第18話 夕焼け空の下で

 心さんから感情を食べる力があることを聞かされたときと同じような夕焼け空だった。心さんの長い髪が風に吹かれてなびく。風上に向かって少し顔をしかめながら髪を抑える心さんとバックに広がる夕焼け空は、恋愛物の創作物のワンシーンみたいで僕を見惚れさせた。


「前にも話したことがあるけど、私は恋の味が大好きで恋愛小説とかドラマとかアニメとかが好きなの」


 心さんは両手を大きく横に広げて空を見上げる。抑えを失った髪が無秩序に広がる。シルエットが大きくなってその存在感がさらに増した。なんて美しいのだろう。この光景をずっと見ていたい。僕の目はもう釘付けになっていた。


「こういう素敵なシチュエーションで告白とか、一途な恋とか、秘めた思いとか、愛の力で困難を乗り越えるとか、そういうのが好きなの。そういう恋に憧れていた。でも現実はそうじゃない。すぐに別の人を好きになったり、性欲のために人と付き合ったり、メッセージアプリで軽く告白したり、気に入らないことがあればすぐ別れたり、好きでもないのに友達とのノリのために告白したり、とりあえず人気者だからって告白したり、そういう人ばかり見てきた。恋の味がしないのに恋をする人たちを見てきた」


 心さんは寂しそうに夕焼け空を仰ぎ見る。絵になるけれどそんな表情はして欲しくない。僕に何ができるのだろうか。


「潔癖というか夢を見すぎなのは分かってるけど、私の大好きな恋を諦めたくなくて、私は恋をすることを諦めた。やっぱり私は恋をしちゃいけないんだって思った。いつしか恋だけじゃなくて友達も作れなくなった。表面上仲良くしていても、私はその人の感情に納得がいっていない。なんで嘘をついているの、なんで誤魔化すの、にこにこ笑っているのにそんな美味しくない感情を食べさせないでって思うようになって、完全に苗字と名前で呼び分けるようになって、中学三年生になる頃には友達と呼べるのはさっちゃんと西本君しか残らなかった」


尊琉たけるも? そういえば最初は名前で呼んでたんだっけ」


「うん。ほんとはさっちゃんのこと好きなくせに友達とのノリで私に告白してきたからとがめる意味で苗字で呼んでるの。さっちゃんと幼稚園が一緒で小学校は違うけど同じスイミングスクールに通ってて、ずっと両片思いなんだよ。さっちゃんは西本君の感情を私に聞いてこないから教えてないけどね。二人みたいな恋は良いなあって思う。西本君、私に告白したときすごくつらそうで、わざと私に振られようとして申し訳ない気持ちで私の胸が好きなんて言ったんだ。二人と一緒にいるとすごく甘酸っぱくて美味しいの。類君も応援してあげてね」


 心さんは僕に微笑みかける。二人の気持ちを知っていて、二人のことを本当に考えていて、優しい心さん。その視界に僕も加わることができたけど、三人しかいない。


 心さんは強がってそれでも満足というかもしれないが、先ほどの興奮状態だった心さんはクラスメイトのことを名前で呼んで、仲の良い友達のように振る舞っていた。本当はああいう風になりたいのではないか、皆と仲良くしたいのではないかそんな疑問が僕の心には浮かんでいる。


「ねえ心さん。君は本当は……もっと皆と」


「うん、ほんとは皆と仲良くなりたい。でもできない。皆が悪いわけじゃない。私が臆病で少しでも傷つくことから逃げているから。自分の好きなものしか食べないわがままな人間だから。変わらなきゃって思うけど、頭では分かっていても私の味覚が拒否するの」 


 心さんはうつむいた。一滴、いや、二滴涙がこぼれた。やっぱりそうだ。心さんは現状を良しとしていない。心さんの気持ちを理解できる人間は誰一人としていない。嘘や嫌な感情が味として分かってしまうつらさを想像することはできない。増子さんや尊琉というわずかな外界との接点がありながらも心さんは孤独なのだ。


 困っている。泣いている。であれば僕の選択肢は一つしかない。


「僕には心さんの気持ちが分からない。僕は感情を食べることができないから。だから、君が美味しい感情の人としか仲良くしないことを否定しない。君にとって美味しくない感情を食べることがどれほどの苦痛か理解できないから。もちろん,ほんとは皆と仲良くなりたいっていう気持ちも否定しない」


 嘘や綺麗事は心さんに通用しない。本心をまっすぐに伝えるだけ。


「だから、仲良くなろうとして、嫌いな味を口にしてしまってつらくなったときはいつでも僕を呼んでよ。すぐに駆け付けて美味しい感情を好きなだけ食べさせてあげる。君が満足して、嫌な味を忘れるまで食べさせてあげる。だから皆と仲良くすることを諦めないで。君は無理に変わる必要なんかない。そのままでいい。ただ、僕を頼ってくれるだけでいい」


 今すぐにどうにかできる問題ではないことは分かっているから、心さん自身がどうにかしないといけない問題だと分かっているから、僕にできるのは支えること、見守ること、寄り添うこと。


 心さんは目を見開いて僕の顔を見つめた。きっと今、心さんを助けたいという僕の感情を味わっていることだろう。そして目を閉じて、噛みしめて、もう一度僕の顔を見た。


「ありがとう。勇気もらったよ」


 心さんは笑ってくれた。うつむいていた心さんを言葉で笑顔にできた。話すだけで人を癒せる人になりたいという僕の願いに、一歩近づけた気がする。


「たくさん話を聞いてくれてありがとう。ずっと抱えていたものを表に出せてすっきりした。類君のおかげだよ。戻ろ?」


 心さんは僕のいる出入口の方へ歩き出す。


 綺麗な夕焼け、綺麗な心さん、ずっと心の中で思っていたことを自然と口に出していた。


「心さん、僕は、君のことが……」


「……っ」


 心さんが右手の人差し指で僕の唇をふさいだ。必然的に目が合う。透き通るような瞳が、涙の粒できらめいて、魅了される。優しくて美しい表情だが有無を言わさず言葉を封じ込めさせる圧があって、僕が何も言えなくなるのを確認すると心さんは指を離し、「行こっ」と言って屋上から校舎の中へ入っていった。


 まだ、駄目ということだろうか。困惑と残念な気持ちで心さんの背中を追いかけた。

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