と一緒にまた設置しとくよ」
「うん、お願い」
尊琉の気遣いをありがたく受け取り、僕はさくらさんと三春家のリビングへと移動した。大きなテレビに高そうなソファー、立派な観葉植物、優秀な弁護士って冷泉さんが言ってたらしいし、稼いでいるんだなあなんてくだらないことを考えながらキッチンに行ったさくらさんのことをソファーに座って待った。
「どうぞ」
「ありがとうございます。あ、これって」
さくらさんが持ってきてくれたのはティーカップに入った紅茶。まだティーバッグは入ったままで、謎の小皿も一緒にくれた。
「もう少し待ちましょう。これはあなたが心にあげたものと同じもの。心が一緒に飲もうって分けてくれて、美味しかったから自分でも買ったの。今までコーヒーばかりだったけど紅茶もいいものね」
心さんもお母さんに歩み寄ろうと頑張っていた。その手助けをできたのは我ながら良いプレゼントだったと思う。
プレゼントしておきながらティーバッグで抽出した紅茶を飲んだことがない僕はいつまで待てばいいのか分からず、さくらさんが自分の分に手を付けるタイミングまで待つことにした。
「心は何でもよくできる子だった」
さくらさんが手元のティーカップを見つめながら言った。
「勉強も運動も家事全般も、教えられたり、見たりすればある程度はすぐにできるようになった。味の感じ方が人とは違うから料理だけはまだまだだけど。性格も優しくて一生懸命で頑張り屋。あの人と別れることになってからもっと何でもできる子に育てて、一人でも生きていけるように育ててきた」
さくらさんがティーバッグを取り出し、小皿に乗せた。僕も真似をする。飲んでいいタイミングだと察して口を付けると、柑橘系の良い香りがした。どんな種類かも分からないけれど飲みやすくて好きだ。
「でもあの子は私が思っているよりも未熟で、それなのにしっかり育てられたと思っていた私は親としてもっと未熟だった。もっと心に寄り添うべきだった。あの子は一人でなんか生きていけない。昔、幸さんに助けてもらったことがあったのに月日が経って忘れてしまっていた」
さくらさんは紅茶を一口飲み僕に微笑みかけた。やっぱり親子だ。心さんにとても似ている。
「勝手なことを言っているのは分かってる。でも安相君、心にはあなたが必要だと思う。あなたが良ければこれからも心のことをどうかお願いします」
初めて会ったときや、三者面談のときの厳しい表情のさくらさんはいない。心さんをそのまま歳をとらせたような綺麗な笑顔を見せるさくらさんがいるだけだった。
僕はずっとこの瞬間を待っていた。僕の返事は決まっている。
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