第27話 ひとりの長野行きを知った関先生は絶句 🏫



 つぎの朝、なにかにつけて堪え性もなく噴き出す祖母のなみだを警戒した文子は「おばあちゃん、長野へ行ってもすぐにもどって来れるからね。食べ物と疲れに気をつけて、また貧血で倒れないようにね」と言い置いて、岡谷の製糸工場行きを明日に控えた和枝を伴い女学校合格の報告をするために小学校の職員室に関先生を訪ねた。


「おお、文子、来たか。今日はきっと来ると思って、さっきから待っていたぞ。そうか合格したか、さすがだな~」関先生は抱きしめんばかりによろこんで迎えてくれた。試験会場の様子や問題の内容などひととおり訊いたあと「それで、長野へはだれと行った?」と息を呑むように問うので「ひとりで行きました」文子は短く答える。


 関先生は急に無言になって文子から目を逸らし、机の上をじいっと見つめていたが「そうか、文子は長野まで、ひとりで行ったのか、そうか……」のどの奥をきゅっと鳴らすようにして呻くと、ふたたび無言になった。先生の机の横に立ち尽くした文子も和枝もなにも言えず、春休みの職員室に、のどかな時間が流れていくだけだった。



      *



 やがて顔を上げた関先生は、真っ赤に潤んだ目を真っ直ぐに文子に向け「いいか、文子、いつかも話したように、いまがおまえのチャンスだと思え。ひとりはさびしいだろう、心細くもあるだろう。無理もない、なんといってもまだ十二歳なんだからな、大人の庇護がなくちゃ生きていかれない年齢なんだから、なのに、なのに……」


 またしても言葉を詰まらせた関先生は、今度こそ自分自身を励ますような口調で「ひとりに鍛えられるんだぞ、人間は、な。いつもだれかと一緒にいては、自分という人間について深く考えるひまがないが、ひとりだとな、いくらでも深く掘り下げられる。だからな、成長するためのいい機会だと思うんだ、な」と言い継いでくれた。


 これほど自分のことを考えてくれるひとがここにいた。あらためて感懐に駆られた文子が思わず「先生にもひとりのときがあったのですか?」一歩踏みこんでみると「おおおお、そうだよ、こう見えて、先生にも苦しいときがたくさんあったぞ。それを乗り越え乗り越えしておまえたちの前の先生が出来上がったんだぞ」とお道化る。


 一昨年、腸チフスという大病を患って長く避病院に入院したときの職員室での冷遇ぶりや、もっと若いころ、同じ学校の女教師と恋愛結婚したことが周囲に波紋を呼んで辛い目に遭ったといううわさなど思い出した文子が黙っていると「だがな、文子、ひとりのさびしさを自分の外へ押し出してはだめなんだぞ」重ねて言ってくれる。


「孤独というやつはな、放っておくとおまえの心身を噛みにやって来る。その痛さに負けて外へ押し出しちまえばそれまでだ。そうでなくて、こっちから孤独を噛みに行ってやるんだよ。ガリガリ音を立てて盛大に噛んでやれ。そうすれば孤独はおまえの血肉に、より強く生きるための力になる」そう諭す先生の目は、もう濡れていない。



      *



 自分を取りもどした先生の教師魂は、文子と並んで立っている和枝に向けられる。「おまえの歩む道には文子と種類の異なる苦労が待っているだろう。いずれにせよ、生きていくことはどうしたって辛い。学校という枠を離れれば、苦しみと無縁でいられない現実がある。だがな、負けるなよ、先生の教え子の誇りをもって生きるんだ」


 にわかに自分の話題になって慌てた和枝は、目の前の先生が言うことの半分も理解できないという様子で曖昧にうなずいている。境遇のちがう教え子を見比べるようにしていた関先生は「これから本当の勉強が出来るのは、和枝のほうかもしれないな。女学校へ行く文子は製糸工場に行く和枝に負けるなよ」意味深長なことを言った。


 知らず知らず優位性を感じていた文子は、意外な思いで先生を見て、和枝を見る。「いまはわからなくてもそのうちわかる。ふたりとも辛いことがあったときそのことを思い出すだろう。太鼓楼の天井の世界地図を忘れるなよ。ふたりはどこにいてもつながっているんだ。きっとまた会えるさ」飄々とした先生の言葉は深く胸に沁みた。


 

      *



 和枝と再会をちぎり合って岡野の家に帰ると、義母と弟妹たちはまだ留守だった。もういい、よくよくわかったよ。豊母さんはわたしに会いたくないのだ、顔も見たくないのだ、わたしが長野の寄宿舎に入るまで帰って来ないつもりなんだろう。文子はさびしく覚悟しながら、ついさっきの関先生の言葉を支えに孤独に負けまいと思う。


 ひとりでむすめを出迎えた父は「受かってよかったな」短く言って、自分の素気なさを打ち消すように、呉服屋から届いた着物と袴と羽織を着てみるように言った。「おお、よく似合うぞ」珍しく相好をくずしかけたが「母さんたちがな、まだ帰って来ないから、その……寄宿舎の支度が出来ないんだ」言いづらそうに付け加える。


「父さん、大丈夫です、神木の良おばさんがなんでも用意してくださるそうです」「それなら今日のうちに長野へとんぼ返りするのか」「はい、良おばさんは夜間でも駅まで迎えに出てくださるって」「……よかったな、いいおばさんで……」親子とは思えないような会話だったが、文子の心はもう神木家の暖かい部屋に飛んでいる。




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