第24話 生まれてはじめてのひとり旅で長野へ受験に 🛣️
蒸気機関車は威勢よく汽笛を鳴らして中田駅を出発した。ここで降りたら祖父母の家へ行ける。そんな気持ちとの闘いに文子の胸は揺れる。祖母と抱き合って別れを惜しんだのも、濃い不安と淡い期待を抱いて岡野へ行き現実を思い知らされたのもみな昨日のことなのに、今朝はもうこうしてひとりで汽車に乗っている自分がいる。
(まるで嵐の真ん中に放りこまれたみたいな昨日と今日。生まれてこの方、乳母の家から祖父母の家への移動はあったものの、おしなべて波風の少ない穏やかな歳月を送って来たが、これからはめまぐるしく変転する日々が始まるのだろうか。それにつけても、食うや食わずの貧乏暮らしで育ててくれた祖父母への恩愛の深さは……)
いまごろ和枝はどうしているだろう。春子とふたり母屋へ行って祖父母を慰めてくれているだろうか。和枝ちゃん、くれぐれもおばあちゃんをよろしくね。わたしがいなくなった家でさびしさに塗りこめられてしまわないように……胸のなかで手を合わせて祈っていると、ふたりで寝た夜、和枝が語った言葉が鮮明によみがえって来る。
「文子ちゃん、ほら、聴こえるでしょう、汽車があえいでいるよ。この坂どんな坂、土方の掘った坂ってね」「え、なんて?」「だから~、あの鉄道はね、母ちゃんたちがつくったんだよ」「土方って、ばばが?」「そうだよ、荒くれ男衆に混じって土を掘り埋め、そこへレールを敷いたんだよ」初めて聞く春子の過去に文子は衝撃を受けた。
(和枝ちゃん、ごめんよ。そんなことも知らずに、わたしってば威張っていたよね。さいごになって、やっと和枝ちゃんも言ってくれたよね「自分はいつも文子ちゃんの家来のようなものだった。母さんに、庄屋の孫の文子ちゃんには絶対に逆らっちゃいけないって言われていたから」そのことに慣れきっていたよね、本当にごめんよ)
それにつけても世の中はおかしい。女手ひとつで子どもを育てる春子は、身を粉にして働きに働いて、太陽と風にさらされた顔に深い小皺と鋭い眼光をつくっている。かたや手も身体も汚さない父の平太は、開通記念日に設立期成同盟会のひとりとして石碑に名を刻まれている。そんなの不公平過ぎる。和枝ちゃんに顔向けできないよ。
*
小さな風呂敷包みを抱えてぽつんとすわるお下げ髪の思いを乗せて、汽車は進む。六年生の教科書と鉛筆とナイフと消しゴム。明日の入学試験になくてはならない道具をいっときも手放さない文子を、周囲の大人たちはもの珍しそうに見ている。小諸で乗り換えだぞ、間違えるなよと父から言われていたので、緊張してホームに降りた。
(プラットホームがこんなに長いとは知らなかった。乗り遅れたら大変だから、遠くに見えるあの連絡階段を上って下りて、信越線の乗り場所に行かなければならない。ああ暑い、この季節に、わたしったら汗をかいている。着物の裾がまとわりつく脚がじれったい。早く早く、上って下りて、ここでいいのかな? ここしかないものね)
見当をつけたホームに行ってみたが、不安なので帽子に赤い線の入った駅員に訊くと「ひとり旅かい? 三等はずっとあとの車輛だよ」ぶっきらぼうに顎をしゃくる。田中、大屋、上田、戸倉、屋代、篠ノ井、川中島と過ぎると、つぎはいよいよ長野。駅前の人力車に「あがた町の神木さんまで」と告げればわかると父は言っていた。
(駅まで送ってくれた父さんは「わからないことは、なんでも、ひとに訊きなさい」と言っていたが、果たしてそういうものだろうか。中田のおばあちゃんなら「知らないひとに近づいちゃいけないよ」くどいほど念を押すだろう。父と祖母の言うことはいつだって正反対のような気がする。父の言うことを信じて本当にいいのだろうか)
おずおずと改札を出ると、駅前にはたしかに何台かの人力車が客待ちしていたが、日にやけた車夫のだれひとり小娘なんぞに目を留めようともしない。先頭の人力車に近づいて「あの、あがた町の神木さんまでお願いします」小声で言うと、えっ? 訊き返されたが「親せきらしいです」と告げると「ほいよっ」ひょいと乗せてくれた。
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