第3章 長野女学校の寄宿舎生活&父親との確執
第22話 十二歳にしてはじめて生家へ帰ったものの…… 👧
父への不信感を募らせる一方の文子をあらためて前に座らせた祖母が「いいかい、この家を出たら、もうあとを振り返ってはいけないよ。おまえは岡野の総領むすめとして前を向いて歩いて行くんだよ」と言ってくれたのは出発の二日前のことだった。文子の幸せを切に願う祖母は、ここまで育てた恩を忘れなさいと言ってくれていた。
その気持ちがありがたくて、でも本当は身をもぎられるように辛い祖母の悲しみが痛くて、真四角に正座した文子は身体と心とをふるわせていた。岡野が近づくにつれて憶病に重くなりがちな足を励ましてくれるのは「あちらじゃどんなにおまえの到着を待っているだろうね、いまごろは大騒ぎだろうね~」と励ます祖母の言葉だった。
そうだ、わたしは自分の家へ向かっているのだ、よそからもらわれて来たのでも、まして奉公に入るわけでもない、訳あって離れて住んでいたが、いまこそ正々堂々と門をくぐるのだ。つい逆もどりしたくなる気持ちをふるい立たせ、えいやっとばかりに造り酒屋の門を入ると、予想に反して、広い敷地内はし~んと静まり返っていた。
*
こわごわ格子から覗いてみると、帳場で父親の平太が帳面をつけている。長く日向を歩いて来た目には彫りの深い神経質そうな顔立ちに宿された影がくっきりと黒い。家中あげて手放しの歓迎を想像していた文子は、いきなり足払いされたような衝撃を受けた。文子を認めた父は「おお、来たか」その場で立ち上がってひと言だけ言う。
祖母に教えられたとおりの挨拶を述べながら文子は「母さんや弟妹たちはどこ?」奇妙に思っていることも付け加えずにいられなかった。すると父は気まずそうに目をそらせて(じつのところ、うつむいてばかりで文子の顔を見ていなかったのだが)「急な用事ができて、四人ともお豊の実家へ行っているんだ」ぼそぼそ言い訳する。
文子は思わず「え、なんで?! わたしが帰って来ることを知っているのに、みんなで泊まりに行くって、どういうこと?!」ほとばしるように口走ったが、父はいつもの優柔不断でむすめとの修羅場を乗りきろうというつもりか、陰気に押し黙っている。家中でご馳走を用意しておまえを待っているだろうよ……祖母の声が耳朶に湿った。
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そこへ長い前掛けで手を拭きながら現われたのは、お手伝いのお松さんだった。「これはこれは文子お嬢さま、ようこそお帰りなさいまし、お待ちしておりました」やわらかな口調と包みこむような笑顔の出現に文子のなみだは他愛もなく決壊し、「お松さん!!」わっと声をあげて丸い身体に抱きつく。しっかりと受け留めるお松。
「十二年ぶりの家に家族が待っていてくれないなんて、いままで思いもしなかった。お松さん、わたしはわたしは、これからどうすればいいのですか」むしゃぶりついて行く相手がちがうとはわかっていたが、心から可愛がってくれた祖母とは遠く離れ、父への期待は無駄だったことが判明したこの家で、縋れるのはお手伝いさんだけ。
悲しい現実を突きつけられた文子は惑乱し、絶望した。抱きつかれた背をさすりながらお松さんは「おかわいそうに、おかわいそうに……ええええ、このお松にはなにもかもがわかっておりますとも。よくわかりますとも。でもね、なぜと追及しても、ご自分が惨めになるだけ、知らない方がいいこともありますから」と言ってくれる。
(父は、父という大人は、いま、自分が大変な過ちをつくろうとしていることを自覚していない。いままで放って来たむすめが手もとに帰って来たそのときにこれほどの打撃を与えたら、ふたりのあいだに修復しがたい溝がうがたれることを……いまこそもっとも大事な瞬間であることを分別もできないほど、父の器は小さいのだろうか)
相変わらず暗い目を伏せていた父は「今夜は文子と休むから布団の支度を頼むよ」お松さんに言い置くと、用事があるからと出かけて行った。なさぬ仲の義母ばかりか実の父親までが来たばかりのわたしをひとりにするのか、なんという不人情だろう。文子のなみだはいつまでも止まらず、いっそ中田へ帰ろうかとまで思い始めていた。
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