第23話 もうなにも期待せず前だけ見つめて進もう 🪗
ものやわらかなお松さんの慰めで少し落ち着きを取りもどした文子は、にわかに先のことが心配になって来た。長野女子師範の入学試験に合格したとしても、春夏冬の長い休みにはこの家へ帰って来ることになるだろう。そのとき、自分を迎えてくれるのはお松さんだけかもしれない。どうかそのときもわたしを見捨てないでください。
真剣な顔で頼みこむ文子をやさしく見つめて「もちろんですよ、お嬢さん。ふふ、ごらんのとおりの身体ですから、どうか大船に乗った気持ちでいらしてください」と厚い胸を叩いてみせたので、この世の終わりとまで思い詰めていた文子は、ようやく笑顔をとりもどした。たったひとりでも味方がいてくれれば、それ以上は望むまい。
夕方近くに帰宅した父は「これから文子を連れて呉服屋に行って来てほしい」とお松さんに命じた。文子に着物や帯を新調してやりたいが、柄がわからないので選んでやってほしい。なんだ、到着したばかりのわたしを置いて呉服屋へ行っていたのか。ありがたいけど、わたしは新しい着物より父とむすめの時間が欲しかったのに……。
大役を任されたお松さんは「わたしなんかで本当によろしいんでしょうか」本気で困っている様子だったが、祖父の五郎と後妻は別宅に暮らしているし、ほかに女手もいないのでやむを得ないと覚悟を決めたらしい。泣き顔を腫らせた文子を連れて呉服屋へ出向き、さんざんに悩んだ末に、きれいな花柄の着物と羽織を選んでくれた。
*
夕飯にはお松さん十八番の鯉のあらいが出されたが、文子の気持ちは、いつぞやの叔父たちの嘲りを思って複雑だった。その席でさらなる驚天動地を知らされた。明日の長野行きに家族のだれも付き添えないというのだ。十二歳のむすめの生まれて初めての汽車の旅に、この大家族の大人の、だれひとり一緒に行かれないと、父は……。
これには給仕をしていたお松さんも真っ青になり「そんなことおっしゃらないで、旦那さま、どうか初めてのひとり旅に付き添ってあげてくださいまし」と取りなしてくれたが「いや、申し訳ないが、どうしても抜けられない用事があるのだよ。長野駅には親せきが出迎えてくれているから、なにも心配いらないさ」と言い張るばかり。
もう文子は泣かなかった。なみだの代わりに、十二年分の怒りと恨みが肚の底から噴き上げて来た。なんだろう、この男は(もはや父親と呼びたくも思いたくもない)どこかおかしいのではないか。ここまでの冷たい人格を醸成したのはむすめの文子によく似た薄幸な育ち? だとしたら自分もこうなるの? それだけは、絶対にいや。
(祖父母には申し訳ないが、先に待っている楽しみがあったからこそ、辛い別れにも堪えられたのだ。生まれて初めて父親に甘えられる、ふたりで汽車に乗って長野へ旅をする、竹の皮に包んだおにぎりを食べながら、いままでのことを心置きなく話せる。それは思うだに胸を高鳴らせる絵だったのに、はなからありはしなかったのだ)
*
父がいないところで文子は「わたしは今日のことを一生忘れない。忘れることはできないよ。わたしは中田で、大切なひとたちと別れてここへ来たんだよ。なのにこのありさまで……(´;ω;`)ウゥゥ」お松さんに訴えずにはいられなかった。「ほんとうに、おかわいそうなことで」手拭いを目に当てて、お松さんもむせび泣いてくれた。
(物心ついてより、わたしは父親からかけられる言葉をどれほどの思いで待っていただろう、それこそ喉から手が出るほど。たったひとつでいい親らしい言葉が欲しい。「長く待たせたな」「はじめてふたりになれたな」そう言ってくれさえしたら、いままでのことはことごとくないものとして、素直に「お父さん!!」と縋りつけるのに)
その夜、座敷にはお松さんが用意してくれた布団が父とむすめの頭が近くなるような配置で敷かれていた。足を炬燵に入れて暖かく休めるようにという気配りがありがたくて文子はふと胸を詰まらせかけたが、もう二度と泣くまいと歯を食いしばった。前だけ見つめて歩んで、一刻も早く職業婦人になり、中田の祖父母に送金するのだ。
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