第12話 人助けの理由
小学五年生の二月頃のことだった。授業が終わった後、委員会活動があった僕は帰るのが遅くなっていた。友達と遊ぶ約束をしていたから帰り支度を済ますと大急ぎで教室を出る。僕らの教室の隣は空き教室になっていて、たまに授業などで使うときがあった。放課後は誰もいないはずのその教室から誰かの泣き声が聞こえて僕は足を止めた。
扉を開けて中を見てみると、机の横に立って泣いている男の子がいた。二年生のときに同じクラスに転校してきて少しだけしゃべったことがある子だった。その後はクラスが変わってしまい交流はない。
おとなしくて、人見知りな子だったから一人でいることが多かった記憶がある。名前は確か
その子のすぐそばにある机の中には教科書のようなものや数枚の紙が入っているのが見えた。机の上にも何枚か紙が広げてあったが荒々しい字で良くない言葉が書かれていそうなことは分かった。そもそもこの空き教室は色々な学年やクラスで使うので私物を置いていくのは絶対に禁止とされている。
僕は気づいた。あの子はいじめられている。荷物を勝手にこの教室に移動させられて、悪口を書いた紙と一緒に置かれたのだ。
その子と目が合った。涙を浮かべて、僕に助けを求めているのがすぐに分かった。でもあのときの僕は何をしたらいいか分からなくて、怖くなって、友達と約束があるからと言い訳をしてその場から逃げ出した。友達と遊んでいる間もあの子のことが気になって、明日ちゃんと話を聞きに行こうと思っていた。
翌日その子は学校に来なかった。次の日も、その次の日も来なかった。家を知っているほどの仲ではなかったから小学生の僕には打つ手がなかった。
そして六年生になって卒業直前の三月、その子が自ら命を絶ったという知らせを聞いた。
僕があのとき逃げ出す寸前に見たあの子の絶望に満ちた表情がずっと脳裏に焼き付くようになった。ニュース番組では不謹慎にもその子が残した遺書の一部が紹介された。いじめをした子たちへの怨嗟の他にも、見て見ぬふりをした人たちへの恨みが書かれているという内容だった。
見て見ぬふりをした人というのがまるで僕に向けて書かれていたような気がして、罪悪感を振り払うため、あの子のことを忘れるため、中学生になると勉強に部活に委員会活動、生徒会活動などがむしゃらに頑張った。忙しいとあの子のことを考えなくて済んだ。
それでもあの子のことをたまに思い出す。あのとき声にならなかった声で、助けを求めていたあの目であの子が話しかけてくる。「助けて」と。それが僕を苦しめた。逃げることはできなかった。泣いている人、困っている人がいたら決して逃げずに自分のできることは全部やった。
迷いなくまっすぐに人を助けたい。優しくなりたい。話すだけで人を癒せるようになりたい。そう思うようになった。迷うとあの子が出てくる。優しくないと助けられない。話すだけで癒せたらもっとたくさんの人を助けることができる。
頑張り続け、中学三年生になるとあの子の呪縛が薄まった気がした。許されたような気がした。話すだけで癒せるようにはなれなかったがまっすぐで優しい人間にはなれた気がした。
中学生活の最後に三春さんに出会った。話すだけで人を癒せる人間だった。僕の憧れだった。
僕にはこの人しかいないと思った。闇を振り払うためにがむしゃらだった中学時代に現れた光。最後に三春さんに会うことで乗り越えられた。
でも困っている人を助けることは僕の生きざまになっていて、これからも続けなければならない。また呪縛にとらわれないように。
だから今、僕の目の前を歩くおばあさんから鞄をひったくって自転車で走る男を必死に自転車で追っている。車道は仕事帰りの車でいっぱいで自転車が通るスペースがない。歩道もまばらではあるが歩行者がいて、植え込みや街路樹があって満足にスピードが出せない。そんなことを気にせずに危険な運転でスピードを出す犯人とは徐々に距離が開いていく。
それでも諦めるわけにはいかない。諦めたらきっとあの呪縛が戻ってくる。
犯人は住宅地の細い路地に入った。細かく曲がって僕を撒こうとしている。やがて左手に公園が見えた。犯人は公園は気に留めずまっすぐに走っている。確かこの先は丁字路になっていたはず。僕は走りながら鞄からスマホを取り出して犯人の後姿を写真に撮った。もし逃がしてもこの写真が手掛かりになることを祈って一か八か公園を斜めに突っ切った。
公園を抜けると丁字路を左に曲がった先の道へショートカットできた。犯人はこちらに向かってきていた。僕は自転車を降りて、犯人を自転車から引きずり落とそうと横から掴みかかる。
犯人は僕を振り払いながら走り抜けようとするが僕も必死に食い下がり、バランスを崩させ自転車と犯人ごと地面に倒れこんだ。顔や腕、膝辺りに痛みを感じる。それでも犯人は離さない。
犯人から抵抗され、体を殴られても離さない。誰か助けが来るまでこのまま捕まえていてやる。そう思っていたが犯人がおばあさんの鞄を投げ捨てたことに気を取られ、その隙に逃げられてしまった。
警察に事情聴取を受け、父さんと母さんが迎えに来た頃には夜の九時になっていた。僕の自転車は今日のところは警察署に置いて良いことになり、父さんが運転する車に乗り込んだ。
「怪我は大丈夫か?」
「うん、ちょっと痛いけどただの擦り傷だから大丈夫」
「そうか」
あっさりとしている父さんに対して母さんは心配性だ。
「人を助けるのは良いことだけど、自分のことも大事にしなさいね。帰りも遅いし連絡しても繋がらないし、警察から連絡が来たときは何事かと思ったんだから」
「うん」
「うんって、あなたは中学の頃からそうなんだから。いつも誰かのためにつらい思いをして、良いことをしてるからって何も言わずにいたけど、母さんたちをあんまり心配させないで」
「ごめん」
母さんには申し訳ないと思う。それでも僕は人助けをやめられない。怖いのだ。誰かを見捨てたらまたあの子が現れて僕の脳内で「助けて」とささやくのではないかと思うと自分を犠牲にしてでも救わなければならない。
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